「見よ。私は、イスラエルの子らの間からレビらを取った[1]」と(主は)言っています。あなたは単純に、「私は、イスラエルの子らからレビ人らを取った」と言うことができます。しかし、イスラエルの子らの「間から」と、あなたが付け加えたのはなぜでしょうか。どのような「間」からでしょうか。すでに私たちが述べましたように、レビは、イスラエルの子らの中で第3子です。ですから、レビ人たちはどのような「間」から取られるのか、私としては知りたいです。私は聖書の中に、あの幸いなシュネムの婦人――彼女は、かつて、預言者を養いました――が、彼女に何らかの好意を示そうと望んだイスラエルの王に対して、自信をもって応え、次のよう言っているのを見出しました。「私は、私の民の間に住んでいる[2]」と。しかし私は、福音書の中に、私たちの救い主なる主に関して、もっと偉大で崇高なことが書かれているのを見出します。ヨハネは、次のように言っています。「あなた方の間に、あなた方の知らない方が立っている[3]」と。したがって、「右にも左にも、決して反れなかった[4]」方が、「間に立っている」と言われ得ると、私は思います。なぜなら、「彼は、罪を犯したことがなく、彼の口には偽りは見出されなかった[5]」からです。それゆえ彼は、常に立っていますから、(左右に反れることなく)「間に立っている」言われます[6]。しかしながら、彼のいかなる模倣者も、すべての聖人や、先ほど私が言及した幸いな婦人と同様に、「立っている」とは言われません――なぜなら、人が「右にも左にも決して反れなかった」ということはあり得ないからです。実際、「穢れのない人はだれもおらず、その一生は一日の如し[7]」――。これに対し、彼は、「民の間に住んでいる[8]」と言われます。このようなわけで、レビ人たちも、「イスラエルの子らの間から取られます[9]」。



[1] Nb.3,12.

[2] Cf.2R.4,8-13. ここに言及される「預言者」は、エリシャである。

[3] Jn.1,26.

[4] Cf.Nb.20,17.

[5] 1P.2,22.

[6] ( )は、訳者朱門による補足。これは、救い主の倫理的な潔癖さを示す。

[7] Jb.14,4-5.

[8] Cf.2R.4,13.

[9] Nb.3,12.

 

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