5.動機

 既にオリゲネスは、『ヨハネによる福音注解』第10巻で、ヨハネの報告する『ユダヤ人の過越』(2,13)とパウロの報告する「私たちの過越」(I Cor.5,7)および『出エジプト記』に述べられている「主の過越」(12,11.27.43. 48)との違いについて聖書注解の本論から逸れる形で大雑把に論じて、真の意味での過越祭は無数の天使たちの内で祝われる「第三の過越」であり、これこそ「主の過越」であると言っていた。ところがオリゲネスは『過越について』の中では、この第三の過越にはほとんど言及せず、その代わりに『ヨハネによる福音注解』では少しも意に介されなかった過越の語源とその語の解釈を問題にするのである。すなわち『過越について』によれば、パスカ・過越の語は、受難を意味するギリシア語のパトスに由来するのではなく、移行を意味するヘブライ語のプァスに由来している。したがって「過越はご受難の予型ではなく、キリストご自身の予型である」(第14項)とオリゲネスは言うのである。過越という言葉の語義に関するこうしたオリゲネスの関心の変化あるいは強調点の変位は、オリゲネス(ca.185-251)とほぼ同時代に活躍し、多くの著作を残したと伝えられているヒッポリュトス(ca.170 -235)の論考に基づく同名の講話と比較するならば、首尾よく説明することができるだろう。

 このヒッポリュトスという人物については、その伝承に数々の食違いがあって確かなことは余り知られていない。しかしベネディクト会のB.ボット師がヒッポリュトスに帰せられている『使徒伝承』と東方諸典礼との綿密な比較研究によって推断したように、彼が三世紀前半に、キリストの位格をめぐって歴代の教皇――ゼフィリヌス教皇(在位198-217)、カッリストス教皇(在位217-218)、ウルバヌス教皇(在位222/3-230)、ポンティアヌス教皇(在位230-235)――対立し、後にポンティアヌス教皇と和解したローマ教会の司祭であることは、間違いないであろう。聖ヒエロニムスによれば、本書の著者オリゲネスも、215年頃ローマに数ヶ月滞在した折、ヒッポリュトスの教話を聞いたという。

 ところがP.ノータンは、ヒッポリュトスの所在について異議を唱え、ローマ司教と対立したのはヒッポリュトスではなくて、ヨシペスなる人物であり、当のヒッポリュトスはオリゲネスが居住していたカイサレイアにほど遠からぬ町アラビアのボストラの司教であったと主張して、ヒッポリュトスに関する研究者たちの定説を揺るがした。しかし考古学的資料と文献に裏付けられたボットの説得力のある推断と対照するならば、ノータンの主張は成功しているとは言い難い。

 ともかくこのヒッポリュトスの所在がどこであれ、彼の名前を冠して『過越についての講話』という作品が今日まで伝えられているのである。それがそのままの形では彼の手になるものではないことは確実である。しかし彼のその他の作品、取り分け『過越祭(復活祭)年代記』の中で簡単にその極一部が紹介されているヒッポリュトスの『聖なる過越について』という論考によって、その『過越についての講話』は、『聖なる過越について』という論考を土台にして講話の形に書き直されたものに過ぎず、ヒッポリュトスの原作を本質的に伝えていることが判明している。ヒッポリュトスは、その講話(論考)の第一部で過越を受難の意味で捉えて、『出エジプト記』の過越についての規定をキリストのご受難の予型という観点から取り扱い、その講話(論考)の第二部では、キリストのご受難とそれにまつわる様々な出来事を論じている。

 いわゆる伝聖ヒッポリュトスの『過越についての講話』の中で述べられているヒッポリュトスの過越についての扱い方が、オリゲネスの『過越について』の中に見出だされるオリゲネスの扱い方と絶妙な対照をなしていることは、両作品に目を通せば容易に知ることができる。パスカについての解釈は別として、両者の論の組み立ては酷似している。ヒッポリュトスがその講話・論考の第一部で過越を受難と見做して、『出エジプト記』の過越規定を解釈すれば、オリゲネスは自らの作品の第一部で過越を移行と見做して、『出エジプト記』の過越規定を解釈する。また、前者がその作品の第二部で旧約の過越の対型としての主のご受難に言及すれば、後者はその第二部で旧約の過越の対型としての主のご昇天・天への移行に言及するのである。要するにオリゲネスは、彼が『過越について』の中で「もしも私たちの内の誰かがヘブライ人たちのところに軽率に歩み寄って、パスカは救い主のご受難の故にそう名付けられたと言おうものなら、彼は、その呼称によって意味されるものが何であるかをまったく知らない者としてヘブライ人たちによって嘲笑されることだろう」(第1節)と言っているように、ユダヤ人ピロンおよび先輩のクレメンスによって打ち出されたような、カイサレイアを含むアレクサンドリア近辺のユダヤ・キリスト教思想に伝統的な解釈とでも言える「過越=移行」という考え方を保持したのであり、ヒッポリュトスはその伝統の外側にいたのである。こうした事情が、オリゲネスをして『ヨハネによる福音注解』の第十巻で粗描された過越解釈とは多少趣を異にする『過越について』を執筆させる動機であったと考えられる。つまり『過越について』の執筆の動機はヒッポリュトスの同名の論考の出現に対する一つの護教論的反応だったのである。

 

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