8.思想史的背景

 本書を読みそれを過たずに理解するには、本書の思想史的背景を把握しておく必要があるだろう。既に指摘したように、オリゲネスはパスカを移行と解釈する点で、いわばアレクサンロリアのユダヤ・キリスト教に伝統的な過越解釈を代表し、ヒッポリュトスは、パスカ=受難という過越解釈に立脚していた。そしてこうした立場の相違がオリゲネスをして『過越について』を書かせる動機となった。しかし本書の成立の直接的な動機がヒュッポリュトスの作品の出現にあったとしても、相異なる内容を持った両者の作品が登場したことそれ自体が、当時およびそれ以前にユダヤ教とキリスト教との間に、あるいはキリスト教の内部にあっても、過越の解釈をめぐって大きな論争があったことを、読者に予想させる。確かに、エウセビオスの『教会史』およびその他の著作家たちの作品や断片によって、二世紀の半ば以降に、過越の解釈の問題が、あの最後の晩餐を特別に記念する感謝の祭儀(今日で言う聖木曜日の主の晩さんの夕べのミサ)の日時をいつに定めるのかという問題と結びついて議論されていたことが知られているのである。主キリストの制定にかかる感謝の祭儀が教会の典礼としていつ成立したのかについては、歴史的な文献が乏しくて不明な点が多い。しかしイエス会のJ.ユングマン師が指摘しているように、それが、ユダヤ教の過越の祭りの諸慣行を踏襲しながら、イエスご自身によってそのご受難の前日にまったく新しい意味と実在性を込めて制定され、その挙行が集まって来た使徒たちに命じられていたことは疑いようがない。

 論争の発端はそもそも、キリスト教正典の一つ『新約聖書』に記されているイエスの最後の晩餐の日付の相違にあった。いわゆる共観福音書は、ユダヤ人が過越の祭りを祝うニサンの月――太陽暦の三月ー四月に当たる――の十四日に最後の晩餐を挙行し、その翌日十字架に付けられたと報告している。しかし『ヨハネによる福音』は、最後の晩餐が行なわれたのはニサンの月の十三日で、ユダヤ人の過越祭が祝われる翌日の十四日はイエスのご受難の日だと報告しているのである。これに応じて新受洗者が初聖体を拝領するのに一際相応しいキリスト教の過越祭すなわち感謝の祭儀は、ユダヤ人と同じように十四日に祝うべきだと主張する人々と、ユダヤ人の過越祭の祝日には囚われず、主が復活された日すなわち主の日たる日曜日にこそ行なわれるべきだとする人々が現われた。そしてこの論争を左右したのがまさに過越解釈だったのである。勿論、こうした問題は当初は人々の意識の昇ることば余りなかったようである。しかし洗礼志願者の要理教育の整備と拡充および教会の典礼の組織化に伴って注目され、幾多の論争を生み出した。共観福音書に従って新受洗者のための感謝の祭儀をユダヤ人の過越祭と同じ日のニサンの月の十四日に行なうべきだと主張する人たちは、伝統的に「十四日論者」と言われている。

 文献史上に残る最古の「十四日論者」は、サルデスのメリトンであろう。彼は165-170年ごろ、過越についての論考を書いていることが教会史家エウセビオスによって報告されており、その論考に基づく偽メリトンの『過越についての講話』によって、その論考の概要が知られている。彼によれば、感謝の祭儀は十四日に行なわれるべきで、パスカ(過越)は受難を表わすのだから、主のご復活の日である日曜日に行なわれる必要はないとされる。

 これに対して、ヒエラポリスの司教アポッリナリオス(ca.161-180)は、『過越祭(復活祭)年代記』にその極一部が引用された『過越について』の著作の中で、『ヨハネによる福音』の記述を拠り所にして次のようなことを言っている。最後の晩餐は、ユダヤ人たちの過越祭の前日に行なわれたものであるから、何もわざわざ彼らに合わせて感謝の祭儀の日取りを定める必要はない。その上、パスカは受難を意味するものであるから、ユダヤ人のパスカはその意味で、キリストのご受難の予型であって、感謝の祭儀の予型にはならないのである。

 三世紀初頭に活躍したアレクサンドリアのクレメンス(ca.150-ca.215)も、アポッリナリオスと同様に『ヨハネによる福音』に従って、「十四日論者」の説に反対している。『過越(復活祭)年代記』には、「しかしまたアレクサンドリア教会の最も敬虔な司祭であり、使徒たちの時代から程遠からぬ最古の人物であったクレメンスは、『過越についての』の著作の中で(アポッリナリオスと)同じようなことを教えている」とある。しかしクレメンスは、パスカに対してアポッリナリオスとは異なった意味を与えている。既にアレクサンドリアのピロンは、パスカを感性界から知性界への魂の「移行」・ディアバシスとして解釈していた。クレメンスはそのパスカ解釈を踏襲して、パウロの言葉(1 Cor.5,7)を援用しながら、パスカは、苦しみを受けて葬られ死者の内から復活して天に昇られたキリストを指すと考えたのである。

 そしてローマの聖ヒュッポリトス(ca.170 -235)がオリゲネスの同時代人としてキリスト教思想史の檜舞台に登場してくるのである。彼は、アポッリナリオスおよびクレメンスと同様に『ヨハネによる福音』に従って「十四日論者」と対決する。しかし彼は、パスカの意味に関しては、アポッリナリオスの解釈に戻っている。『過越(復活祭)年代記』に引用されたピュッポリュトスの『聖なるパスカについて』第一巻の言葉によると、キリストはユダヤ人と同じ日に「パスカをお食べになったのではなく、パスカを苦しまれたのである」。また彼の『全異端反駁』からの引用として次の言葉が報告されている。「キリストは、苦まれたとき、(ユダヤ人たちの)律法に適ったパスカをお食べになられたのではない。実際、この方は、予め述べ伝えられ、しかも定められた日に成し遂げられたパスカだったのである」。

 正統的なキリスト教の圏外に身を置いた著作家では、グノーシス主義者のヘラクレオンが、過越をキリストの受難の解釈していることを、オリゲネス自身が『ヨハネによる福音注解』の中で報告している。彼は言う。

 「ところで、ヘラクレオンは次のように言っている。『この(ユダヤ人たちの過越)は大きな祭りであった。なぜならそれは救い主の受難の予型だったからだ。その際、子羊が殺されただけでなく、食事に供された小羊は休息をもたらしたのである。小羊が屠られること、それはこの世界での救い主の受難を意味し、小羊が食べられること、それは婚宴における休息を意味していた』と。私たちが彼の言葉を引用したのは、この男がこんなにも重大な事柄の中でどれほどでたらめに、また何の備えもせずどれほどいい加減に立ち回っているかをとくと眺めて、彼を以前にも増して大いに見下すためである」(X,19.117-118)。

 以上が、オリゲネス以前および同時代の過越解釈をめぐる思想史的背景である。

 

次へ