哲学概論

更新日時2019/02/03

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第13回

第10章 ハイデガー(Martin Heidegger)

19世紀という寄る辺ない「神なき時代」にあって、ニーチェは、「より強く生きたい」という「力への意志」(生命力)を体現し、それを昂揚させる芸術に、ニヒリズムの克服の切り札を見た。今回、紹介するハイデガーも、同じく20世紀の神なき時代に、人間が存在するとは如何なることか、その人間の存在の意味を明らかにしようとした。

 生涯

 ハイデガー( 1889.9.261976.5.26) は、第二次世界大戦中、ヒトラーの独裁政治に荷担したことが災いし、戦後、大学から追放された。しかし、彼の思想があまりにも大きな影響力を持っていたため、後に彼は、大学の仕事に復帰することができた。彼は、20世紀最大の哲学者だと言われている。これほど偉大な哲学者が、哲学史の書である『ソフィーの世界』で、表立って語られていないのは不思議に思われる。しかし、彼はその書で無視されていたわけではない。ハイデガーの思想は、最初から最後までソフィーの世界の隠れた主題になっている。

 ハイデガーには、第二次世界大戦中にナチスに積極的に協力したという暗い過去(汚点)があるため、彼の生涯について語ることは難しい。彼は、南ドイツのメスキルヒという村に生まれた(1889)。カトリックの神父になるつもりだったようで、フライブルク大学で神学と哲学を学び、特にフッサールという人から現象学(哲学の一種)を学んだ[1]。後に母校の教授となり(1928)、ナチスの後ろ盾を得て、44歳の若さでフライブルク大学の総長に就任した(1933)。戦後、連合国によって教壇を追われたが(1945)、再びフライブルク大学に復帰し(1951)1976年に死去した。主な著書(研究書・講義録)に、存在と時間(1927)現象学の根本問題(1927)形而上学入門(1953) ニーチェ(1961)などがある。以下では、存在と時間(Sein und Zeit)の上巻を手掛かりに彼の思想を紹介したい。その下巻は、予定されたものの、日の目を見ることなかった。

第2節 現象学的存在論と実存哲学

 ハイデガーの思想は人間のありのままの存在( ( ) ( ) )や生き様を問い、どのように生きるべきかを教える実存哲学だとしばしば言われる。しかし、ハイデガー自身は、自分の哲学はそのような実存哲学ではなく、人間の存在も含めてこの世の中に存在するすべてのものの存在の意味を問う現象学的存在論(Phänomenologische Ontologie)――それは、その目的において、アリストテレスが定義する『形而上学』と同じ――だと言っている。

 現象学(Phänomenologie)とは、与えられた物事をありのままに、すなわち我々に現われる(現象する)ままに記述し、分析する学問(哲学の一部門)である存在論(Ontologie)とは、存在するとは 如何 ( いか ) なることかを問う学問(哲学の一部門)である。したがって、現象学的存在論とは、存在の意味を現れるままに探求する学問である。ハイデガーの哲学は、人間の存在にのみ関わるのでなく、広く存在者の存在一般に関わる。それがなぜ、人間の生き様を問題にする実存哲学と誤解されたのだろうか。それには、それなりの理由がある。

 ハイデガーは、すべての存在者(存在するもの)を存在者たらしめている「存在」の意味を問うことを現象学的存在論の課題にした。しかし、この存在意味を問うことができるのは、人間だけであるそれゆえ、現象学的存在論は、人間の存在理解(存在了解Seinsverstandnis)――人間が自分の存在をどのように理解しているか――から出発しなければならない。我々の知る限り、人間だけが、自分の生き方に疑問を持ち、自分の存在に思を巡らすことができる。人間は、自分なりに理解した人生観や存在観(有り方)を各自の生活に反映させ、なんとかこの世を生きている。

 ハイデガーの現象学的存在論は、人間自身が取る存在への関わり方、自分なりの存在理解を手掛かりにして、すべての存在者を存在たらしめている存在の意味を明らかにしようとしたこのような彼の人間を中心にした存在へのアプローチが、人間存在の意味や生き様を問う実存哲学と似ていたため、彼の哲学は、実存哲学であると言われるようになったのである。ところでハイデガーは、人間の存在理解をありのままに明らかにすることを実存分析(existentiale Analytik)と呼んでいる。実存分析とは、現実に存在する人間の在り方を、おのれの存在了解を手掛かりに分析することである。

 しかし、ハイデガーの哲学が実存哲学だ言えるのは、存在と時間の「上巻」に関してだけであった。存在と時間には、下巻も予定されており、ハイデガーは、その下巻で、上巻で得られた実存分析の成果を基に、存在一般の意味を問おうとしていた。ところが、下巻は書かれることなく、予定・構想のまま終わった。したがって、存在と時間の全体の構想から言うと、人間存在の実存分析が行なわれている存在と時間の上巻をもって、それを実存哲学の本と見なすことをハイデガーが拒否したのには、相応の理由があった。上巻の実存分析は、下巻で存在一般を問うための予備作業に過ぎなかった。

 ハイデガーは、存在一般の意味を明らかにするには、人間がみずからの存在に対して抱く存在理解を手掛かりにすべきであるとしたしかし人は、いつ自分の存在に注目し、その意味を探求しようとするのだろうか

