哲学概論

更新日時2019/02/03

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第12回

第9章 ニーチェ

 カントによると、すべての人間の理性は、それに生得的な直観の形式(空間と時間)思考の形式(純粋悟性概念)とにより、感覚から得た主観的な情報(感覚与件)を「客観的に処理し外界に関する客観的な認識を得る。その限りでカントは、「認識が対象に依存するのではなく、対象が認識に依存する」とした(コペルニクス的転回)

第1節 ニヒリズム(Nihilism)

 19世後半に入ると、ヨーロッパでは工業化(産業革命)が進み、技術文明が成立する。しかし、人間の理性によって生み出された技術文明は、人間に物質的な豊かさと利便性をもたらす一方で、人間からある何かを失わせた。それは、敢えて簡単に言えば、それまで自分たちを支えてきた伝統的価値観(心の支え・キリスト教)である。さらに、名目はどうであれ、幾度となく繰り返された紛争の数々は、伝統的価値観の無力さを人々に否応なしに痛感させた。信頼すべき価値がないとする考え方をニヒリズム(Nihilism 虚無主義)という。ニーチェは、こうした寄る辺ない時代に生まれた。彼の課題は、このニヒリズムを克服し、人生にもう一度、生きるに値する意味(価値)を見出すことであった

第2節 ニーチェ(Friedrich Wilhelm Nietzsche, 18441900)

 ニーチェは、1844年にドイツのライプチヒ近郊の小さな村に、プロテスタントの牧師の子として生まれた。牧師であった父に早く死なれたため、ニーチェは、祖母や母、叔母、妹などの女性ばかりに囲まれ、厳格なプロテスタントの教えの中で育てられた。そのことが、その後のキリスト教道徳に対する強い反発を彼に芽生えさせたとも言われている。彼は、1864年にボン大学に入り、キリスト教神学古典文献学(ギリシア古典を修復する学問)を履修したが、翌年ライプチヒ大学に移り、ソクラテス以前のギリシア文学および思想を研究した。彼は、このライプチヒ大学に在学中、およそ30歳年上の作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813〜83)と親交を結び、芸術に関心を持つようになった

 古典文献学者として優れた才能を発揮したニーチェは、1869年の春、まだ大学を卒業する前に、25歳という異例の若さでスイスのバーゼル大学の助教授に任命された(1869)。しかし、彼の処女作『音楽の精神からの悲劇の誕生(1872)が学会の不興を買い、彼は、健康上の理由で――学生時代に感染した梅毒によって健康が悪化していた――、バーゼル大学を辞し(1879)、以後、年金を頼りに思索と執筆に専念した。1980年代が彼にとって最も生産的な時期であった。彼は、持病に悩まされながらも、幾つかの著作を発表した。しかし、梅毒に起因する進行性麻痺症のために発狂し(1889)1900年に亡くなった。主な作品は、『ツァラトゥストラはかく語りき』『善悪の彼岸』『力への意志』である。

第3節 ニヒリズムとしてのプラトン主義

 ニーチェの課題は、一切の価値や意味を疑うヨーロッパのニヒリズムを克服することだったニーチェは、死後に出版された力への意志で、プラトン以来のヨーロッパの文明は、根本的にプラトン主義だと言う。彼は、生前の著作善悪の彼岸の中では、「キリスト教は民衆のためのプラトン主義である」とも言っている。

 プラトン以来のヨーロッパの哲学は、この現実の世界を超えたところに、超越的な――客観的で普遍的な――価値(イデア・理想・理念)を設定し(プラトン主義)地上の諸事物の一切はそれらの超越的な価値によってのみ初めて意味を与えられる単なる材料・物質とした。こうして成立した物質観が近代自然科学の基礎になった。

 もちろん、これまで幾度も指摘したように、デカルトやカントの哲学も一種のプラトン主義である。実際、デカルトやカントの哲学において、すべての理性に共通に備わるとされた生得観念先験的で普遍的な諸形式(直観の形式や思考の形式)は、外界の諸事象(自然界・現象界)を理性に都合のいいように加工する点で、プラトンのイデアと同様の働きをする。そのような意味で、デカルトやカントの哲学は、一種のプラトン主義(合理主義)である。

