2.深淵とアブラハムの懐

 キリスト者の信仰生活を地上の生活と死後の生活とに分けて、『民数記』の言葉を解釈しようとする、オリゲネスの「二重解釈」は、彼の宇宙観がどういものであったかのかのあらましを、ある程度私たちに教えてくれる。簡単にいえば、オリゲネスは、地上の事柄は天にある数々の善いものの影と像という考え方に従って、死後の魂が行き着く天上の世界の地理を、地上の世界とパラレルに考えている。以下では、いわゆる「深淵」と「アブラハムの懐」に焦点を当てて、それらがオリゲネスの宇宙観の中でどのような位置を与えられているかを、簡単に考察してみることにしたい。

 『民数記第27講話』の9には、第3宿営地「エタム」の名称の解釈として、「奥深い深淵」が挙げられている。この「奥深い深淵」は、悪魔や逆らう霊どもがいる谷間や低地として理解されている。したがってそれは、オリゲネスの『諸原理について』によれば、海中にあって、悪魔とその使者である手下どもがキリストによって上方から投げ込まれた「深淵」であると同一視することができる。しかし、それはまた、同じく『諸原理について』によると、罪を犯した理性的存在者が、死後に、降っていく地下の諸領域、すなわち、黄泉[練獄]あるいは地獄であるとも考えられる。他方、『民数記第27講話』の12には、第39宿営地「イイエ・アバリム」、すなわちルフィヌスのラテン語訳によれば、「ガイ」の名称の解釈として「混沌」が挙げられている。そしてこれは、貧しかった義人ラザロが憩う「アブラハムの懐」と黄泉の苦しみに浸る者たちとを隔てる「大きな混沌」として語られている。したがって、少なくともこの箇所から、アブラハムの懐が黄泉や混沌の上方にあり、混沌は黄泉の上に位置付けられていることがわかる。

 ところがオリゲネスは、このアブラハムの懐の所在に関して、その他の講話の箇所では、それが黄泉にあるとも、また、天国にあるとも述べて、矛盾する発言を残している。

 たとえばオリゲネスは、『民数記第26講話』の4で、さきに私たちが指摘した、彼の二重解釈が先人たちに由来するものであると断りながら、エジプトから霊的に脱出する人たちの行く末について次のように述べている。

 「エジプトかららの脱出の象徴が二つの仕方で把握されるということは、すでに私たちの先人たちによっても、また、私たち自身によっても、しばしば言われてきました。すなわち、人が誤謬の闇から認識の光へと導かれ、地上にあるものとの交わりから霊的な教育へと向き直るとき ・・・ (中略) ・・・ 。他方、私たちは、このようなエジプトからの脱出の象徴が、次の場合にも存在すると申し上げました。つまり魂が、この世界の闇と身体の本性の蒙昧さを捨て去って、別の代に連れていかれる場合のことであります。そしてその別の代は、ラザロ(の物語)にある「アブラハムの懐」や、十字架の上で信じた盗賊(の物語)にある「楽園」、あるいは、神だけがそのありかをご存じの、何らかの場所や別の宿営地として示されております。神を信じる魂はそれらの場所を通して、「神の都を喜ばせているあの川」にはるばる行き着き、その対岸で先祖たちに約束された嗣業地の分け前を獲得するようになるのであります」。

 この発言によれば、オリゲネスはアブラハムの懐を、楽園やこれに類似する場所と併置して、それらと同等視しているように見える。

 他方、H.クルゼルが豊富な参照箇所を挙げて明らかにしているように、オリゲネスは、アブラハムを含めて、キリストのご受難と黄泉への下降とを知らない旧約の義人たちはみな、死後に黄泉に降り、他方、新約の義人たちは死後、もやは黄泉へは降らず、楽園へと向かうとも考えていた。これによれば、オリゲネスは、アブラハムの懐を黄泉[練獄]に位置付けていたということになる。また、このことは、『ルカによる福音』の当該箇所の通常の理解とも一致するであろう。

 オリゲネスは、たとえば、『サムエル記上第28講話』の9で次のように述べている。

 「取り分け私の主イエス・キリストのご到来の前には、生命の木のあるところへ行くことは、誰もできませんでした。また、生命の木への道を守るために置かれたものを通り抜けることもできませんでした。「(神であるヤーウェは)生命の木へ通じる道を守るために、ケルビムとグルグルまわる炎の剣とを置かれた」と言われているのであります。一体誰が、その道を切り開くことができたでありましょうか。誰がその炎の剣を通り抜けられるようにできたでありましょうか。かつて、神と火の柱、すなわち、神に由来する光の柱の外には、誰ひとりとして海に道を開くことができませんでした。また、ヨシュアの外には――あのヨシュアは真の神の予型であります――誰もヨルダン川を渡ることができなかったのであります。しかしサムエルは、同じようにして、炎の剣を通り抜けることができませんでした。また、アブラハムもそうであります。このような理由で、アブラハムは、(黄泉で)懲らしめを受ける者によって見られたのであります。また、「数々の責め句の内にある金持ち」も、「彼方から見る」のでありますが、やはり「アブラハムを見ます」。そればかりか、彼は、「その懐にいるラザロ」をも見るのであります。ですから、太祖たちや預言者たち、またすべての人たちが、私の主イエス・キリストのご到来を待ち望み、そのおん方があの道を開いてくださることを渇望していたのであります。実際、私の主イエス・キリストは、「私は道である」、「私は門である」と言っております。そしてこの道は、生命の木へと通じているのであります。それは、「たとえあなたが火の中を通っても、炎はあなたを焼き尽くさない」ということが実現するためであります。では、それは、一体どんな性質の火なのでありましょうか。「(神であるヤーウェは)生命の木へ通じる道を守るために、ケルビムとグルグルまわる炎の剣とを置かれた」と言われております。ですからこのようなわけで、幸いな者たちは、あの場所で家令の務めを果たしながら、生命の木のあるところ、神の楽園のあるところ、園丁である神のましますところ、神の選ばれた聖なる幸いな者たちのいるところに入ることができず、これを渇望していたのであります」。

