「モーセは、民の許へと出、主の諸々の言葉を語った[1]」と(聖書は)言っています。モーセは、神の諸々の言葉を聞き、神から教えを受けている限り、(証の幕屋の)内側におり、内部に立ち、密やかな場所に控えています。ところが、群集に語るとき[2]、内側に立つことのできない民に奉仕するとき、彼は、「屋外に出る」と言われています[3]。一体この種の言葉は、どのようなことを含んでいるのでしょうか。それはすなわち、次のようなことです。教会のすべての教師と指導者が、より深い諸々の神秘について何らかの考察をし、神の知恵について何らかの密やかで隠された事柄を「完成の域に達した人たちの間で[4]」――彼らが諸々の深い理解の内に身を持している限りで――表明するならば、教会のすべての教師と指導者は、内側におり、内部に立っていると言われねばなりません。これに対し、「群集に語り」、屋外にいる人たちに有益で、大衆が聞くことができる事柄の数々を表明するとき、彼は、「屋外に出、主の諸々の言葉を民に語る[5]」と言われます。



[1] Nb.11,24.

[2] Cf.Mt.12,44; 13,36.

[3] 当時(三世紀半ば)のパレスチナおよエジプトの宗教的環境の中にオリゲネスの思想を位置づける上で、この「内側」(intus)と「屋外・外側」(foras)の概念は極めて重要である。その論拠の提示は、目下、執筆中の別稿に譲る。

[4] Cf.1Co.2,6-7.

[5] Nb.11,24.

 

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