それに付け加えて、主は次のように言います。「あなた方の子どもたちは、本当に、荒れ野で四十年間、流浪の民となる[1]」。そして主は、その数がどのような神秘を含んでいるかを、過ぎのように言って明らかにします。「あなた方がその土地を偵察する四十日という数に従って、あなた方は、一日を一年とし、あなた方の諸々の罪を四十年間、背負わなければならない[2]」。私は、この神秘の諸々の秘密を解消することを恐れます。実際、私は、その神秘の内に、諸々の罪と諸々の罰の数が含まれているのを見ます。すなわち、もしもそれぞれの罪人に、一日の罪に応じて一年が罰として科せられるのであれば、また、罪を犯した日数に応じて、それと同じだけの年数が責め苦として費やされねばならないとすれば、私たちは毎日罪を犯しており、一日たりとも罪のない生活をおそらく決して送っていないわけですから、諸々の罰を解消するには、おそらく代々でも代々の代々でも十分ではあり得ないのではないかと、私は心配しています。なぜなら、かの民が四十日の過失に応じて四十年にわたって荒れ野で苦しめられ、聖地に入ることも許されなかったことの内に、諸々の罪の究明が委細になされる将来の裁きに似たものが示されているように見えます。あるいはもしかすると、諸々の善き業の何らかの報いや、各人が存命中に受ける諸々の悪しき業の報いがあるかもしません――アブラハムがラザロに関して教えているように[3]。それらのことを完全に知ることは、「父が一切の裁きを委ねた[4]」方を除いては、誰にもできません。しかし、罪の一日が罰の一年に算定されるということは、疑う余地のまったくない本書の中に明示されているだけではありません。『牧者』という小著の中にも、似たような諸々の事柄が示されています――ただしそれが、()文書として受け入れられるように思えるならばですが[5]



[1] Nb.14,33.

[2] Nb.14,34.

[3] Cf.Lc.16,19c.

[4] Cf.Jn.5,22.

[5] Cf.Pastor,64 (SC 53 bis);オリゲネスの時代には、もちろん、キリスト教の正典は確立していない。Cf..Hom.Lc.XXXV,3(拙訳)

 

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