 ニーチェは、ヨーロッパのニヒリズムが生じた原因は、そのようなプラトン主義にあると考えた。ヨーロッパ文明(科学技術)は、プラトン主義(合理主義)の教えるままに、理性の対象である超越的な価値(イデア)に基づいて不自然に形成されてきたしかしながら、超越的な価値の ( もと ) をただせば、それは、道徳的価値判断の客観的な基準や知識の客観性を確保するために、人間の理性が仮定した理想にすぎず、本当に実在するものはない。イデア論は仮説である。ニーチェによれば、ヨーロッパ文明は、本来ありもしない超越的な価値を中空に描き、それを掴み取ろうと必死に身を伸ばしたが、結局、それを取り損ない、転倒しれてしまった。したがって、本来ありもしないもの(の実現)を目指して形成されたヨーロッパ文明の歴史は、その最初からニヒリズムの歴史である

 『ソフィーの世界には、このニヒリズムについて、次のように述べられている:

キリスト教も旧来の哲学も、現世にそっぽを向いて天上界イデアの世界を目指す。どちらも真の世界と思われているけれど、本当は幻でしかない。

 ヨーロッパのニヒリズムについてのニーチェの考えをいちばんよく表しているのは、「神は死んだ(Gott ist tot)という、言葉である。これは、超越的な価値(イデア界)の無効を宣言している。すでに、アウグスティヌスの思想を取り上げた章で述べたように、伝統的なキリスト教神学の創造論によれば、神の精神の中には、世界のモデルとしての永遠のイデア(永遠の計画・モデル)があると信じられた」。キリスト教の神は、超越的な価値を象徴している。

 では、ニーチェは、どのようにしてこのニヒリズムを克服しようとしたのだろうか。ニーチェは、ニヒリズムを克服するには、ニヒリズムを徹底するしかないと考えている。その意味で彼は、自分の哲学を「完全なるニヒリズム」とか「極度のニヒリズム」と言っている。ニーチェによれば、ニヒリズムは、これまで現実世界に意味や形を与えてきた超越的価値(イデア)が無意味なものになったことに気づくときに始まる。したがってニヒリズムの克服とは、このようなニヒリズムを生み出した、ありもしない超越的な価値を積極的に否定する以外にはない。このようなニヒリズムの徹底は、「等しきものの永劫回帰」という思想によっても表明されている。

第4節 等しきものの永劫回帰(die ewige Wiederkehr des Gleichen)

 永劫回帰とは、同等の事柄が永遠に繰り返し起こるという思想で、『ソフィーの世界』ではインド・ヨーロッパ語族の文化圏に特徴的な円環的歴史観であるとされる。ニーチェによれば、この世は、物事が生じては消える生成消滅の世界である。しかし、世界には最終的に向かうべき究極の超越的目標(理想)が存在しない世界は、物事が当て所なく進展し、似たようなことが永遠に繰り返される舞台である

 世界の内で生じる物事は、永遠の昔から程度の差こそあれ同じように繰り返され、今後も繰り返される。すべてが似たようなことの繰り返しであるとすれば、このような「等しきものの永劫回帰」の世界に希望を持つことはできないだろう。なぜならそこでは、たとえば私だけの人生などはありえず、それはかつて誰かが生きていた他人の人生の似たような反復でしかないからである。現代風言えば、「オンリー・ワン」の思想は否定される。「等しきものの永劫回帰」の世界に見出される意味はすべて、使い古された意味でしかない。そこでは、固有な意味や新しい価値の創造などあり得ないこれが、ニーチェの目指していたニヒリズムの徹底、極度のニヒリズムに他ならない

第5節 ニヒリズムの克服――大地・超人

 もちろん、ニーチェの言うニヒリズムの克服は、たんにニヒリズムを徹底し、「等しきものの永劫回帰」の自覚に至り、一切は無価値であると断定(絶望)することに尽きるものではない。ニーチェによると、超越的価値を、在りもしないものとして徹底的に否定することにより、ありのままの現実の世界すなわち大地(自然)が、頼れるべき世界として立ち現れてくる。ニヒリズムの徹底は、我々がプラトン以来、否、パルメニデス以来かけてきた超越的価値という理性の眼鏡を外し、現実の世界(自然)をありのままに見ることに帰着する。

 たしかに、この理性の眼鏡を取り外せば、我々の ( まなこ ) には、命に満ち溢れた躍動的な世界が開けてくるだろう。デカルトやカントの哲学においては、我々の理性の目に映る世界は、理性よって再構成された無味乾燥な幾何学的世界だった。我々は、この理性の眼鏡(合理主義の眼鏡)を外すことにより、数学的自然科学では切り捨てられた感性的な自然、すなわち、感覚(五感)によって感知されるありのままの自然を取り戻すことができる。ニーチェによれば、ニヒリズムの徹底は、詰まる所、超越的な価値の一切を否定した後もなお存続する、この生命力に満ちた自然を再発見することであった。真実の世界は、理性が作り上げた永遠不変のイデア界ではなく、やはり、この目の前に広がる現実の世界(大地・自然)であった。『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で、ニーチェは次のように述べている:

