10 すなわち同じ伝道者は、別の個所で次のように言っています。「死んでいる人たちの方が生きている人たちよりも善い[1]」。もしもあなたが、ここで再び、水子をそれらの人々と比べるなら、水子はそれらの両者にまさって善いと言うにちがいありません。生きている人たちが誰であるか、死んでいる人たちが誰であるかをあなたが考察するなら――水子の方が、この世の生活の吉凶を味わったことがない故に、彼らよりも善いにちがいありません[2]――、あなたは、この比較における違いがどのようなものであるかを見出すでしょう。そこで、あなたは、(伝道者が)ここで言及している「生きている人たち」は、『詩篇』で言われている人たちに他ならないことをお考えください。こう言われています。「しかし、生きているすべての人は虚栄である[3]」。ですから「虚栄の内に生きる」すべての人よりも(水子の方が善いです)。もちろん、すべての生活が虚栄の内にあるのではありません。肉に従った生活、数々の誤謬とこの代の諸々の快楽とに従った生活、これが虚栄の生活です。そして、このような生活に対して死んだすべての人は、この生活に優っています。彼は言います。「しかしこの世は、私に対して十字架に掛けられ、私はこの世に対して十字架に掛けられました[4]」。また、彼についてこう言われています。「あなた方は、キリストとともに死にました[5]」。ですから、これらの(死んでいる)人たちの方が、あの生きている人たちよりも善いです。しかし彼らよりも、水子の方が優っていると言われています。なぜなら水子は、肉の中に来たように見えますが、この(世の)生活の虚栄のいかなる発端も持たなかったからです。しかし伝道者は、その水子よりもさらに善い人を話題にしています。それについて彼は、こう言っています。「まだ生れていない人の方が彼らを超えてもっとも善い[6]」。まだ生れていない人とは、肉の母胎に包まれて、身体的な誕生という苦境に至らなかった人です。



[1] Qo.7,1.

[2] ここには、この時代(AD3C)のプラトン主義(霊魂先在節)が反映しているかもしれない。

[3] Ps.38,6.

[4] Gal.6,14.

[5] Col.3,3.

[6] Qo.4,3.

 

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