哲学概論

更新日時2019/02/03

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第8回

第5章の1 アウグスティヌス

プラトンは、客観的知識の理念に駆られ、現実の世界(感覚界・現象界)を超えたところに、そのモデルとなるイデア界(真実在の世界)を想定した。これに対しアリストテレスは、超越的なイデアを地上に引き降ろし、地上の個物を個物たらしめる本質すなわち形相として、個物に内在させた。以後、この二人の世界観が、キリスト教を後ろ盾に覇を競い合った。最初にプラトンが勝った。

第1節  キリスト教と教父哲学

 キリスト教は、今からおよそ二千年前に、イエスを創始者とし、ユダヤ教を母胎として発展した。イエスは、聖母マリアから処女懐胎によって生まれた神の子どもで、人々に罪の赦し(神との和解)と永遠の命(救い)を約束する神の代理人だった。しかし、キリスト教の正統的な教えによれば、イエス・キリストは、正真正銘の人間であるとともに、正真正銘の神であるとされた。「キリスト」は、ギリシア語で油注がれた者という意味で、ユダヤ人の言葉(ヘブライ語)では「メシア」という。キリストの教えの要点は、無限の愛と、それから帰結する罪の無条件の赦しである。この愛が、ギリシア語で「アガペー」と表現され、哲学の「エロース」()とはまったく別ものであることは、すでに述べた。

 中東の小国イスラエルに誕生したキリスト教は、その献身的な愛の教えゆえに、爆発的な勢いで地中海世界(ヘレニズム世界)に広まった。しかしその過程で、キリスト教を、異文化の人々(特にギリシア哲学の知識を身に付けた教養人たち)に説明する必要が生じた。その必要に応えたのが、一般に教父(father)と呼ばれる哲学的教養を持ったキリスト者たちであった。彼らは、活躍した時代や役割により、護教家使徒教父使徒後教父教会教父などと呼ばれる。

 教父たちが一般的に取ったキリスト教擁護の手法は、当時の教養人たちが当然の前提とした伝統的な哲学的世界観や人生観(特にプラトン主義)と、キリスト教の信仰が矛盾するものではなく、実質的に同等なもの、あるいはそれ以上のものであることを示すことだった。この時代の最大の教父は、ギリシア語圏(東方キリスト教)ではオリゲネス(ギリシア教父)[1]、ラテン語圏(西方キリスト教)では、アウグスティヌス(ラテン教父)である。

第2節 アウグスティヌス(Aurelius Augustinus, 354430)

 アウグスティヌスは、ヘレニズム時代末期(古代末期)354年、北アフリカの小都市タガステに中産地主の父パトリキウス(後にキリスト者となる)と、熱心なキリスト教信者であった母モニカの長男として生まれ、血気盛んな16歳のときに北アフリカのカルタゴに遊学し、情事に耽った挙句、ある女性と同棲生活を始め、翌年には、17歳にして1児(アデオダトゥス)の父親となった。そればかりか、このカルタゴでは、善の神を信じるキリスト教がかなり盛んであったが、ペルシアのマニ(215275)という人物が創始したマニ教[2]に入信し、熱心なマニ教信者になった。マニ教では、善の神と悪の神が信仰され、現世は、この善の神()と悪の神()の戦場であるとされた。

 彼はその後383年、ローマ帝国の首都ローマに行き、一年後に、イタリア北部の町ミラノで、修辞学教師となった。しかし、ここでアウグスティヌスは、アンブロシウス(Ambrosius340397)というキリスト教指導者の感動的な説教を聴き、386年、マニ教を捨て、キリスト教に改宗した。その後、故郷のヒッポに戻り、391年に司祭、396年に司教となり、ゲルマン民族(ヴァンダル族)によってヒッポが包囲され、まさに陥落しつつあるとき、亡くなった(430)。主な著書に、『告白』『神の国』『三位一体論』がある。

第3節 アウグスティヌスの哲学思想

 教父の目標は、キリスト教信仰がギリシア哲学の教えと矛盾するものではなく、むしろそれに優るものであることを証明することである。こうしたキリスト教とギリシア哲学との関係の問題は、信仰と理性の問題と言い換えられる。信仰とは、何ごとかを無条件で信じることである(Credo quia absurdum)理性とは、物事の根拠(由来)を理路整然と探求する思考能力である。アウグスティヌスが取り組んだのは、ギリシア哲学に共通の世界観(世界は既存の材料から作られた)キリスト教の世界観(世界は神によって無から造られた)とをどのように調和させるかということだった。