 私は君たちに超人を教える。人間は、超克されるべきところの、何ものかである。君たちは、人間を超克するために何をなしたか。・・・・・・見よ、私は君たちに超人を教える! 超人は大地の意味である。君たちの意志は言うべきだ、超人を大地の意味たらしめよう! と。 私は君たちに懇願する、私の兄弟たちよ、あくまでも大地に忠実であれ、そして、君たちにもろもろの超地上的な希望について話す者たちの言葉を信ずるな! 彼らがそれを知ろうが知るまいが、彼らは毒害者なのだ(ニーチェ全集9吉澤傅三郎訳)

 ニーチェによれば、「超人」とは、スーパーマンではなく、大地という自然である。我々は、すべての超地上的な価値を否定し尽くした後も、なお厳として存在する大地という自然(フュシス)をありのままに認め、それに忠実に生きねばならない。では、なぜ我々は、大地という自然に忠実にならなければならないのだろうか。それは、超越的な価値を否定し尽くした後も残る大地という感性的世界(五感によって感知される世界)に立ち戻り、超越的な価値に代わる新たな価値(人生の目的・生きる意味など)を見出すためである。ニーチェによれば、そうした新たな価値を発見するための手段は、芸術だとされる。以下では、ニヒリズムの克服という観点から彼の芸術観を紹介してみよう。

第6節 新たな価値定立の試みとしての芸術

 ニヒリズムの徹底によって一切の超感性的価値が否定し尽くされた後、我々に残されたものは、合理主義の立場では無意味なものとされた感性的世界だけである。どのようにして我々は、この感性的世界に立脚し、ニヒリズムそのものである伝統的価値(超越的価値)代わる新たな価値を定立(=設定)することができるのだろうか。ところで、根本的に新たな価値を設定するには、まず、価値を設定するための拠り所すなわち立場が求められなければならない

 その立場はどこに求められるべきであろうか。もはや、残されているのはこの感性的世界(大地という自然)だけであるニーチェは、この感性的世界に見出される存在者の根本性格に、それを求めている。ニーチェによると、それは、「力への意志der Wille zur Machtである。

 「力への意志とは、すなわち生きること(leben)への意志生命力を意味する(生きるということ)は、常に現にあるよりもより強く、より大きくなろうとする限りで生である。したがって、「力への意志とは、より力強く生きることへの意志である。もしも我々が、現状維持に甘んじるようなことになれば、我々は、もはや生きているのではなく、死に始めている。ニーチェは、生そのものの本質に属する「現にあるよりもより強くより大きく」という明確な方向性を、「力への意志」という概念で言い当てようとしている。

 このようにニーチェは、超越的価値が想定されることによって一切の生命力を否定され、単なる素材(物質)に貶められた自然(ピュシス)に、もう一度、それ本来の生命力を回復させ、その生命力を新たな価値定立の原動力(拠り所)として、ニヒリズムを克服しようとするのである

 ニーチェの思索において、芸術が主題化されてくるのは、そのような文脈においてである。彼の遺稿『残された断想』に、次のような言葉がある:

芸術家という現象はもっとも見透かしやすい。芸術家という現象から眼なざしを力という根本的本能へ、自然やさらには宗教や道徳などの持つ力という根本的本能へ向けること(NF IX, 174)

 ニーチェによれば、芸術家を通して――芸術家の営み(芸術)を通して――自然や人間のあらゆる営みの内にひそむ力への意志」、すなわち生きることへの意志がもっともよく見通される。すなわちニーチェにとって芸術家は、より強くよりたくましく生きようとする意志を捉え、それを、作品を通して具象的に表現すべきものなのである

 それと同時に、芸術は、生きる意志を強化するとともに、生きることを妨げるあらゆる超越的な価値に対抗する卓越した力であるとされる。ニーチェは、その遺稿『力への意志』で次のように述べている:

芸術は、生を可能ならしめる偉大な形成者であり、生への偉大な誘惑者であり、生の偉大な刺戟剤である

芸術は、生を否定するすべての意志に対する極めて卓越した対抗力に他ならない芸術は、すぐれて反キリスト教的な、反仏教的な、反ニヒリズム的なものに他ならない

 このようにニーチェによれば、芸術は、力への意志を見通し具象化することにより、生を肯定し刺激するものであり、ニヒリズムを克服するための卓越した手段であるとされる。では、伝統的な超越的な価値を否定し尽くした後に、力への意志にみなぎる現実に対面し、芸術家は、どのような新しい価値を定立(設定)するのだろうか

