哲学概論

更新日時2019/02/03

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  第1回

序論

哲学とは何であるか

 

1.哲学とは何であるか――フィロソフィア(愛知)

 哲学とは何であるかと問われると、この問題に答えるのは難しい哲学とは何かという問いに対しては、実に多くの解答があって、哲学に対する考え方やイメージは人によってまちまちであるおそらく哲学者の数だけ哲学があるだろう。他の学問についてならば、たとえば数学は数についての学問、美学は美についての学問、倫理学は倫理についての学問というように、取り扱う対象は一義的に定まっており、その学問が何についての学問であるかはっきりしている。しかし、哲学は何についての学問なのか、あまりはっきりせず、人によって見解が分かれる。極端に言えば、どのようなものでも哲学の対象になると言ってよい。したがって哲学は、扱う対象が人によってまちまちで、哲学者の数だけあると言える。

 しかし、哲学とは何かという問題に対して一つの明瞭な解答を与えることができないとしても、ある程度 大雑把 ( おおざっぱ ) な解答を与えることはできる。そこで、その大雑把な解答を得るために、まず、この「哲学という言葉の起こり(語源)を探ってみたい。この言葉は、明治時代(18681912)に英語の「フィロソフィ」(Philosophy)から作られた造語で、ドイツ語でも多少発音は違うが「フィロゾフィ」(Philosophie)、フランス語でも同じつづりと発音で「フィロゾフィ」(Philosohie)となっており、いずれも同じである。それもそのはずで、このフィロソフィという言葉は、もともとギリシア語のフィロソフィア(Philosophia)をそのままアルファベットで置き換えて出来たものである。

 このギリシア語の「フィロソフィア」の意味を検討することにより、「哲学」という言葉の意味をある程度、 ( うかが ) い知ることができる。この「フィロソフィア」という言葉の前半にあるフィロ(Philo)は、愛するという意味のギリシア語の動詞フィレイン(Philein)から来ている。その後半のソフィアは、知恵あるいは知識(Sophia)を表している。したがって、フィロソフィア(Philosophia)とは、その言葉の厳密な意味において知恵を愛すること、すなわち、愛知ということになる。この言葉を史上初めて使ったのは、後ほど紹介するソクラテスであったことが知られている。

 ところで、このPhilosophiaという言葉に哲学という日本語が当てられた 経緯 ( いきさつ ) を紹介しよう。もともとこの「哲学」という言葉は、日本語にはないものだった。とは言え、日本にそれに相当する知の営みがなかったというわけではない。たとえば、江戸時代の国学者 本居 ( もとおり ) 宣長 ( のりなが ) (17301801)や蘭学者 高野 ( たかの ) 長英 ( ちょうえい ) (18041850)の思想には、また仏教などの教えの中にも、哲学に相当するものが見出せるかもしれない。

 しかし日本では、明治時代に入るまで、「哲学」という言葉は使われなかった。「哲学」という言葉は、「市民」「都市」「経済」「資本」などと同じように、明治時代に案出された翻訳語である。と言うより、今日の日本の学問で使われているほとんどすべての学術用語は、明治以降に作られた人工語である。それらの学術用語は、我々の普段の生活の必要から自然に生まれた日常用語ではないため、ひどく不自然で難解なものになっている。

 「哲学」という言葉を考え出したのは、わが国で最初に本格的な西洋哲学の講義を行なったとされる 西周 ( にしあまね ) という蘭学者であった。西周は、島根県津和野の出身で(森鴎外と同郷)、明治維新までは、江戸幕府によって設立された洋学研究所ともいうべき「 蕃書調所 ( ばんしょしらべしょ ) 」に勤めた。彼は、この蕃書調所で海外の文献を研究し、幕末の1862年、そこで哲学の講義(と言っても西洋哲学)の講義を行なっている。その講義の中で 西周 ( にしあまね ) は、古代ギリシアの哲学者ソクラテスを取り上げて、彼は「フィロソフォス」すなわち「賢哲を愛する人」であると述べていた

