3.真作性・様式

 この『過越について』は第一部と第二部とに分けられている。第一部は『出エジプト記』12,1-11に述べられている過越の掟の逐語的な解釈に当てられ、第二部はその霊的解釈に当てられている。そして各部の最後には、「オリゲネスの過越について」という後書きが明記されており、各々の部の内容にもオリゲネスの他の作品で述べられている見解と平行するものが見出だされている。したがってこの作品のパピルス写本が、オリゲネスの作品の写本であることは疑い得ない。

 またこの『過越について』には、オリゲネスの講話に特徴的な、末尾で言われるべき栄唱も、またいつも栄唱に先立ってしばしば言われる勧告や激励、問いかけもなく、更にそれらが向けられるべき「あなた方」や「あなた」という言葉も見当らないことから、この作品は、説教壇から聴衆に向けて語られた講話であるとは考えられない。それはむしろ、二部からなる論文、論考である。

 ところで、ヒエロニムスは、エウセビオスの『パンピロスの生涯』の中に書き込まれているオリゲネスの著作目録に基づいて、オリゲネスの旧約聖書の講話には、『過越についての講話・八巻』があることを報告している。それ故、この『過越について』のパピルス写本は、元来は講話形式で書かれていたが、後続する伝承の中で論文形式に書き改められてしまったとも想像される。しかし『過越について』という首尾一貫し、それだけで完結した二部構成の論考を、ヒエロニムスの報告する八巻からなる講話と同一視するのには、論理的にも実際的にも無理がある。むしろオリゲネスの作品群を保管していたパレスチナのカイサレイアの図書館には、過越についてのオリゲネスの説教用の講話六巻が、この論考とはまた別に存在していて、それがエウセビオスによって、二部構成のこの論考と一絡げに、『過越についての講話・八巻』として報告され、それをヒエロニムスが伝えている、と考えるほうがもっともらしい。

 

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