 ニーチェは、自然から一切の生命力を奪い、まったく無機的な素材たらしめてた超越的(形而上学的)価値の一切を否定し、自然にもう一度その本来の生命力を回復させ、自然を生けるものとして見ようとした。しかし、その生は決して無方向な衝動などではなく、常に現にあるよりもより強くより大きくならんとするもの、つまり「力への意志」を根本的な性格としている。ニーチェは、力への意志、すなわちより強く生きる生には、二重の価値定立作用が本質的に備わっているとする。彼は、「価値」の概念そのものを生の視点の下に捉え直し、次のように述べている:

価値という着眼点は、生成の内にある生(leben)――という相対的に持続する複合的な組織――に関する維持と昂揚(こうよう)の条件となる着眼点である(NF X, 341)

 ニーチェによれば、価値とは、決してそれ自体で存在したり妥当したりするような超越的な何かではなく、不断の生成の内に持続する生が、おのれの到達した段階を維持し見定めるために設定する目標(着眼点)であり、さらにより強く昂揚するために設定する目標(着眼点)にすぎない。したがって生には、二重の価値定立作用があるとされる。すなわち、到達した段階を維持し見定めるための目標(価値)を設定する定立作用(現状維持の価値定立作用)と、到達した段階からさらに 昂揚 ( こうよう ) するために、新たな到達すべき目標(価値)を設定する作用(昂揚のための価値定立作用)である。

 ニーチェによると、理性の要求する超越的な価値、すなわち、本来ありもしない永遠不変の価値(イデア)は、現状維持のための価値定立作用から生まれたとされる。我々は、各自の生において到達した現状を維持するためにみずから設定した目安(価値)に囚われ、すべてを固定し、自然や生から躍動的な生命力を奪うのである

我々は成長するために、おのれの信念において安定していなければならないということから、我々は真の世界は変転し生成する世界ではなく、(永遠不変に)存在する世界であるということを捏造してしまった(NF X, 341)

 他方、ニーチェによると、我々の生が現状から次の新たな段階に昂揚するために設定する価値は、美であり、これは芸術によって典型的に果たされる。もちろんその美は、より強く生きようとする意志を昂揚させる目安にすぎない:

芸術は、昂揚した生の、形象や願望による動物的機能の挑発であり、生命感情を高めるもの、その刺戟剤である(NF X, 83)

 言うまでもなくニーチェは、それら二つの価値定立作用のうち、いずれを優先させたかというと、芸術による価値定立作用である。なぜなら芸術は力への意志を昂揚する働きを持つのに対し、現状維持の価値定立作用は、それを固定し、とかく、ありもしない超越的価値を捏造しがちだからである。この意味で彼は、次のようにも言っている

芸術は真理(=超越的価値)にもましていっそう価値が高い(NF XI, 34)

 ニーチェによると、ヨーロッパのニヒリズムすなわち合理主義(プラトン主義)は、芸術よりも理性を、よりも真理(超越的価値)を価値ありとし、もともとは生によって立てられた現状維持(安定)のための単なる目安に過ぎない価値を実在させ、躍動的なをそれに隷属させたところに生じた。ニーチェは、そのような超越的な価値を現実の生に引き戻し、それを現状維持のための単なる目安として捉え直し、むしろ力強い生の昂揚のためには認識(理性)よりも芸術が、真理よりも美がいっそう価値が高い」としたのである。彼はこうも言っている:

我々は真理(超越的価値)によって駄目になってしまわないために、芸術を持っている(NF XI, 369)

 ニーチェにとって芸術は、ありのままの世界(大地・自然)にみなぎる生命力(力への意思)を捉え、一定の様式の下に具象的に表し、人生をさらにより強く生きることを促すものなのであるこれが人生か、ならばもう一度」。これは、ニヒリズムを克服し、新たな価値(目安)の創出に乗り出した「超人」(=大地)の発する言葉である。

まとめ

 ニーチェは、ニヒリズムの克服の試みの中で、人間の生き様と芸術の役割を問い、19世紀という寄る辺なき時代・神なき時代をたくましく生き抜く思想を生み出した。次章に紹介するハイデガーは、同じく20世紀の神なき時代に、人間が存在するとは如何なることか、その人間の存在の意味を明らかにしようとした。

 

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