哲学概論

更新日時2019/02/03

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第10回

第7章 物質と精神

 デカルトは、考える私の存在の確実性――「我思うゆえに我あり(Cogito, ergo sum)――を基準に、神の存在と幾何学的世界(理性の対象)の存在の確実性を推論し、どうして自然現象(の規則性)が数学(数式)によって表現されるのか(数学的自然科学の可能性)を解明しようとした。しかし彼は、その際、生得観念を当然の前提とし、「考えるもの(res cogitans)としての精神と「広がり(延長)のあるもの(res extensa)としての物質(身体)との関係を未解決のままにした。

第1節 スピノザ・ロック・バークリへの移り行き

 デカルトの哲学には重大な欠点がある。デカルトは精神(思考)物質(延長)とを、それ自身の存在のために互いに他方に依存せず、それ自身で独立して存在する自存者すなわち実体と考え、ただちに両者の統合を模索した。しかし、精神と物質が実体であるとすれば、それらは互に否定し合い排除し合うだけである。この精神と物質とを統合する方法は、差し当たり三つしか考えられなかった。すなわち:

@  精神と物質が、これらとは別の第三の実体()現れであるとする方法(汎神論pantheism)

A 精神を物質の産物とする方法(経験論empiricism・唯物論materialism)

B 物質を精神の産物とする方法(観念論idealism唯心論spiritualism)である

第一の方法を取ったのは、スピノザである。

第2節 スピノザ(Baruch de Spinoza, 16321677)・・・汎神論Pantheism

 パルフ・デ・スピノザは、1632年にアムステルダムに生れた。両親はポルトガル系のユダヤ人、富裕な商人で、彼に十分な教育を受けさせた。彼は(旧約)聖書やタルムード(旧約聖書の注解書)を熱心に研究した。しかし、まもなくユダヤ教思想の研究に代えて、物理学とデカルトの哲学思想の研究に没頭し、ユダヤ教と訣別した。彼を破門し、命まで奪おうとした保守的なユダヤ人たちの迫害を免れるために、彼はオランダ国内を点々とし、最後にハーグでレンズ磨きをし、それを幾人かの支持者たちに売ってもらいながら、哲学の研究に没頭した。後にハイデルベルク大学の教授に招かれたが、スピノザはそれを辞した。彼は、1677年、44歳で早世した。主著は、『エティカ(Ethica ordine geometrico demonstrata)――幾何学的方法で証明された倫理学――と『神学政治論』(Tractatus theologico-politicus)である。

 彼は、精神(思考)と物質(広がり)から独立性を奪い、それらをそれ自身で存在する実体とは見なさずに、一つの実体の現象形態(現れ)とした。これは、デカルトの「実体」の定義からの直接的帰結である。デカルトによると、実体とは、その存在のために他のものを必要としないものであるとされる。しかるに、言葉の真の意味において実体と言えるのは、神だけである。なぜなら神は、信仰上、それ自身の存在のために他の何ものも必要としない絶対者だからである。精神と物質も実体ではあるが、相互の関係においてのみそうなのであって、神と関係においては独立でなく、実体ではない神のみが実体である

 したがって、神のみが厳密な意味での実体であるとすれば、物質(物質)も精神(個々の自我・私)も自立したものではない。物質と精神は、唯一の実在である神に付随するもの(属性attributus)、唯一の実体から生じるその現れ(様態modus)に過ぎない。その意味で、物質や精神は、神という唯一の大海に現れた二つの異なる小波にたとえられる。

 スピノザは、この唯一の実体を神と呼んでいるしかし、この場合の神は、キリスト教やユダヤ教の神、すなわち人間に語りかける人格神ではない。スピノザははっきりと、自分は神についてキリスト教徒とはまったく違った観念を持っていると言っている。彼は率直に、神が理性や意志を持っていることを否定する。したがってスピノザにとり、物質と精神から成るこの世界は、神の自由な意志の産物ではなく、無限に創造的な神すなわち自然の必然的な産物(無意識の産物)である。彼によると、万物は永遠の相の下(sub specie aeternitatis)に見られるべきだとされる。

 以上が、デカルトの実体概念を極端に解釈して得られたスピノザの根本思想である。スピノザの哲学は、すべてを永遠の神の現れとする汎神論、あるいは、神秘主義的な一神論である。しかし、彼のそのような考えは、ある程度、彼の民族宗教(ユダヤ教)の帰結でもある。なぜならユダヤ教では、唯一の神ヤーウェのみが、万物を有らしめ統治すると信じられているからである。

