朱門岩夫

オリゲネスの『民数記講話』研究

――第27講話・第28講話――

 

 わたくしたちは、旅をしております

Hom.Nb.XXVII,7


 

緒言

 私が訳出した『民数記講話』は、四世紀後半から五世紀初頭にかけて活躍したルフィヌスのラテン語訳で伝わる、オリゲネスの大分な作品『民数記講話』の最後の二つの講話である。本講話の聞き手は、当然、一般信徒である。その口調は、ときにオリゲネスの内心の篤き信仰の高まりを伝えつつも、いたって穏やか控え目である。これらの講話の概要を、不正確を顧みず敢えて簡単に述べると次のようになる。

 第27講話でオリゲネスは、『民数記』第33章を取り扱っている。ファラオの圧政に堪えかねてエジプトを脱出したイスラエルの子らは、モーセとアロンの手に導かれ、数々の宿営地を設けながら、エジプトのラメセスからヤーウェによって約束された聖地を目指して歩みを進めていく。しかし『聖書』の歴史的叙述には、文字どおりの意味によっては汲み尽くせない内容を持っている。イスラエルの子らが歴史的にたどった旅路は、また、新しいイスラエルの子らであるキリスト者のたどるべき旅路をも指し示しているのである。かつてイスラエルの子らが、数々の試練を堪え忍び、数々の宿営地を設けて約束の地に入ったように、地上を旅する新しい神の民は、神の掟を一点一画も疎かにせず、キリストに従って生きるならば、生前は諸徳の段階を次々と昇り、死後は罪を浄められ聖霊に心を洗われ照らされて完徳へと向かい、神の川たる天のヨルダン川にいたる。そしてここであらゆる点で浄められ、約束の地・神の国・天の国・楽園に入るにふさわしくされる。そして遂に完成の域に達した神の子らは、光り輝く神ご自身との対面し、過越の祭りを祝う。

 第28講話は、『民数記』第34章を取り扱っている。オリゲネスによると、この『民数記』の箇所には、イスラエルの子らがたどり着いた約束の地の区割りと領地(嗣業地)の配分とが書き記されている。しかしやはりこの叙述も、文字どおりの意味では汲み尽くせない内容を備えている。地上の事柄は、天にある数々の善いことの影と像であるという考え方に従って、約束の地の区割りと領地の配分は、新しいイスラエルの子らが最終的に諸々の天で受け継ぐ嗣業地の区割りと配分に対応しているのである。新しい神の民は、生前の倫理的に功績に応じて、それぞれにふさわしい領地を分け与えられるであろう。中でも、完徳の頂にたどり着いた者たちには、エルサレムの神殿の中に入り、神に直接まみえ、真の過越の祭り(パスカ)やその他の祭典を真実に祝うことが許されるのである。

 『民数記講話』第27・28講話は、このように、神の国と完徳とを目指して旅をする新しい契約の民の倫理的進歩に関する、オリゲネスの仮説的な見解が、総合的にしかもとても解りやすく述べられている。本講話は、オリゲネスの終末観や修道的霊性、そして、彼の思想の核心であると思われる過越思想を知るうえで重要な作品であるといえよう。『キリスト教古典大系』(SC)の第29巻に収められた本講話のフランス語訳を担当したA.メアは、その序文で次のように述べている。

 「彼(オリゲネス)は、他の著作で自分の考えを独占した純粋に思弁的な問題には満足しなかった。彼は(信仰)生活に関係する教えを探求したのである。ルフィヌスが私たちの講話の序文で言っているように、彼は、聞き手を怠惰から救い出し、彼らにより高度な思想を吹き込もうとした。要するに彼は、彼らを神に導こうとしたのである。彼の数々の注解書は小さな(弟子たちの)グループに照準を合わせて、(その思うところを)大いに語った。(しかし)時間に催促され(与えられた)課題の必要に促されたこの講話は、いっそう単刀直入に本質的なものへと入っていく。このようなわけで、彼の数々の講話は、しばしば(その他の)大著に比べていっそう見事に、救いの道を、つまり、修道と神秘思想を叙述しているのである。『雅歌』についての幾つかの作品と除くと、人間と神との一致に関するもっとも豊かでもっとも感動的なオリゲネスのテキストは、『民数記第27講話』であろう」。