 西周は、「フィロソフィア」の原意をうまく言い当てる日本語を案出するために、この「賢哲を愛する」という言葉を、中国の宋の時代(11世紀)の儒家 周敦頤 ( しゅうとんい ) という人物が『通書』の中で述べた「士希賢(士すなわち人は賢を ( ねが ) がう)という言葉に掛けて、「希哲学」という言葉を作り出し、これを「フィロソフィア」の訳語にしたとされる。フィロソフィアの「フィレイン」(Philein)が「希」(=願う・愛する)に、「ソフィア」(Sophia)が「哲」にうまく対応しており、それなりに上手な訳語であると思われる。

 やがて西周は、 榎本 ( えのもと ) 武揚 ( たけあき ) とともに文久3(1863)にオランダに留学したが、帰国後の明治3(1870)頃に執筆したと思われる『百学連環』という一種の百科事典の中で、どういうわけかこの「希哲学」の「希」を ( けず ) って「哲学」という訳語を使うようになった。希哲学から希を削除すると、フィロソフィアの「フィロ」、すなわち「愛する」に対応する言葉が欠落してしまい、「哲学」という言葉は、原意を汲み尽くさぬ不適切な訳語になる。しかし、おそらく西周は、この哲学の「学」が「哲を学ぶ」というような意味で、この「希」(=願う)の意味を補ってくれると思ったのだろう。このようにして成った「哲学」という言葉が、以後、フィロソフィアの訳語として日本や中国で広く使われるようになった。

 さて、哲学の名前の由来についての話はこれ位にして、哲学とは、とにかく「知を愛することだ」というとことが分かった。「知を愛する」の「」とは、「知識」、「知ること」、あるいは「認識」を意味する。それらはいずれも同じ意味である。しかし我々は、「知を愛する」という場合、どのような知、あるいはどのような認識を愛するのだろうか。知を愛すると言っても、たとえば「三角形の内角の和は二直角である」という知識を既に心の中に持っていて、その既に所持している知識を愛し続けるというようなことではない。後でソクラテスの章で簡単に触れるが、「知を愛する」とは、自分の心の中にある知識を静かに愛することではなく、もっとダイナミック(力動的)なもので、自分が持っていない知識をどうしても知りたいという欲望自分の知らないものを熱烈に知りたいという欲望である。それは、どうしても恋人を自分のものにしたいという欲望()に似ている。恋人同士が各自の幸せのために相手をどうしても我が物にしたいのと同じように、哲学者は、自分の知らない知識をどうしても我が物にしたという抑えがたい熱情に燃えている。

2.哲学者に共通する態度と感情――哲学の出発点

 先ほど、「哲学とは何であるか」という問いに対する解答は人によりさまざまで、哲学者の数だけ哲学があると述べた。しかし哲学者たちの間には、問題の立て方の点で、共通した態度が見られる。たとえば「なぜ、人間には苦しみがあるのか」、「これから世界や私はどうなっていくのか」と問いを立て、その答えどうしても知りたいというように、哲学者たちは、なぜだそれはいったい何なのかなぜそのようなことになったのかを追求し、その理由を知ろうとする態度の点では一致しているのである。

 このように考えると、「哲学とは何であるか」という問いには、ある大まかな解答が得られるように思われる。それはすなわち、哲学とは、ものの根拠や由来を知ろうとする試み」、「ものの存在理由を探求しようとする試み」だという解答である。あるいは哲学とは、「物事の存在の神秘を明らかにしようとする試み」、「存在の確かさを確証しようとする試み」と言い換えることができよう。なぜなら、「なぜ・どのように」などといういわゆる5W1H型の疑問文は、詰まるところ、「どうしてここに存在するのか」「なぜ存在するのか」「どのようなものとして存在するのか」という形式の存在の確かな理由を求める疑問文に帰着するからである。その限りで哲学とは、「存在の 形而上 ( けいじじょう ) (Metaphysik des Seins)であると大胆に言い換えることができる。なぜなら形而上学とは、存在の意味・根拠を明らかにしようとする哲学の一部門だからである。

