次に、レビ人たちについて、「二十五歳から五十歳までの者たち」は作業しなければならないと言われています[1]。「諸々物業の業へ、の幕屋を担う担うための諸々の業へ向かうすべての者[2]」と(聖書は)言っています。あなたは、ここで、聖書の諸々の言葉の区別に注意してください。イスラエルの子らの諸々の業について語られるときは、(聖書は)「諸々の業の諸々の業」と言わず、単なる「諸々の業」と言うだけです。それに対し、レビ人たちの諸々の役務について語られるときは、たんなる「諸々の業」と言わず、「諸々の業の諸々の業」と言っています[3]。実際、ある「諸々の聖なる物」があるとともに、他方で、他の「諸々の聖なる物の諸々の聖なる物」もあるのと同様に、ある「諸々の業」と他の「諸々の業の諸々の業」が存在します[4]。ここから、次のように私には考えられます。すなわちモーセは、ある可視的な諸々の業があって、そこに更に深い神秘的で隠れた意味が内在する場合には、それらの業を、たんに「諸々の業」とは言わず、「諸々の業の諸々の業」と言い、それに対し、公共的で、ただ現在にのみ関わる諸々の業が考えている場合には、それらの業をたんに「諸々の業」と名づけた、ということです。ですから、ある「諸々の業の諸々の業」が存在します。私は、目下の朗読でも、『出エジプト記』でも、あるいは他の諸々の箇所でも[5]、隠された諸々の神秘の内に、一部分は現在において、また他の一部分は未来において果たされるように定められているすべての事柄が、これであると考えています。しかし、それらの「諸々の業の諸々の業」は、任意の人にではなく、ただレビ人たちにのみ託されるべきであると命じられています。



[1] Cf.Nb.4,47 et 8,24.

[2] Nb.4,47.

[3] 訳者(朱門)は、sola operaを「たんなる諸々の業」、opera operumを「諸々の業の諸々の業」と訳している。

[4] Sicut enim sunt quaedam sancta, sunt autem et alia sancta sanctorum, ita sunt quaedam opera et alia opera operum; cf.Hom.IV,4.

[5] vel in praesenti lectione vel in Exodo et ceteris locis;この言葉によって、ギリシア語で語られた実際の『民数記講話』が、『出エジプト記講話』を受けてなされたことが暗示される。

 

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