 このようにオリゲネスは、キリストの到来以前には、アブラハムも、またその懐も、黄泉あるいはその近域にあったと考えている。これを支持する箇所には、この他たとえば、『レビ記第14講話』の4がある。そこではアブラハムが、「地下の諸領域」で金持ちに語りかける者として描かれている。ところがオリゲネスは、これに対して、次に引用する『創世記第16講話』の4で、アブラハムの懐の所在に関して、決定的に矛盾する発言をしているのである。

 「実際、もしもあなたが、教会で朗読されていることや検討されていることなどから耳をそらすなら、あなたは疑いもなく、神のみ言葉に飢えることでありましょう。他方、もしもあなたが、アブラハムの根からでた子孫であり、イスラエルの民の高貴さを保つのであれば、律法はあなたを常に養ってくれるでしょうし、預言者たちもあなたを養ってくれるでありましょう。また、使徒たちも、豪華な宴会であなたをもてなしてくださるでありましょう。さらにご福音も、アブラハムとイサクとヤコブの懐で、すなわち、「おん父のみ国で」、あなたを宴会の席に着くように招くでありましょう。こうしてあなたは、いつの日かそこで、「生命の木」から食べ、「真のぶどうの木」からできたぶどう酒を、しかも、「キリストと共に、キリストのおん父の国で、新しいぶどう酒」を飲むことになるでありましょう。と申しますのも、「花婿の息子たちは、花婿が自分たちと一緒にいる」かぎり、それらの食物に乏しくなったり、空腹を覚えたりすることがありえないからでございます」。

 オリゲネスはここで、アブラハムの懐が、黄泉[練獄]ないしはその近傍にあるのではなく、永遠の祝宴が執り行なわれるおん父のみ国にあると言っているのである。

 しかし私たちは、アブラハムの懐を、たんに人間の死後に行き着くという観点だけから見てはならないだろう。さきほど私が引用した『サムエル記上第28講話』の9で言われた「イエス・キリストのご到来の前には」という言葉が示すように、オリゲネスは、アブラハムの懐を、キリストの到来以前と以後というより広い視野の下で捉えているのである。

 イエス・キリストによる贖いと救いのオイコノミアの通常の理解によれば、「黄泉に降り、三日目に死者の内から復活した」キリストは、その黄泉[練獄]にいる三日のあいだに、キリストの到来以前に死んでアブラハムの懐にいる旧約の義人たちに善き音ずれを告げ、黄泉から救い出したということになっている。同様にオリゲネスも、ラザロを含めアブラハムの懐にいる旧約の義人たちは、黄泉[練獄]の中でキリストの到来を待ち望み、その到来を待って初めてそこから救い出され、天国の楽園へと連れていかれたと考えているのである。

 オリゲネスはたとえば、『創世記第15講話』の5で次のように述べている。

 「他方、神が、『私は、終わりにあなた(ヤコブ)をそこから呼び戻そう』と言われたそのお言葉は、すでに私たちが申し上げましたように、代々の終わりにご自分のおん独り子が、世界を救うために、地下の諸領域にお降りになって、そこから原初の人間を呼び戻されたことを示す、と私は思っております。実際、おん独り子があの強盗に向かって、『今日あなたは私と共に楽園にいるだろう』と言われたそのみ言葉は、ただその強盗にだけ言われたのではございません。それは、すべての聖なる人たちに対しても言われたのであります。そしておん独り子は、これらの聖なる人たちのために、地下の諸領域に降っていかれました。したがって『私は、終わりにあなたをそこから呼び戻すだろう』と言われたそのお言葉は、ヤコブにおいてよりも、むしろこの後者のことにおいてなおいっそう真実に成就するでありましょう」。

 したがってオリゲネスによると、アブラハムの懐は、キリストの到来以前には、旧約の聖なる義人たちがいた黄泉あるいはその近傍を指すと同時に、キリスト到来以後は、アブラハムを含めた旧約の義人たちが、新約の義人たちと共に、赴く天の楽園を指していることがわかるのである。もちろん、クルゼルによると、オリゲネスは、旧約の義人たちが、キリストの到来以前に降っていったアブラハムの懐で、他の悪人たちと同様に苦しみを受けていたとは考えていない。オリゲネスは、『レビ記第4講話』の4で、黄泉[練獄]におけるアブラハムの懐とあの金持ちの境遇の違いについて、次のように述べている。

 「あなたは福音書の中に ・・・ (中略) ・・・ (ラザロと金持ちの)両者の、一体どのような結末が示されているのかをお考えください。福音書では、『ラザロは死んで、み使いたちによってアブラハムの懐へ連れていかれた。また同じく、金持ちも死んで、責め苦の場所に連れていかれた』と言われております。両者の境地が明らかに異なっていることに、あなたはお気付きになるはずです」。

終わり

 

初めに戻る