 なお、ここで我々は、~しようとするという言い方に注意しなければならない。「~しようとする」という語句は、人間の行為がその目標に ( いま ) だ達していない未完了な状態を表す。たとえ「存在の神秘を問う」疑問文に一定の答えがあったとしても、実は哲学者は、その答えを「知ろうと」努力し続けるだけであり、遂にその答えを手に入れることはできない。哲学とは、「ものの根拠を知ろうと努力する永遠の営みである。哲学には、最終的な答えがないもしもある哲学者が何らかの答え(真理)を出したと主張しても、それはあくまでも究極的な答えを求める上での 暫定 ( ざんてい ) 的な答え哲学者の中間報告哲学者それぞれの個人的見解だと言わなければならない。したがって、それぞれの哲学者の思想というものは、決定的なもの、絶対的なものではない。哲学の思想というものは、あくまでもその思想を生み出した哲学者の個人的な見解である。それゆえ、これから述べる哲学者たちの話を 鵜呑 ( うの ) みにしてはいけない。それらの話は、物事の根拠を探ろうとする皆さんの思考を助ける参考資料の値打ちしかない

 哲学とは何であるかという問題に関しては、話は以上に尽きない。哲学者たちが物事の由来を問い、「なぜ」と問うとき、哲学者たちには、常にある共通した感情が見出される。それは、「驚き」、「ええ?」という感情である。それらの感情は、哲学者の間では通常、「タウマゼイン(thaumazein)というギリシア語で総称される。

 古代ギリシア最大の哲学者とされるプラトン(後述)は、次のように言っている。「驚異の念(驚きの感情)――まさにこれこそが哲学者のパトス(情念・気持ち)であるこれ以外に哲学の根源(始まり)はあり得ない」と。彼の弟子アリストテレス(後述)も、「今も昔も、人々は驚異の念に導かれて、哲学することを始めた」と言っている。近代では、西洋文明の掲げてきた数々の伝統的理念(理想)を徹底的に断罪したニーチェ(後述)は、「森羅万象の根源に直面しての驚異――これこそが、哲学的衝動の真実の兆候である」と言っている[1]

 哲学の出発点には、常に「驚異の念」がある。この驚異の念という言葉が、少し大げさに感じられるのであれば、この言葉を単に「あれ?」とか、「なんか変だな」というより平易な言葉に置き換えてもよい。オックスフォード大学出版のギリシア語辞典(Greek-English Lexicon)でこの驚異の念に当たる「タウマゼイン」の意味を調べてみると、「タウマゼイン」にはwonder at, be astonished with, look at with wonderという英語が当てられている。大修館のGenius英和辞典では、この英語ではwonderは、「~を不思議に思う」、「~に対して驚く」、「あれこれ思い ( めぐ ) らす」、「本当のところを知りたいと自問する」、「~を疑う」とある。したがって「タウマゼイン」というギリシア語は、「驚異の念」と日本語で言ってもいいのであるが、「ええっ!」というような大それた驚きではなく、まさに「あれ?なんか変だな」というもっと軽い、 ( ひか ) えめな「疑問の念」であると理解しても間違いではない。

 この講義の参考書として指定した『ソフィーの世界――哲学者からの不思議な手紙』(日本語初版1997)では、主人公のソフィー――彼女は、フィロソフィアの後半のソフィアという語の語呂合わせである――に宛てられたアルベルトからの手紙の中で次のように言われている:

「今から二千年以上も前の古代ギリシアの哲学者は、人間が『なんかへんだなぁ』と思ったのが哲学の始まりだ、と考えた。人が生きているのは、なんておかしなことだろう、と思ったところから、哲学の問いが生まれた、というのである」。・・・中略・・・「いい哲学者になるためのたった一つ必要なのは、驚くという才能だ」。

 この文章では、「人生について」タウマゼインすることが哲学の始まりとされているが、哲学の出発点には常に、「あれ?なんかへんだな」という感情がある。このように考えると、哲学の出発点、あるいは、哲学することのきっかけは、あらゆるところに潜んでいると言うことができる。我々が普段何気なくやり過ごしているもの当たり前なこと、自明なことだと思い込んでいるものを「なんか変だな」という驚きの気持ちで接するとき、我々は既に哲学の 端緒 ( たんしょ ) に着いているのである。このような事態を少し難しい言葉で言い換えれば、我々が「日常的なあり方」「習慣的なあり方」から、「非日常的なあり方」、いわば「異常なあり方」に移行するとき、哲学が始まると言える。この移行のきっかけはどこにでも見出される。たとえば、皆さんが、学校で教わる知識にも、それを 鵜呑 ( うの ) みにするのではなく、批判的な態度で接し、「本当かなぁ」、「何かヘンだ」と思うとき、皆さんも哲学を始めていると言うことができる。あるいは、我々自身や身内の死に直面するとき、我々は、まさに「人間存在の神秘」を真剣に考えるきっかけを与えられるのである。

