哲学概論

更新日時2019/02/03

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第8回

第5章の2 トマス・アキナス

 アウグスティヌスは、古代末期(ヘレニズム時代末期)に属していると同時に、中世と呼ばれる新しい時代の始まりにも属していた。中世は、西ローマ帝国末期の5世紀から東ローマ帝国末期の15世紀まで、およそ千年続く。この中世において、キリスト教神学と哲学とに巨大な足跡を残したのが、トマス・アキナスである。

第4節 イスラームのアリストテレス主義とキリスト教

 中世のキリスト教は、アウグスティヌスを通して、プラトンのイデア論(製作的存在論)を受け入れた。しかし、7世紀にムハンマドによって創始されたイスラームは、アリストテレスの影響が強かったエジプトのアレクサンドリアをイスラーム化すると(642)、アリストテレスの哲学をその教義形成の道具にした。やがてイスラーム圏のアリストテレス研究の中心地は、スペインのコルドバに移り、西洋のキリスト教神学の一大中心地パリと対峙した。こうして、西洋のキリスト教は、イスラームと教義の次元で対決する必要上、アリストテレスの哲学を取り入れざるを得なくなった。論敵と論戦を交わすには、論敵と同じ土俵(前提)に立たねばならないからである。この課題を果たしたのが、トマス・アキナスである。結論を先に述べれば、アウグスティヌスが、プラトンのイデア論を取り入れて、いわばプラトンをキリスト教徒にしたように、トマス・アキナスは、アリストテレスをキリスト教徒にした

第5節 トマス・アキナス(Thomas Aquinas 12251274)

 トマス・アキナスの思想を紹介する前に、彼の生涯を簡単に述べる。彼は、イタリアのローマとナポリの間にあるアキノのロッカ・セッカ城(乾いた岩城の意)に、城主ランドルフと母テオドラとの間に9人兄弟(5人・女4)の末っ子として生まれ、6歳のとき(1231)モンテ・カシノ修道院(ベネディクト会)に預けられ教育を受けた。14歳のとき(1239)ナポリ大学に入学し、ドミニコ会の影響を受け、18歳のとき(1243)ドミニコ会に入会した。しかし、この知らせを聞いた両親は、猛反対し、彼を強引にロッカ・セッカ城に連れ戻し、彼を1年ほど幽閉した。そのとき両親は、トマスに独身の修道生活を断念させるために、彼の部屋に美女を送り込み誘惑しようとした。結局、彼の決意は変わらず、両親は、彼がドミニコ会に入ることを許した。彼は、20歳のときパリのドミニコ会に戻り、パリ大学で神学を学んだ。その後、パリ大学を始めとする各地の研究機関で神学の研究と教授活動に専念し、49歳の若さでなくなった(1274)。彼は、死の三日前に、「私は、夜を徹して学び、説教をし、教えた。それはすべて、あなたへの愛のためでした」と言ったと伝えられている。彼は、神への愛に駆られ、学問研究に燃え尽きたのである。

 彼の残した著作は膨大で、中世哲学の総決算であり最高点だった。トマスが生きていたころ、ドイツのケルン大聖堂やパリのノートルダム大聖堂などの空高くそびえる壮大なゴシック様式の聖堂が西洋の随所に建てられた。トマスは、堅牢精緻なゴチック様式の思想を作り上げたと評されている。彼の主著は、『神学大全(Summa Theologiae)である。

第6節 トマス・アキナスの哲学思想

 トマスが取り組んだ最大の課題は、アリストテレス哲学で理論武装したムスリムに対抗するために、キリスト教の神学をアリストテレスの哲学を借用して説明すること、しかしその前に、そもそもキリスト教とは関係のないアリストテレスの哲学を借用することがキリスト教にとって問題のないこと――キリスト教の信仰とギリシア哲学の理性には一致する点があること――を証明することだった。再度確認するが、信仰とは何事かを無条件で認めることであり、理性とは物事の根拠(由来)を整然と探求する思考能力である。

 キリスト教の教義とギリシア哲学との違いは、信仰と理性の違いである。既述のようにアウグスティヌスは、プラトンのイデア論を永遠の神の精神の中に取り込み、信仰と理性を両立させた。ではトマスは、どのようにしてアリストテレス哲学とキリスト教信仰の対立を解消したのだろうか。トマスは、この対立を解消するのに、アリストテレスの哲学とキリスト教との類似点を指摘することから始めた

 アリストテレスは、この地上の諸物事は、形相と質料から成り立っており形相が物事の本質や運動を決めると述べ、万物は純粋形相を頂点にして秩序づけられているとした[1]。彼は、この純粋形相を、質料を一切もたず、おのれ自身を完成させた完全現実態(エンテレケイア)の内にあり、みずから動くことなく他のものを動かす不動の動者や第一原因と呼び、神とも呼んだ。アリストテレスにとっての神は、万物の創造者とは言わないまでも、みずから動かずして世界を動かす第一原因だった。トマス・アキナスは、アリストテレスのこの説に注目した。キリスト教の神も、万物の創造神であり支配者として、万物のいわば第一原因だからである。

