哲学概論

更新日時2019/02/03

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第11回

第8章 カント――コペルニクス的転回

デカルトが残した二つの問題(生得観念・物質と精神の関係)に対して、三つの見解が出された。スピノザは、物質と精神を神の属性(現れ)とする汎神論を唱えた。ロックは、生得観念を否定し、精神を物質に従属させる経験論を唱えた。バークリは、物質を精神の産物とする唯心論(主観的観念論)を唱えた。しかし彼らの考えでは数学的自然科学は成立しない。

第1節 カント(Immanuel Kant, 17241804)

 カントの生涯は、ひどく簡単なものだった。彼は、1724年、当時のプロシアの東の国境近くにあった港町ケーニヒスベルク(現ロシア領カリーニングラード)に生まれ、1804年に81歳で死ぬまで、この町を一歩も離れなかった。彼は、この町の大学で哲学を学び、長い間、家庭教師や私講師(非常勤講師)をした後、46歳で大学の教授になった。文筆活動は23歳のときからしていたが、57(1781)にしてようやく主著の『純粋理性批判』を書き、1788年『実践理性批判』、1790年『判断力批判』を出した。普通これらは、「三批判書」と呼ばれる。彼は生涯独身で、毎日規則正しく静かに暮らした。晩年の唯一の楽しみは、親しい友人たちと食卓を囲むことだったと言われている。

第2節 経験主義と合理主義の総合

 カントの哲学的業績を一口に言えば、生得観念を前提とする合理主義(理性主義)と、それを否定する経験主義(経験論)の双方から長所を取り、両者を調和させ数学的自然科学と倫理学の普遍妥当性(確実性)[1]を証明することだった。ここにも、古代から問題にされたの感覚と理性の対立がある。カントは、どのようにして両者を調和させたのだろうか。

 カントは、人間の理性が物を認識するとき、どのようなことが人間の理性によって行われているかを分析した。このような分析は、カントによって「超越論的感性論(die transzendentale Ästhetik)と呼ばれている。カントによると、我々が物を認識する、すなわち外界の物を知るには、感覚が受け取った外界の情報と、その情報を処理する理性の働きが必要である。目(感覚を閉じれば外界の物を知ることはできない。しかし、理性を働かせずに 呆然 ( ぼうぜん ) と外界を眺めても、我々は、外界に何があるのかをはっきりと見分けることができない。カントによれば、我々の認識は、感覚と理性の合作である。感覚は外界の情報を受動的に受け取り、理性はそれを処理して我々の意識に提示する。では、感覚によって得られた情報を、理性は、どのように処理するのだろうか。

 我々は、物を見るとき、常に時間空間の中で見ている。たとえば、私がここで皆さんを目にする場合、1030分頃という時間においてこの教室という三次元の空間の中で皆さんを見ている。私も皆さんも、互いをこの特定の「時間」と「空間」の中で見ている。カントによると、理性には、感覚によって与えられた外界の情報を、この空間と時間の ( わく ) の中に収める働きがあり、この「空間」と「時間」は我々の理性に生まれつき(先験的に/ア・プリオリに)備わっている。すなわち理性は、感覚によって与えられた情報を空間」と「時間いう形式( ( わく ) )に満たし、処理している。しかし、ここで注意しなければならないのは、この空間時間は、我々の外に、我々とは関係なく存在しているのではなく、我々一人ひとりの理性に生得的に備わっている、理性の普遍的な形式だということである。カントは、この「空間」と「時間」を、我々の理性が物を見る際の「直観の形式(die Form der Anschaung)と呼んでいる。

 『ソフィーの世界』では、この直観の形式が、「色つきのサングラス」にたとえられている。すべての人の理性には、同じ空間と時間の色つきのサングラスが備わっており、常にその色眼鏡を通して同じ物を客観的に[2]見ている

 しかしながらカントによれば、人間の理性には、この「空間」と「時間」の「直観の形式」だけが生得的に備わっているのではない。我々のすべての理性、すなわち理性一般には、「思考の形式」という、人間が認識したものを考える際の一定の考え方の順序というものも、生得的に備わっている。カントは、「超越論的分析論(die transzendentale Analytik)という表題の下に、そのような「思考の形式」として、「関係Relation(原因と結果)」、「Quantität(単数と複数)」、「Qualität(肯定と否定)、「様態Modalität(可能性と必然性)」という4つ思考形式(カテゴリー・ 範疇 ( はんちゅう ) )を挙げ、それらをまとめて「純粋 悟性 ( ごせい ) 概念(die reinen Verstandesbegriffen)と呼んでいる。なお、「悟性」とは「理解」という意味である。

