10 そこであなたは、神的な奉仕職の諸々の役務の中で、どのような区別が為されているか、どのようにして「諸々の聖なる物の諸々の聖なる物」が、物言わぬ動物たちによって担われるべきものとして差し出されているか、どうして人々は、理性的でなければならず、「諸々の聖なる物の諸々の聖なる物」に役立てられる諸々の器を「自分の肩で[1]」担わなければならないのかをお考えください。実に、より重く厄介なものは、理性的なものたちによってではなく、物言わぬ動物たちによって担われるべきものとして差し出されます。これらの事柄の内にも、何らかの違いが存在します。すなわち、より重く厄介な諸々の奉仕職を履行する人たちは、より多くの動物たちを所有します。実際、「四つの荷車」が、メラリの子らに与えられました。しかしゲルションの子らは、ケハトの子らに近かったため、彼らには「二つの荷車」だけで十分でした[2]。以上のことから、次のことが示されます。いわば粗大で厄介な諸々の業には、動物として有益なものが、多く存在します。しかし、諸々の理性的なものが携わる諸々の業には、少しの訓練や教育しか受けていないように見える動物の中から[3]、わずかのものが近づきます。実際、諸々の密かな事柄の内に隠され、司祭たちだけに明らかな数々の神秘的なものには、いかなる「動物的な人間[4]」も近づかないばかりか、何らかの訓練や教育を受けているように見えるものたちも近づきません[5]。彼らは、諸々の功績と生活とによって、司祭の恵みに到達していません。彼らは、それらの神秘的なものを、「鏡を通し、謎において[6]」見るにすぎず、覆いを掛けられ隠された状態で受け取り、「肩で」担います。なぜなら彼らは、それらのものを知識の啓示によってではなく、諸々の業の行使によって知るからです[7]



[1] Nb.7,9.

[2] Cf.Nb.7,7-9.

[3] ex his qui minus instructi aut eruditi videntur.

[4] animalis homo: cf.1Co.2,14.

[5] ne ipsi quidem habere aliquid exercitii et eruditionis videntur.

[6] Cf.1Co.13,12.

[7] quo scilicet magis ea (quae mystica sunt) actu operum quam scientiae revelatione cognoscant.

 

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