主によるこの脅迫は、はなはだ大きなものです。それは、神的な本性が激情的で、怒りの悪徳に服従していることが示されるためではありません。むしろ、それによって、他ならぬモーセの愛――彼が民に対して抱いている愛――と、一切の理解を超える神の慈しみが知られるようになるためです。実際、神は怒り、滅びをもって民を脅迫すると書かれています。しかし、それは、人が次のことを教えられるためです。すなわち、人が神の許で著しく大きな地位と大きな信頼を与えらているため、たとえ神の内に何らかの憤りがあるとしても、人の数々の懇願によってそれが和らげられるほどであり、人が神に願い、既に定められた数々のご自分の決定を変更してもらうようにすることができるほどです。実際、怒りの後に続く慈しみは、神の許でのモーセの信頼を明らかにしており、神的な本性が怒りの悪徳と無縁であることを教えています[1]



[1] 当時の話題になっていた神の擬人的表現の問題と、それに対するオリゲネスの成熟した考えが簡潔に述べられている。オリゲネスによれば、神は激情に動かされ(passibilis)、怒り(iracundia)の悪徳に陥る、ことはない。しかしそのことは、オリゲネスの神に情動の一切が欠落しているということを意味しない。彼にとって神は、不変不動の「概念神」ではなく、怒りの激情を本性的に超え、測りがたい慈しみを持つ「人格神」である。それゆえ神は、激情に囚われて前後不覚に陥ることは本性的にあり得ないが、測りがたい慈しみに動かされて何がしかの憤り(indignatio)を抱き――悪徳によって憤りを抱くのではない――、場合によっては(永遠不変の救いの計画の下に)みずから下した決定の数々を変更する。Cf.Hom.Ez.X,2:「怒りは、神とは異なる何かです。それゆえ怒りは、(神の)本性でもあるかのように、神に結びつくのではありません」;Hom.Nb.XXIII,2:「神的な本性は、一切の激情と、その本性に影響に影響を及ぼす一切の変化を持ちません」。オリゲネスは、「怒り」(ovrgh,)と「憤り(qumo,j)区別しているようにも見えるが、神の測りがたい慈しみの前提からして、問題にしない。それらの「情動」に関しては、後のキリスト教思想家たちの間で、「悪徳による怒り」(ira per vitium)と「熱意による憤り」(ira per zelum)が区別されるようになった。神の怒りに関する必読すべき文献は幾つかあるが、ここには紹介しない。ただし、数年前に或る外国語雑誌に掲載された「オリゲネスにおける神の激情性(受苦性)」に関する論文について一言すると、それは、どのような言い訳がなされようと、選択された主題それ自体からして明らかに贋作であると断言できる。それは、話題にする値打ちもないが、様子を見て論証することにしよう。

 

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