 それらの純粋悟性概念も、我々の理性から独立して存在するものではなく、直観の形式と同じように、すべての人間の理性に生得的に(したがって普遍的に)備わっている。カントによれば、我々の理性は、それらのすべての理性に共通の思考の形式を用い、感覚によって与えられた情報を客観的に考えている。これらの4つのカテゴリーの詳細をすべて紹介することは、時間の都合上できない。以下では、「原因と結果」という因果律について簡単に見てみよう。

 たとえば、ビリヤードの赤い玉が白い玉に当たり、白い玉を動かしたとする。すると、その場面を見ていた我々の理性は一致して、その赤い玉が白い玉の運動の原因であり、白い玉の運動は赤い玉の働きの結果であると客観的に考える。なぜ客観的に考えることができたかというと、カントによれば、そのとき我々の理性は、我々の理性に生得的に備わる「原因と結果」という普遍的な思考形式(純粋悟性概念)に従って判断を下したからである。

 カントが原因と結果という因果律(純粋悟性概念)を、普遍的な思考形式として、すべての人間の理性に備わっているとしたのは、数学的自然科学の普遍妥当性(確実性)を確証するためだった。数学的自然科学は、感覚に与えられた自然現象の生起する原因(必然性)理性的に(数学的に)探求する学問であるが、カントが生きていた当時、自然現象はすべて、原因と結果の因果律に従って起こるものではなく、偶然の産物にすぎないとする経験主義者(ヒューム)がいた。因果律というのは、特定の原因()には必ず特定の結果()が必然的に結びつくという事態を意味する。しかし経験主義者たちは、その必然的な結びつきを否定し、原因と結果の間に単なる時間的前後関係、「習慣的な隣接関係」しか認めなかった。経験主義者によれば、原因Aと結果Bは、「習慣的に」「偶然に」そのように結びついているだけであり、原因以外の他の結果に結びつく可能性は排除できないとされる。

 これに対しカントは、我々人間の理性には、因果律の概念が生得的に備わっているのだから、我々の理性によって把握される自然現象(偶然の出来事)は、必然的な因果関係の概念の下に理解されるとしたのである

第3節 コペルニクス的転回

 このようにカントは、すべての人間の理性には、生得的に、共通の「直観の形式」と「思考の形式」(純粋悟性概念)が備わっており、理性はそれらの諸形式を使い、感覚から情報を受け取るだけでなく、経験に依存せずにそれらの情報を加工する高次の能力を有するとした。カントは、それまでの経験主義者が考えたように、我々の理性は必要な情報をすべて感覚器官から受け取るだけでなく、我々の理性の方は、その情報を積極的に加工し、対象を作り上げるのだと考えた。カントはこのことを『純粋理性批判』で、「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」と言い表し、人間の認識活動に関するこのような発想の転換を、「コペルニクス的転回(Kopernikanische Wendung)と呼んでいる。コペルニクスは、天動説の代わりに地動説を主張し、それまでの世界観を一変させた人として知られる。

 我々の理性は、たしかに感覚によって与えられた情報を受け取るその限りで、「認識は対象に依存する(経験論)。しかしながら我々の理性は、その受け取った情報を、理性に生得的に備わる形式や概念に従って加工し、初めて対象が何であるかを認識するその限りで、対象は認識(理性)に依存する(合理主義)。しかし、対象が理性によって加工されるからといって、対象の客観性が否定されているわけではない。むしろ事態は逆で、感覚器官によって与えられた対象は、我々の理性に共通して備わる普遍的な直観形式や純粋悟性概念によって客観的なものとして把握される。したがって我々の理性が感覚を通して把握する対象は、主観的なものではなく、すべての理性に理解可能な客観的対象に変えられる。これはすなち、人間の理性は、感覚を通して与えられる偶発的な自然現象を先験的に処理し、客観的な世界、因果律の支配する必然的な世界(数学的に表現可能な世界)作り上げることを意味する(合理主義)。

 物自体(Ding an sich)