第3節      観念論(Idealism)と経験論(Empiricism)

 スピノザは、精神(思考)と物質(広がり)を、神という唯一の実体に由来するもの(属性・様態)と見なすことにより両者の統合を試みた。しかし両者の統合は、別の道によっても為される。それは、神を前提とせず、一方を他方の産物(現れ)と見なすことである。したがって物質と精神の統合には、二つの道が可能である。すなわち、物質の側に立ち観念的なものを物質的なものによって理解するか(経験論・唯物論)、それとも観念の側に立ち物質的なものを観念的なものによって理解するかである(観念論・唯心論)。この二つの試みは、ほとんど時を同じくして行われた。

 近代における経験論の提唱者および唯物論の父は、イギリス人ジョン・ロックである。彼の先駆者に、彼の同国人で、デカルトやスピノザと同時代のトマス・ホッブスがいる。しかし、彼の思想の紹介は時間に限りがあるため省略する。

第4節 ジョン・ロック(John Locke, 16321704 )・・・経験論(Empiricism)

 ジョン・ロックは、1632年イギリスのリントンに生れた。彼は、オクスフォード大学で哲学および医学を修めたが、身体が虚弱であったため文筆活動に就いた。主著は、『人間悟性論(An Essay concerning Human Understanding,1689)である。彼は、1704年に72歳で死んだ。

 彼の哲学の根本思想(経験論)は、イギリス人の伝統的な一般教養になっている。ロックの哲学は、二つの思想に基づいており、彼は常にこれに立ち帰っている。その一つは、デカルトが想定したような生得観念はないということであり、もう一つは、我々の認識(知識・観念)はすべて経験に由来するということである。

 ロックによると、多くの人々は、生得観念というものがあり、我々の心は発生と同時にそれを受取り、それを携えて生れてくるのだと考えている。しかし、理論の領域においても実践の領域においても、すべての人に一様に承認されているような普遍的な概念や考え方(生得観念)はまったく存在しない。

 なぜ実践の領域でそのようなものがないかと言えば、異なった民族、特に異なった時代において、すべての民族に認められるような道徳律ないからである(相対主義)。また、なぜ理論の領域でそのようなものがないかと言えば、最大限の普遍性を要求すると考えられる命題、たとえば「AはAである」(同一律)とか、「AはAであると同時に、非Aであることはできない」(矛盾律)というような論理学の諸法則でさえ、決して普遍的に(すなわち万人に)承認されてはいないからである。子供はこのような原理の観念をまったく持っていないし、教育のない人間もこのような抽象的命題を知らないしたがってそれらは、生れながらに彼らの心に刻印されている生得観念ではない。もしもそれらの観念が生得的であるとすれば、すべての人は幼少時からそれらを知っているはずである。

 たとえそれらが万人に普遍的に知られていないとしても、万人の心に刻印されており、人間が理性を働かすようになれば、それらの観念もやがて意識されるようになるという反論も事実に合わない。というのは、それらの観念は他の多くの観念よりも ( おく ) れて意識されるものだからである。たとえば子どもは、矛盾律の観念を知る以前から、理性を使用している。誰でも理性を正しく用いて、初めてそれらの観念を意識するというのは正しい。しかし、幼少時の理性の最初の行使とともに、それらの観念も意識されるというのは事実に合わない。

 むしろ我々人間が最初に知るものは、生まれつき心に刻まれているとされる生得的観念ではなく、経験によって与えられる個々の印象である。ロックによれば、人間の精神()は、本来タブラ・ラーサ(tabla rasa)、滑らかな板、何も書き込まれていない板である

 では、人間の精神はどのようにして、さまざまな観念を持つようになるのだろうか。人間の精神はすべての観念を経験から汲むあらゆる認識は経験を拠り所としている。ロックによると、経験には二種類ある:一つは、外的対象の知覚である。これは、外的対象と肉体の感覚器官との相互作用によって起こるもので、感覚(sensation)と呼ばれる。もう一つは、我々自身の心の内面的な動きの知覚で、反省(reflexion)と呼ばれる。感覚と反省が、我々の精神にすべての観念を与えるのであり、言わば、精神という暗室に、観念という光が入るための窓である。感覚によって捉えられる対象すなわち外的対象は、感覚的諸性質に関する観念を与えるこれに対し反省によって捉えられる対象すなわち心的生活は、自分自身の心の動きに関する観念を与える

