教会の諸々の戒律の中にも、すべての人が行う必要があるにもかかわらず、その理拠がすべての人には明らかでないものが少なからず存在します。たとえば、私たちは祈るとき跪きます。また、天のすべての方位の中で、ただ東の方角だけを向いて、私たちは祈りを奉げます。しかし、そのことの理拠を見出すことは、いかなる人にも容易でないと、私は思っています[1]。さらに、感謝の祭儀の理拠を理解したり、それが執り行われる祭式を説明したりすること、あるいは、洗礼において執り行われる諸々の事柄――諸々の言葉と行いと順序と質問と応答――の理拠を一体誰が容易に説明するでしょうか[2]。しかし私たちは、それらすべてを、覆い隠された状態ではありますが、私たちの肩で担います――私たちがそれらの事柄を、大祭司とその子らから伝えられ、推奨されたとおりに受け取り、遂行し果たすとき。ですから私たちが、それらの事柄やそれらに似た諸々の事柄を行いますが、それらの事柄の理拠を把握していない場合には、諸々の神的な神秘を、私たちは包み隠された状態で私たちの肩に乗せ、担います。ただし、私たちの内の誰かがアロンやアロンの子らであるなら、その限りではありません。なぜなら彼らには、それらの神秘を、覆いを取り除かれた剥き出しの状態で観ることが許されているからです。しかし、それらが他の人たちに与えられ、作業に移される必要が生じた場合には、覆い隠されるべきであることを、彼らはよく知っていなければなりません。



[1] オリゲネスは、『祈りについて』の中で、跪いて祈ることは従順の証であり(31)、東は教会の真の光キリストが将来する方角であるとしている(32)Cf.Tertullianus, Apol.16,10; Clemens Alexandrinus, Strom.VII, 43,6; Ps-Justinus, Q.et Resp.ad orthod.,118.

[2] Sed et eucharistiae sive percipiendae sive eo ritu quo geritur explocandae, vel eorum quae geruntur in baptismo, verborum gestorumque et ordinum atque interrogationum ac responsionum quis facile explicet rationem?;感謝の祭儀(euchatistia)については、『ヨハネによる福音注解』(XXXII, 24,  310–311)を参照せよ。彼は、感謝の祭儀(ユーカリスト)の霊的解釈をしばしば試みているが、その秘蹟としての性格を否定したことはない。

 

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