 しかしカントによると、人間の理性は、これらの空間や時間などの直観の形式や4つのカテゴリーにまとめられる純粋悟性概念(思考の形式)に収まる対象しか知ることができないとされる。感覚器官を刺激して何らかの印象(情報)を与える物そのもの(物自体)は、人間には知り得ない。カントによれば、人間の理性は、それに生得的に備わる直観の形式と純粋悟性概念を通してしか対象を認識できない。それゆえ、ありのままの対象すなわち物自体を認識することは理論上できない。『ソフィーの世界』の言葉を使って、これを分かりやすく言えば、人間の理性は常に色眼鏡を掛けて物を見るのであり、色眼鏡を外して、ありのままの物(物自体)を見ることはできないのである

 人間の理性が認識し得るものは、感覚器官を通して与えられ、理性によって客観的に把握された物の「現れ・現象」(Erscheinung/phenomenon)だけであり、その現象を引き起こした物自体は、常に理性による認識の外にある。

第5節 」「永遠の魂」「無限大の宇宙

 カントによれば、物自体ばかりでなく、神や永遠の魂、宇宙の無限性も、人間の理性は把握することができない。もしも人間の理性が、みずからの限界をわきまえず、神や永遠の魂、宇宙の無限性について議論するならば、互いに対立する諸見解を生み出すことになるとされる。たとえば:

@  については、「神が存在する」、「神は存在しない」。

A  については、「魂は永遠である」、「魂は有限である」。

B  宇宙については、「宇宙は(時間的にも空間的にも)無限である」、「宇宙は(・・・)有限である」。

という互いに矛盾する主張(命題)が可能である。カントは、相反する命題が成立するこのような事態を、「純粋理性の二律背反(die Antinomie der reinen Vernunft)と呼んでいる。

 なぜ、「神」「魂」「宇宙」について、相反する主張が生じるかというと、簡単に言えば、人間の理性は、それらのものを有りのままに、あるいはそれらのものの全体像を認識することができないからである。

 たとえば我々は、神に関して、神の現れのごときもの、何らかの神々しさを、感覚を通して感じることができ、おそらく神はいるだろうと推測することはできる。しかし我々の知り得るのは、神の現れだけで、神そのものではない。したがって我々は、神の存在を断言することはできない。神の存在を断言するには、神そのものを見るしかない。しかしカントによれば、ありのままの神を見ることは我々が物自体を認識することができないのと同様に不可能なことである。したがって我々は、神について、「それは存在するかもしれないとも言えるし、「それは錯覚であって、存在しない」とも言えるのである。

 そもそもカントによれば、人間の認識は、感覚によって与えられる情報(内容)とその情報を処理する理性の働き(形式)によって成り立つ。しかし既に述べたように、人間の認識は、それらのいずれを欠いても成り立たない。人間の認識は、内容と形式の両方から成り立つ。したがってカントによれば、人間の理性だけで神の存在を形式的に推理しても経験による裏づけ(内容)がなければ、神が真に存在していると断定することはできない。論より証拠である。このような観点からカントは、デカルトが行った神の存在証明を検討し、それが無効であることを証明した。カントは、経験を超える超越的概念の認識論的検討(批判)を「超越論的弁証論(die transzendetale Dialektik)と呼んでいる。

 デカルトが行った神の存在証明は、次のような、三段論法という伝統的論理学の形式を取っている:

(大前提) 神は完全である。

(小前提) しかるに、その「完全性の観念」には、「実際に存在する」という観念が含まれる。

(結論)  ゆえに、神は実際に存在する。

 しかし、この証明は推論としては正しいが、経験による裏づけがなく、言葉上での空論にすぎない。カントによれば、この3つの文(命題)の文末には、それぞれ、「〜と思う」という語を付けるべきで、結論は、「ゆえに神は存在すると思う」としなければならないとされる。この命題は神の存在を推定するだけで、実際の存在を証明しているわけではない。カントによれば、我々が神の存在を断言するには、実際に神の存在を体験しなければならない。もう少し分かりやすく言えば、ある人が火星人の存在を推定しても、実際に火星人が存在することの証明にならないのと同じである。カントによれば、このような間違った推理が行われたのは、感覚器官から得られる情報にしか適応できない直観の形式や純粋悟性概念を、感覚(経験)を超えたもの(神・永遠の魂・無限大の宇宙)に間違って適応したことによる

第6節 理性と信仰

 このように見ると、カントは神の存在を否定しているように見える。しかし、彼はプロテスタント教会の敬虔な信者であった。カントが言いたかったことは、経験の裏づけがない事柄は、理性によって正しく認識されないということだけであって、信仰の否定ではなかった。カントが『純粋理性批判』で述べた言葉を引用してみよう。「私は、信仰に席を空けるために、(神に関する)知識(すなわち理性的認識)を否定しなければならなかった(括弧は筆者)とある。