 アウグスティヌスは、ギリシア哲学の世界観(世界の永遠性)プラトンのイデア界に求めることにより、ギリシア哲学における世界の永遠性(eternitas mundi)と、キリスト教信仰における無からの創造(creatio ex nihilo)を両立させた。すなわちプラトンにおいて天空( 天蓋 ( てんがい ) ・天球)を超えたところにあるとされたイデア界を、アウグスティヌスは、神の精神の中に位置づけ、世界の永遠性を神の精神における世界のモデル(世界の設計図)の永遠性に求めた。世界は神によって無から創造された。しかし、世界を創造するときに用いられた世界のモデルが、神の精神の中に永遠に存在し、神はこのモデルに従って、この世界を無から創造したのである。

 アウグスティヌスは、このようにして世界の有限性永遠性を両立させた。現実の世界は、無から創造されて有限であるしかし、その世界のモデル(原型)は、神の精神の中に永遠に存在する。これは、プラトン哲学とキリスト教の見事な結合である。アウグスティヌスは、言うなれば、プラトン主義(イデア論)をキリスト教に取り込み、プラトンをキリスト教徒にしてしまったと言える

 このことは、信仰と理性の調和と言い換えることもできる。しかし、無からの創造は、やはり信じるしかない。したがってアウグスティヌスの場合、理性よりも信仰の方が優っていた彼は、無からの創造を信じた上で、理性をその信仰に従属させたのである。アウグスティヌスは、人間の理性では説明できない不安に満ちた問いは無数にあり、それらは最終的には信仰によって克服されるしかないと考えていた。彼は、『告白』という書物の冒頭で、「(主よ)、私たちの心は、あなたの内に安らうまで、安らぎを得ません([Domine], inquietum est cor nostrum, donec requiescat in te.)と述べ、キリストの教えを信じて初めて魂の安らぎを得たと告白している。彼にとり、信仰が理性に優っていた。

 彼は、悪の問題にも関心を寄せた。この問題に取り組んだのも、キリスト教を弁護するためだった。キリスト教の反対者たち(特にマニ教徒)は、悪の存在を盾にキリスト教に反対した。彼らは、キリスト教の神が善なる神・善い神であれば、なぜこの世に悪が存在するのかと尋ねた。

 キリスト教の正典には、悪の問題に対する明確な解答が書かれていなかった。そこでアウグスティヌスは、プラトン主義の考えを使い、この問題に独自に応えている。プラトンの考えでは、何かが存在するということ(存在)は、善いことであった――「存在のイデア」は、「善のイデア」と分かち難く結びついている。したがって、この世の中に存在するものは、存在する限り善いものであり、悪は存在しない。アウグスティヌスは、この論法をそのままキリスト教の創造論に適用し、悪は神が造ったもの(存在)ではなく、神の意思に背いた人間が作り出したもの(非存在・非もの)としたのである。悪と見なされているもの(存在)は、それ自体では善であり、神の神秘な計らいにより、人々の救いに役立っている。このような論法は、一般に神義論あるいは弁神論(théodicée / theodicy)と呼ばれる。

図式 存在=善 ⇔ 非善()=非存在 ⇒ 「悪は存在ではない」 (悪は実体概念ではなく、関係概念である)

 アウグスティヌスは、西方教会最大の思想家(教父)であるため、彼の神学思想を詳細に取り上げるべきであるが、それは本講義の目的を逸脱することになるので、割愛する。彼は、キリスト教信仰にプラトン主義を取り込み、その後のキリスト教会(西方教会)に甚大な影響を与えた。ニーチェは、キリスト教は民衆のためのプラトン主義である(善悪の彼岸序言)と断じたのは、このゆえんである。

 アウグスティヌスは、古代末期(ヘレニズム時代末期)に属していると同時に、中世と呼ばれる新しい時代の始まりにも属していた。中世は、西ローマ帝国末期の5世紀から東ローマ帝国末期の15世紀まで、およそ千年続く。この中世において、キリスト教神学と哲学とに巨大な足跡を残したのが、トマス・アキナスである。



[1] (Origenes185254)アレキサンドリアの教父。司祭。プラトン哲学を借用しつつ、キリスト教をヘレニズム世界に弁明した。著書に、『諸原理について』『ケルソスへの反論』などがある。

[2] (摩尼教Manichaeism)ササン朝ペルシャのマニ(210年~275年頃)を開祖とする。古代ペルシアのゾロアスター教的二元論に、ユダヤ教・キリスト教・グノーシス主義・仏教を加えた混合宗教。4世紀に、ローマ・北アフリカの知識層に迎えられ、67世紀にチベットから中国にまで達し、世界宗教となった。しかし独自性を保てず、弾圧や俗習との同化により消滅した。

 

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