 オリゲネスの神秘思想を簡潔に伝える本講話の重要性は、他のオリゲネス研究者によっても認められている。私には異色であると思われる研究者を二人ほど挙げると、たとえば、正教会の神学者V.ロースキィーは、対面見神(antiprosopon theama)についてのオリゲネスの思想と神についての考え方を批判的に研究しようとして、この第27講話を取り上げている。また、A.スコットは、オリゲネスにおける復活後の魂の行く末と天体との関係を分析する際に、本講話を、『諸原理について』や『マタイによる福音注解』の関連箇所と並んで、頻繁に引用しているのである。もっとも、与えられた文献の意味の射程を超えて、ビア・メディアを唐突に強調するスコットの論述には、偏見が潜んでいることはいうまでもない。オリゲネスの思想は、常に慎重であると共に、聖書に秘められた思弁的宇宙論的な含蓄や神学的含蓄を、その極限まで展開しようとする、大胆な試みに満ち溢れているのである。

1994年12月21日

 


 

オリゲネスの『民数記講話』研究

――第27講話・第28講話――

 

1.オリゲネスの三重の聖書解釈と二重の霊的解釈

 H.ド.リュバクの優れた研究書『歴史と霊』によると、オリゲネスの聖書解釈の特徴は、聖書に書き記された(歴史的)事実や律法の文字どおりの意味に秘められた霊的意味を、聖霊に導かれながら明らかにしていくことにある。また、その霊的意味は、倫理的意味と神秘的意味とに分けられる。リュバクは、次のように言っている。

 「聖書はまず――少なくとも通常は――歴史的意味を含んでいる。それは、出来事の物語それ自体であり、あるいは律法の文書である。次にそれは、倫理的意味を含んでいる。それは(聖書の言葉から)魂になされる応用である。しかしそこにはまだ、キリスト教的与件が強引に入り込んでいない。最後にそれは、神秘的意味を含んでいる。それは、キリストや教会あるいは信仰のすべての現実に関係しているのである」。

 リュバクによると、そうしたオリゲネスの聖書解釈の方法は、『諸原理について』(IV,2.4)で表明され、『レビ記講話』(V,5)や『民数記講話』(IX,7)で具体的に使用され、『マタイによる福音注解』(X,14)で前提されているものである。

 実際、オリゲネスは、『諸原理について』第4巻第1章から第3章にかけて、霊的聖書解釈の方法を話題にし、その必要性を具体的に例証している。そこに述べられているオリゲネスの見解を、簡単に要約すると、聖書には文字どおり受け取っていい箇所はたくさんある。しかし聖書には、歴史的に見てあるいは理論的考えてみて、辻褄の合わない箇所がある。ところが聖書は、神の霊によって書き記されたものであるから、それらの不合理な箇所をないがしろにすることはできない。したがってそれらの不合理な箇所を無難に解釈するには、霊的解釈が施されねばならず、それこと聖書の作者たる聖霊の意図することなのである。この霊的解釈の根拠の一つとなる聖書霊感説については、本講話に先立つ『民数記第26講話』の3では、次のように述べられている。

 「(ルベン族とガド族およびマナセの半部族の嗣業地の配分に関して私たちが読んでいるこれらの出来事の語り手は、いましがた私たちが述べたような子供でもなければ、大人でもなく、老人でもありません。また、そもそも人間でもないのであります。もっと大げさにいえば、天使たちの誰かでもなければ、天にいる諸々の力ある霊的存在者の一人でもありません。先祖たちの伝承が主張しておりますように、聖霊がそれらのことをお語りになったのであります」。

 またオリゲネスは、『諸原理について』第4巻第2章の4で、聖書の意味を、人間存在の三重構造になぞらえて、身体的意味と魂的意味そして霊的意味とに分類している。身体的意味とは、文字どおりの歴史的意味であり、魂的意味とは、読者の信仰生活にかかわる倫理的意味に対応する。また、霊的意味とは、「天にある数々の善いもの」とか「来たるべき数々の善いもの」とも言い換えられる、完全な人たちに対してのみ開かれた「秘義としての知恵」を指し示している。この点で、この神秘的意味は、終末論的展望の中で捉えられた来世を指向するある種の予型論的意味であるともいえるだろう。ただし、『諸原理について』の全体を通して見ると、魂的意味と霊的意味の両者は、文字どおりの意味に対置されるとき、共に霊的意味として取り扱われている。また、こうした聖書の意味の三分法は、『民数記第4講話』の7には、字義的意味と倫理的意味そして神秘的意味として、姿を現している。