 トマスは、キリスト教の信仰とアリストテレスの哲学とには重なり合う面があり、この重なり合う面だけに注目すれば、アリストテレスの哲学をキリスト教の中に取り込むことに何の問題もないとした。トマスによれば、我々は、キリスト教が無条件で信じている信仰上の真理の幾つかを、アリストテレスの哲学を使って理性的に証明できる

 しかしながらトマスによれば、アリストテレスは、キリスト教の信仰内容を書き記した聖書(啓示)を知らなかったため、その哲学は不完全であるとされる。たとえば、アリストテレスの第一原因は、みずから動かずして、他のものを動かす不動の動者であるが、人間に語りかける人格神ではない。他方、キリスト教の神は、人間の歴史に積極的に介入して語りかけてくる人格神である。トマスによれば、アリストテレスの哲学は、この第一原因を人格的存在として捉えることができなかった点で、不完全なのである。したがってアリストテレスの哲学は、キリスト教と重なり合う面があると言っても、キリスト教の信仰の真理には、彼の哲学には及ばない(はみ出した)部分があり、この部分は信仰(それを書き記した聖書)によって補うしかない

 たとえて言うと、キリスト教の信仰が大きな円であるとすれば、アリストテレスの哲学は、その中に描かれたより小さな円だということになる共通部分は、信仰によっても理性によっても近づくことができる真理であるが、共通しない部分――たとえば復活信仰や奇跡――は、ただ信仰(聖書)によってしか近づくことができない。トマスは、キリスト教の信仰が対象とする範囲と、人間の理性が対象とする範囲とを整然と分け、理性の限界を示したと言える。

 『ソフィーの世界』では、このとに関して明快な説明が為されている。すなわち我々は、何らかの本を読んだとき、その本の作者が誰であるか、どのような考え方を持っていたかを、ある程度、知ることができる。しかし、その作者の私的な情報を、その本から読み取ることはできない。そのためには、その本を書いた作者の自伝や伝記が必要である。アリストテレスは、世界という書物を読み、理性を使い、世界の作者に関して幾つかの真実に到達した。しかしその世界の作者に関するもっと立ち入った情報は、神の自伝すなわち聖書を信じることによって得るしかない

 この点で、トマス・アキナスの理性は、アウグスティヌスの理性と同様に、信仰によって補われなければならなかった。神に関する情報を得るには、理性の道信仰の道があるが、両者は同等ではなく、後者の方が優っており、最終的には理性の道は、信仰の道によって補われなければならない。トマスの残した有名な言葉に、「恩恵は自然を破壊せず、むしろこれを完成する(『神学大全』第1部第1問第8項(gratia non tollit naturam, sed perficit.)というものがある。この場合の恩恵とは神からの啓示(神から与えられた情報)であり、自然とは人間に生まれつき備わっている理性のことである。「完成する」とはまさに欠けた所を補うという意味であるとすれば、この言葉は、キリスト教の啓示(神のお告げ)は、理性と矛盾するものではなく、かえってこの理性を補い、これを完成することを意味している。ただし、これを事実(真実)として承認すべきか否かは、信仰の問題であるけれども。

 トマス・アキナスの哲学思想に関しても、アウグスティヌスと同様に詳細に解説すべきであるが、割愛する。トマス・アキナスは、キリスト教信仰とアリストテレス哲学とが互いに矛盾するものではないことを証明した上で、アリストテレスの哲学を駆使し、信仰上の諸問題や哲学上の諸問題のほとんどすべてに答えてしまった。彼は、ヨーロッパの中世が生んだ最高の頭脳だった中世哲学は、トマス・アキナスに到ってその最高点に達したと言える

 しかし、中世哲学がトマスの思索において最高点に達したとすれば、彼の後に来るのはその衰退である。彼の後に出た哲学者たちは、いわばトマスの著作の解説者のようなもので、字句の解釈にこだわるばかりで、思想上の新しい見解を何ももたらさなかった。トマス・アキナスの後、中世哲学は活気を失った。やがて近世に至り、キリスト教思想の息詰まる雰囲気の中で、ギリシアの古典ののびのびとした息遣いに接した人たちが、キリスト教中心主義から人間中心主義へ向かう新しい精神運動、すなわちルネサンス(文芸復興)を引き起こした



[1] アリストテレスによると、万物は、それぞれに内在する固有の形相の実現を目指して運動しているが、その形相の実現の度合いに応じて、下位の存在者が上位の存在者の生存に奉仕する形で階層的に秩序づけられている。万物は、質料、無生物、植物、動物、人間などから構成され、最上位の純粋形相(不動の動者、第一動者、神)によって有機的に秩序づけられている

 

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