 こうした感覚と反省から、すべての観念を導き出し説明するのが、ロックの哲学の課題であった。そのためにロックは、観念を単純観念複合観念とに分けている。単純観念は、鏡に物の像が映るように、受動的な精神に外部から押し付けられる観念である。この単純観念には、次の四種がある

@  ひとつの感覚を通して来るもの視覚を通してくる色の観念、聴覚を通じてくる音の観念、触覚による広がり(延長)や固さ(不可入性)の観念、臭覚を通してくる臭いの観念、味覚を通してくる味の観念。

A  いくつかの感覚を通して来るもの:触覚と視覚とによって同時に意識される空間および運動の観念。

B  反省によって得られるもの:思考や意志の観念。

C  感覚と反省とから同時に来るもの:力、統一などの観念。

さらにロックは、単純観念を第一性質(本源的性質)のものと第二性質(派生的性質)のものとに分けている。

@   第一性質の観念は、物体そのものに必然的に属し、それなしには物体は存在することも考えることもできないような性質である。たとえば、延長(広がり)と不可入性(硬さ)、運動と静止、図形と数がそれである。要するにそれらは、物体そのものの状態を表す性質である。この点でロックは、デカルトの合理主義を踏襲している。

A   第二性質の観念は、物体そのものに属する性質ではなく、我々の精神に属する性質、すなわち物体の知覚に伴って我々の精神の内に生じる主観的な印象である。たとえば、色、音、臭い、味、などの主観的印象がそれで、それらは我々の精神()の状態に応じて変わるもので、物体そのもののに属するものではない。

 ロックによれば、単純観念が我々のすべての認識の材料をなすそれは、言わば文字のようものである言語が文字をさまざまに組み合わせて ( つづ ) りや単語を作るように、精神は単純観念をさまざまに結合して複合観念を作る。複合観念には、三つの種類、すなわち 様相 ( ようそう ) の観念実体の観念、および関係の観念がある。

 様相の観念の下にロックは、空間の諸様相(距離、無限、平面、図形など)、時間の様相(継起、永遠)、思考の様相(知覚、想起、抽象能力など)、数の様相、力の様相などを考察している。

 複合観念の内、ロックが特に詳細に研究しているのは実体の観念である。彼は、その起源を次のように説明している。我々は、感覚においても反省においても、一定数の単純観念がしばしばひと塊になって現れるのを見出す我々はそれらのひと塊になった諸観念の根底に、それらを支える或るもの(原型)を想定するようになり、これを実体という言葉で呼ぶ。実体とは、我々の心に単純観念を引き起こす担い手と考えられる知られざる或るものである。

 しかし、実体の観念が我々の主観的思考の産物であるということから、それが我々の精神の外に存在しないという結論は生れない。他の複合観念は我々の精神によって作られもので、その観念に対応するもの(客観的実在)は精神の外に存在しない。これに対し実体の観念には、それに対応する原型(知られざる或るもの)が、我々の精神の外に実在するにちがいない。その点で実体の観念は、他の複合観念と異なっている。

 ロックは、実体の概念の考察から関係の観念の考察に移っている。相関あるいは関係とは、精神が二つの単純観念を結合するとき生ずる。すべての観念は精神によって関係の内に置かれる。あるいは同じことだが、相関物に変えられる。したがって、それらの関係は無数にあり、枚挙することはできない。そのためロックは、たとえば同一および差異の概念のような比較的重要な関係概念のいくつかを取っているにすぎない。しかし、彼が特に詳細に取扱っているのは原因と結果の関係である。彼によれば、原因および結果の観念(因果律の概念)は、とにかく或るものが他のものの作用によって存在し始めるのを精神が見るすなわち経験するとき生じる

 このように考えに基づき、ロックは、対象を知り理解するという我々の認識作用の一切を、経験によって得られた観念の結合によって説明する。たとえば、「この水は冷たい」という認識(判断)は、経験から得られた「この水」という単純観念と「冷たい」という単純観念とが結合したもの(複合観念)である。認識と単純観念や複合観念との関係は、文章と文字や単語との関係のようなものである。ここから、我々の認識は経験の範囲を越えないという帰結が出てくる。

 以上がロックの哲学の根本思想である。ロックによれば、精神はそれだけでは空虚であり、外界の鏡に過ぎない精神の全内容は、物質的なものがそれに与える印象に由来する。「感覚の内になかったものは、知性の内にもない(Nihil est in intellectu, quod non fuerit in sensu)という彼自身の言葉が、彼の経験論を要約している。