 我々は、身の回りのすべてのことについて、「なんか変だぞ」と思うとき、哲学は始まる。このように考えると哲学は実に身近なもの、気軽なもののようである。しかし、哲学的に考察した結果が言葉によって理路整然と述べられておらず、一つの世界観を構成するほどに体系的なもの(一つの知の総体すなわち思想)でないとすれば、それは(その場しのぎの)単なる思い付きであり、到底、人々の賛同を得られるものではない――それでもよいというのであれば、すなわち、誰にも理解されない私だけの哲学(世界観や人生観)でもよいというのであれば、それでも構わないが・・・。

 

3.哲学の問い――世界や人生の存在の神秘

 哲学は、「なんか変だな」という疑念を抱きつつ、あらゆるものを考察することができる。しかし、哲学の歴史を振り返ると、哲学には、だいたい共通したテーマというか関心があることがわかる。それは、「私はなぜ存在するのか/なぜ生きているのか」「世界は何であるかどのようにして生じたのか(造られたのか)」という問いである。先ほど、哲学とは「ものの存在の確かな理由・根拠」を明らかにしようとする永遠の試みであると述べた。してみると、哲学とは、世界や人生の存在の神秘を問い、それについてあれこれと思い巡らすことだと言ってもいいだろう。『ソフィーの世界』では、これらの哲学上の根本問題は次のように表現されている:

わたしたちはだれなのか(「あなたはだれ?」)

世界はどのようにつくられたか(「世界はどこからきた?」)

 しかしながら、誰もがこのように、自分について、あるいは世界について、このように「なんか変だな」という不思議な感じを抱いて接するわけでないだろう。もしこのような疑問を持つとすれば、それは哲学の始まりである。しかしたいていの人は、普段の生活の関心や忙しさ ( まぎ ) れ、せっかく立てたこれらの問いを心の隅っこに押し込んで暮らしているのではないだろうか。たいていの人は「日常性に埋没」しているのである。ところが哲学者は、世界の存在の神秘や生きること(人生や世界の存在の神秘)への驚きにこだわり続ける。日常の生活に満足している人たちにとっては、哲学者たちの問題意識は無益なものである。その点で哲学者は、例外的な存在である。哲学者は、場合によっては、余計な問題にかかずらう社会の邪魔者と見なされたり、変人扱いされたりするかもしれない。後で紹介するソクラテスも、結局、余計な問いを立て、出会う人に疑問をぶつけたため、社会から邪魔者扱いされ、挙句の果てには処刑されてしまった。

 『ソフィーの世界』では、哲学にのめり込んだ主人公のソフィーに対して、彼女の母親は、次のように言っている:

あなた、どっかにドラッグを隠してるんじゃない?」。

 このように哲学は、「尋常ならざる哲学者」の数だけあって実にさまざまであるが、当たり前だと思っていること、あるいは日ごろ省みなかったことになんか変だな」という疑問を抱き、それなりの答えを追求しようとこだわり続ける点では、一致している。哲学とは結局、いわゆる哲学者の独占物なのではなく、「なんか変だな」という疑いの気持ち・驚きの念を抱き、それを解き明かそうとするすべての人のものである

 しかし、何の手がかりもなしに、自分ひとりで世界や人生の不思議を解き明かそうとすることは、かなり大変である。あるいはたとえ解明しようとしても、袋小路に陥り、時間を空しく費やしてしまう場合もある。それゆえ、世界や人生に関する疑問や驚異について考えるための手引きがあれば便利である。以下では、皆さんに、その考える材料なり手がかりなりをご紹介したい。私の授業は、古代ギリシアで誕生したフィロソフィアという知の営みの伝統を受け継ぐヨーロッパの代表的な哲学者たちの数々の思想の紹介、すなわち西洋哲学史の叙述である。この授業によって、皆さまが、自分自身のことや世界のこと、その他さまざまなことについて、皆さまなりに考える手助けができれば、この大学における私の使命は幾分か果たされたのではないかと考えている。



[1] 引用はいずれも孫引き。利用文献は、別刷の資料に挙げた。なお、ニーチェは、西洋文明(=哲学)が掲げる伝統的な諸価値を無意味とし、新たな価値の創出を芸術の中に求めている。

 

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