 当然、こうしたいわば三重の聖書解釈法は、ここに訳出した『民数記第27・28講話』にも、見出だされる。本講話においてそれに言及する箇所を幾らか引用しておくことにしよう。オリゲネスは、第27講話の2で、『民数記』に述べられたエジプト脱出の出来事の記事に関して、次のように言っている。

 「一体誰が敢えて次のようにいうでしょうか。主のみ言葉によって書き記されたことは、何の効用も持たず、また何の救いももたらさらさない。それは、単なる出来事だけを物語っているだけであり、それはその時にはたしかに起こったことであろうが、いまとなっては私たちに何の影響も及ぼさないと。そうした見解は不敬であり、カトリックの信仰とは無縁であります。それは、私たちの主イエズス・キリストのおん父が、律法と福音の唯一の知恵ある神であることを否定する者たちの見解なのであります」。

 オリゲネスはここで、聖書には字義的意味に加えて、私たちの信仰生活にかかわる倫理的意味があることを暗示しているのである。この倫理的意味が現代の我々にも影響を及ぼすことについて、オリゲネスは、『出エジプト記第2講話』の1の中で、もっと明瞭に述べている。

 「私たちは、(ファラオが発した男児殺害の命令とその後の出来事を始めとして、聖書の書き記されているすべてのことが、昔の出来事の物語としてではなく、私たちの訓育と利益のために書かれたものであることを知っております。ですから私たちは、いま朗読された事柄が、比喩的にエジプトと言われるこの世界で、いまも起こるばかりでなく、さに私たち一人ひとりの内でも起こると考えているのであります」。

 また、神秘的意味については、第28講話の1で、次のように言われている。

 主がイスラエル子らに割り当てられた領地の境界線について、「ところが、ユダヤ人たちには、それらの土地で侵略すべき他人の領地も、また、(その領地を)所有する力も、まったく残されていないとすれば、私たちは一体どうすべきでありましょうか。たしかに、ユダヤ人たちは、その土地から逃亡し追放者となって、(諸国を)流浪しているのであり、彼らが今日所有し守っているのは、神の律法が定めた領地ではなく、征服者たちの法律が定めた領地なのであります。教会の中でこれらの箇所を読む私たちは、一体どうすべきでありましょうか。もしも私たちが、ユダヤ人たちの(考える)意味でそれらの箇所を読めば、それらは私たちにとってたしかに余計なことであり、空虚なものに見えるでありましょう。・・・ (中略) ・・・ パウロはこう言っております。律法を通して奉仕する人々は、天にある数々のものの影と像に奉仕します。同じくパウロの考えによると、律法が――その一部分は私たちが(いま)取り扱っている朗読箇所ですが、その律法が――もしも来たるべき数々のものの影を持っているとすれば、その当然の帰結として、しかもまったく必然的に、律法の中に地上に関するものとして書き記されているものは、天にある数々の善いものの影でなければなりません。また、ユダヤで聖なる地や善き地と呼ばれる地(上)の嗣業地はすべて、天にある数々の善いものの像であるはずであります。また、地上にある数々の善きものとして語られているものは、私たちが申し上げましたように、天にある数々の善いものの影と像を堅く宿しているのでなければならないでありましょう」。

 ここでは、まさに、「来たるべき数々の善いもの」、「天にある数々の善きもの」が、神秘的意味として語られているのである。

 このようにオリゲネスによると、聖書に書き記された事柄は、歴史的次元を超えて、今日の私たちにかかわる倫理的な意味と来世の事柄を示す神秘的意味とを指し示していることがわかる。しかしオリゲネスは、そのような三重の聖書解釈法を必ずしも常に厳密に守っているわけではない。H.ド・リュバクが指摘するように、ところによっては、神秘的意味が倫理的意味と絡み合わさって、両者がほとんど区別できない場合もあるのである。しかし、本講話は、その名が示す通り、一般の聴衆を対象とし、彼らの建徳を促すことを第一の目的としているのであるから、神秘的意味が倫理的意味と絡み合い、区別できなくなってしまうのも致し方ないことであろう。