 カントは、信仰と理性とを厳密に区別し、それぞれの働きが及ぶ領域を明確にしたのだった。理性は、感覚(経験)によって与えられた現象界にのみ関わり、信仰はそれを超えるものに関わる。なおカントは、これまで述べてきた、認識に関わる理性を理論理性(die theoretische Vernunft)と呼び、信仰に関わり、それを分析する理性を実践理性(die praktische Vernunft)と呼んでいる。実践理性は実際的なこと(行為)に関わり、それを考察する理性である。とは言え、この二つの理性は、同じ理性の二つの面であり、いずれも信仰とは区別される。

第7節 実践理性――自由と必然

 カントによれば、人間は、厳格な因果律(自然法則)の支配する自然界に属している人間は、その限りで、自然の法則に従属しており、人間の自由は否定される。人間の行動は、自由意志に基づくものではなく、因果律という必然的な自然法則に拘束される。たとえば、空腹になり食欲を満たす行動がとられた場合、その行動の原因は、自由意志ではなく、空腹という生理的な要因である。したがって食欲を満たす行動自体は、自由な行為ではない。ところがカントは、人間は実践理性を行使する限りでは、自然界の法則に縛られながらも、自由意志によって行為していると言う。

 カントによれば、人間の理論理性には空間と時間の形式や純粋悟性概念が生得的に備わっているように、人間の実践理性には、行動の善し悪しを定め、正しい行動を命じる能力が生まれつき備わっているとされる。この善を行なうことを命じる理性の命令が、道徳律(Sittengesetz)あるいは道徳法則である。この道徳律は、生得的であるがゆえに、自然法則が自然界のすべての現象を支配するように、すべての人間の行為に、等しく普遍的に適応される。

 ところでカントによれば、我々が従うべき真の道徳律は、いつどこでも無条件に守られねばならないもので(定言的命法)、道徳的行為の主体の利害を度外視した純粋な義務(そうしなければならないという義務)であるとされる。

 ここでカントが人間の自由をどのように考えていたかが、はっきりする。人間は、地上に生きる生物としては、自然法則に拘束され、自由ではない。しかし人間は、道徳法則という無条件の義務に従っている限りで、自然界の法則を超え、自由に決断している。身の危険を賭してまでも他人の命を救おうとする隣人愛が、そのよい例である。

 カントによれば、無条件に善の実行を迫る道徳律は、我々一人ひとりに共通する実践理性の命令である。ところがこの実践理性は、我々自身である。それゆえ、道徳律に従うとは、我々の実践理性の要求に従うことであるが、それは、結局、我々自身が――自然法則やあらゆる損得を超えて――我々自身に定めた命令に、自発的に従うことと同じである。したがって、実践理性の命令に従うことは、我々自身の自由を制限するものではなく、むしろ我々自身の自由な決断の現れである。このような意味でカントは、この実践理性の命令に従うことができるとき、我々は本当の意味で自由であると述べている。道徳律の義務に従うことは、自由の制限ではなく、むしろ自由の証しである。カントは、次のように言う:

あなたは、そうすべきであるだから、あなたはそうすることができる(Du kannst, denn Du sollst)

第8節 まとめ

 数学的自然科学の認識論的基礎づけというデカルト以来の課題は、「対象は認識に依存する」というカントの合理主義により、ひとまず果たされた――直感と思考の諸形式の生得性と普遍性を独断的に前提にした(信じた)という致命的な欠陥があるけれども。この合理主義は、その 嫡子 ( ちゃくし ) である科学技術の急激な発達により危機を迎えた。なぜなら、人々のさまざまな願望を ( かな ) えてくれるはずの科学技術が各方面で人間に弊害をもたらし始め、そのような弊害の原因となった合理主義に疑いの目が向けられたからである。この人間存在の危機を克服しようとしたのが、ニーチェである。



[1] 普遍妥当性Allgemeingültigkeit個人的主観的思考や知覚とは無関係に、すべての思考や認識に妥当する(当てはまる)性質を意味する。普遍性Universalitätすべてのものに通じる性質。また、すべての場合にあてはめることのできる性質。

[2] 客観性Objectivität主観から独立して存在する客観(対象)に属し、それに条件づけられている性格。いつ、誰が見てもそうだと認められる性質。

 

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