 精神の全内容は、外界の物質が与える印象(感覚)に由来するということは、物質的なものが精神的なものに優越しているということである。もしもこの物質的なものの優位を徹底させるならば、それは、精神的なものを否定する唯物論に到るであろう。しかしロックの経験論はそこまで行かなかった。彼の哲学は、まもなくイギリスで支配的な哲学となり、経験を重んじるイギリス人の一般教養となった。ロックと立場を同じくしていた人に、たとえば、万有引力の提唱者アイザク・ニュートン(16421727)がいる。

第5節 バークリ(George Berkley, 16841753)・・・主観的観念論Subjective Idealism唯心論Spiritualism

 ロックの哲学は、精神を物質(に由来する経験)に従属させた。これに対し、物質を精神に依存させ、物質を精神の産物とする考え方が登場したこのような考え方は主観的観念論あるいは唯心論と言われる――観念論には、この他に超越論的観念論(後述のカント)や絶対的観念論(ヘーゲル)がある。主観的観念論の究極の帰結は、物質を単なる精神的な現象、根底に何の客観的実在もない単なる主観的な 表象 ( イメージ ) とし、客観的で感性的な世界の実在性をまったく否定してしまうことであった。このような極端な帰結を導出したのが、イギリス人ジョージ・バークリ(英国国教会の聖職者)である。彼の主著は、『人間の知識の原理(A treatise concerning the principles of human knowledge, 1710)である。

 バークリによると、我々の感覚はまったく主観的なものである我々が心の外にある世界を感覚あるいは知覚すると考えるのはまったく誤りで、我々が知覚しているのは我々の心の中にある世界に過ぎない。我々は、我々の心の外に出ることはできない。我々が見ることができるのは、心の内側だけである。我々は、心の外にある世界を見るのではなく心の中にある世界を見るのである。世界は、各人の主観的な心の中に取り込まれている。

 物の観念は、観念を持っている者の心の外に、独立して存在し得ない。それは、我々の 表象 ( イメージ ) の内にのみある。それが存在することは 知覚 ( イメージ ) されていることに他ならない(esse est percipi)」。我々の心の外側に物質的外界というようなものは存在しない。存在するのはただ精神、表象し意欲し思考することを本質とする精神だけである。

 結局、バークリによれば、心の外にあると考えられた世界すなわち自然は、主観的な観念の結合の産物にすぎず、そこに見出される規則性(自然法則)は、並存あるいは継起する観念の恒常的な秩序(観念連合の法則)に他ならない。一切は人間の主観的観念によって構成されるとする考え方が、主観的観念論(唯心論)である。

 とはいえバークリは、神の客観的実在性そのものをも、人間の精神が生み出す主観的産物(観念)だとは考えなかったその点でバークリは、自分の哲学を徹底させていない。彼は、イギリス国教会の主教(bishop)だったのである。彼よれば、我々は一切の観念を、我々よりも優れた精神すなわち神から受取る。というのは、我々の精神の内に観念を生み出すのは精神だけであり、物質はもはや存在しないからである。神の内にある観念は原型(Archetype)と呼ばれ、神から与えられる我々の内なる観念は模像(Ectye)と呼ばれる。我々の心に浮かぶ観念の一切は、神の内にある観念から直接的に与えられる。これは一種のプラトン主義である。バークリによれば、このような主観的 観念 ( イデア ) (物質の完全な否定)こそ、キリスト教の神(精神)を否定する唯物論を免れるもっとも確実な道であるとされた。

第6節 まとめ

 二つの実体(物質と精神)を統合する試みは、差し当たり三つの思想をもたらした。スピノザは、両者を神という唯一の実体の現れとする神秘主義的な汎神論を唱えた。その点で彼の思想は、哲学ではない。ロックは、精神の内実を経験(に由来する観念)に限る経験論を唱えることにより、唯物論に道を開いた。これに対してバークリは、物質を精神の産物とする主観的観念論(唯心論)を立てた。しかし、ロックとバークリの思想からは、客観的で普遍的な数学的自然科学が成立する可能性を説明できない。なぜなら(経験が与える)観念は、本質的に主観的なもの(思い込み)だからである。経験論と観念論のいずれにも偏せず、神をも前提とせずに、この問題に取り組んだのが、カントである

 

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