22 しかし私たちは、使徒が「土の諸々の器」について続く箇所で何といっているか、もっと注意深く考察しましょう。彼は言います:「もしも誰かが、それらから自分自身を清めたなら、その人は、名誉のための器、聖化されて主に有用な器、すべての善き業に充てられる器となるでしょう[1]」。彼はこの箇所で、作られる器と作る器は、同じ一人の人間であると言っているように見えます[2]。したがってあなたは、人間の意図が行為主であり、人間の他の部分が、「名誉のために」あるいは「軽蔑のために[3]」作られる器に他ならないと理解してください。私たちの精神が諸々の善き事柄を選び、私たちを善き暮らしに導くなら、私たちを有用な器にします。しかし、私たちの精神が(諸々の善き事柄を)蔑ろにし、諸々の善き業から私たちの意図を切り離すなら、私たちは「軽蔑のための器」になります。もしも私たちの知性が泥だらけで、いつも泥のことや諸々の地上的な事柄について考えているなら、私たちは「土の器」と「陶工の諸々の手の業」になります。おそらくそれゆえに、泥だらけで地上的な精神を持ち、自分では把握できない偉大な数々の事柄について尋ね、「(神は)さらに何を嘆くだろうか。いったい誰が(彼の)意図に逆らうだろうか[4]」と言うような人が、使徒によって譴責されるのでしょう。使徒は、いわば泥だらけになった人に応えています:「人よ、あなたは何者か。神に言い逆らうとは。製作物が製作した人に、『どうしてあなたは私をこのように作ったのか』と言うだろうか[5]」。



[1] 2Tm.2,21.

[2] vas ipsum, quod fit et per quem fit, unus atque idem homo sit.「作られる」(fit)の対象と行為者が同一だということが意味されている。

[3] 2Tm.2,20.

[4] Rm.9,19.

[5] Rm.9,20.

 

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