 しかしながら本講話には、このように、倫理的意味といわば予型論的な神秘的意味との区別が截然と守られていないとしても、なおここには、それに代わり得る、あるいは、それと重なり合う意味の区別がなされているのである。すなわち、オリゲネスは、『民数記』第33章以下に記載されたエジプトから約束の地に到るまでの道程の途上に設けられた、イスラエルの子らの42個の宿営地の名称を霊的に解釈する際に、地上での生活に関する解釈と死後の生活に関する解釈とを区別して、最後までこの二重の図式を守っているのである。この二重の図式、オリゲネス自身に言葉を使えば、「二重解釈」が使用されている箇所を二三引用することにしよう。

 第27講話の2:「さきの講話では、イスラエルの子らのエジプトからの前進に関してお話しをする機会が私たちに与えられました。そのとき私たちは、エジプトから各々の人が霊的に脱出することが、二通りの意味で考えられると申し上げました。すなわち、私たちが異邦の生活を捨てて神の律法の認識にいたる場合と、魂がこの身体という住居から離れる場合であります。としますと、モーセがいま主のみ言葉によって記述している数々の宿営地は、この二つの場合を指し示しているのであります。実際、魂が身体を脱ぎ捨て、いやむしろ自分の身体を新たにまとって居住することになる宿営地に関して、主はご福音の中でこう宣言しておられます。「おん父のもとにはたくさんの宿営地がある。そうでなければ、私はあなた方のためにこう言おう。私は行って、あなた方のために宿営地を用意する」と」。

 第27講話の6:「ですから私たちは、二重の解釈(duplex expositio)を使いながら、(いま)朗読されましたこれらの一連の宿営地をすべて考察して、この二つの解釈から私たちの魂の利益が得られるようにしなければなりません。つまり誤謬から回心して神の律法に従う(この世での)生活がどのようになされるべきか、また復活から約束される希望にどれほどの期待が寄せられるのかを、それらの宿営地から知ることによって魂の利益が得られるようにしなければいけないのであります。実際、私はこのように、(いま)読まれた箇所の中に、聖霊の律法にふさわしい知識が教えられると考えております。では、あのとき荒れ野を移動したイスラエルの子らが(宿営地を)設けた場所がどんな場所だと言われたのでありましょうか。一体このことを知ることは、私にどんな利益をもたらし、また、どんな利益が読者や「神の律法を昼も夜も考察する」人々にもたらされるでありましょうか。なんと申しましてもも私たちは、それらの宿営地の記述がもうこれで二度も神の律法の中になされるほど、宿営地の記述に対する神の配慮が大きかったことに気づくのであります。すなわち、イスラエルの子らが個々の場所を通って、ある場所から宿営地を引き払い、また別の場所に宿営地を設けたと言われたとき、これらの(宿営地の)名称が、(いまの場合と)少し違いますが、挙げられておりました。ところがいまの場合にも、これらの名称が、神のみ言葉を通して、もういちどモーセによって書き記されるよう命令されているのであります。ですから、この記述が再び繰り返されたという事実は、私たちが提示した、あの解釈の神秘にぴたりとあてはまるように見えるのです。すなわち、それらの名称は、魂の二つの旅路を明らかにするために二度繰り返されているのであります。一つの旅路では、肉の内に置かれた魂は、神の律法を通して、徳の中で鍛えられ、進歩のある種の段階を通して向上して、私たちが述べましたように、「徳から徳へと」進みゆき、進歩そのものをあたかも宿営地のように使います。もう一つの旅路では、魂は、(将来の)復活の後に諸々の天へと上昇して、しかし直ぐさま何の困難もなく頂点に昇るのではなく、たくさんの宿営地を経て(そこに)導かれていきます。そして、魂はその宿営地の中で個々の宿営地を通して照らされ、常にますます増大してくる輝きを受けて、個々の宿営地で知恵の光に照らされながら、遂には「光の御父」ご自身のもとにたどり着くのであります」。

 第27講話の9:「魂がこの世界を出発して、来たるべき世界に進みゆく場合であれ、魂が生活の誤謬から徳の旅路および神の認識へと回心する場合で ・・・ 」。

 要するにオリゲネスは、現世の生活と死後の生活について、言い換えれば、魂の二つの旅路についての二重解釈を一貫して行なっているのである。また、第28講話の全体にも同じ二重解釈法が使用されているけれども、その第28講話のほとんどすべてが、約束の地・神の国・天の国の地理の叙述に当てられていて、文字どおりの意味、すなわち、現世の生活は、ほとんど話題に登っていない。