第3節 日常性と非本来的な生き方

 ハイデガーによると、我々は、常に自分の存在を考えて生きているわけではない。我々は、仕事やその他の関心事に気を取られ、自分がなぜ存在するのかを真剣には考えない。我々は、自分が存在することを当然のこととし、その日その日を他人や物(道具)との関わりの中で生きている。

 ハイデガーは、このような人間の日常的なあり方を「非本来的なあり方」と呼び、人は自分の存在の意味を問うことなく日常性の中に埋没して生きているとしている。人間は、普段この「日常性」の中で、他人と同じように行動し他人と同じように物事を考える個性のない平均的な生き方をする。

 ハイデガーは、このように他の人と同じように物事を考え、同じように振る舞う人を、世人(das Man)を名づけている。「世人」という語は、固有名詞ではなく、不特定多数の人々を表す普通名詞として使われている。世人は、いわば流行を追っている人である。世人は、皆と同じ服装をし、皆と同じように振る舞う個性のない人である。このことは、サラリーマンや制服姿の人たちによく当てはまる。彼らは、ほとんど同じ服を着、いつものように決まった仕事をし、一日を、いや一生を終えていく。世人は、人並みの人生を生きる。このような世人のあり方は、ハイデガーの生きていた頃ばかりでなく、今日の社会にも見られよう。我々は、社会の定めた規格に沿い、同じ言葉をしゃべり、人並みの着こなしをし、人並みに振る舞い、人並みの生活をする没個性的な規格人間」である。世人の特徴は次の二つにまとめられる:

      平均性 Durchschnittlichkeit

      免責 Entlastung:この語には、「責任免除」、「責任回避」という二つの意味が含まれている。

 この二つの特徴をもう少し詳しく述べていよう。平均性は、いま述べた通り、皆と同じように考え、同じように振る舞う規格人間の状態を指す。免責とは、皆が同じことを考え、同じことを行なっているのだから、特定の行為に対し、一個人が責任を取る必要はないということを意味する。この免責の好例は、おそらく、地球温暖化防止のための自動車の運転の自粛だろう。それは一向にはかどらない。その理由は明らかである。「私ひとりがやめても、どうにもならない。皆がやっているから」。人は、平均的な考え(偏見)に責任を転嫁し、自分の行為に目をつぶる。

 このとき、世間や他人が自分の保証人になっている。世間は、「そのようなことは、皆がやっている」という理由で、個人の責任を免責する。では、世間とは、いったい誰をさすのだろうか。それは誰でもない。つまり、世間は、個人の行為を保証するしかし、保証人としての責任を負う者は、誰もいない世間は、他人の責任を免除してくれるが、責任は負わない。こういう性格を持ち、世間に埋もれて生きる生き方が、「世人(das Man)の日常的なあり方である。

 ハイデガーによれば、世人は、目先のものに気を奪われ、平均的な考えに従って無責任に行動し、自分自身の存在を真剣に考えない。しかし人は、あるとき、自分自身の存在を意識し、なぜ自分が存在するのかを問い、非本来的な生き方(Uneigentlichkeit)から、本来的な生き方(Eigentlichkeit)をするようになる。では、いつ人は、自分自身のあり方を真剣に考えるようになるのだろうか。それは、他ならぬ自分自身の死に直面したときである。他人の死ではなく、自分自身の死に直面することによって、人は自分自身の人生の有限性に気づき、そこで初めて自分が生きていること、自分自身が存在していることの重みを自覚し、自分自身のあり方を真剣に考えるようになる。『ソフィーの世界』の冒頭部は、次のようなことが書かれている:

 ソフィーは、ひとしきり、私はいる、と考えたすると、いつまでもいるわけじゃないと考えないわけにはいかなかった今、私はこの世界にいるでも、いつかある日、私は消えてしまう。死後の生はあるのだろうか? この問いも、猫にはさっぱりわからない。ついこの間、祖母が亡くなった。それから半年以上、ソフィーは毎日のように、祖母のいない寂しさを噛みしめたものだった。生命に終わりがあるなんて、そんなのあんまりだわ!

 ソフィーは砂利道に立ったまま考え込んだ。私はいつまでも生きているわけではない、ということを忘れようとして、一心に、私は生きているとだけ考えようとした。けれどもまるでだめだった。私は生きていると考えれば考えるほど、この生命は何時かは終わるという考えもすぐに浮かんでくる。その反対でも同じだった。私はある日すっかり消えてしまう、と強く実感して初めて、生命は限りなく尊いという思いも込み上げてくる。・・・中略・・・。

 人は、いつかは必ず死ぬということを思い知らなければ、生きているということを実感することもできない、とソフィーは考えた。そして生の素晴らしさを知らなければ、死ななければならないということをじっくりと考えることもできないと。ソフィーは、祖母が自分の病気を告げられた日に、似たようなことを言っていたのを思い出した。「人生はなんて豊かなんだろう。今ようやくそれがわかった」。たいていの人が、生きることの素晴らしさに気づくのが病気になってからだなんて、悲しい。みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに。

 死の自覚と生きることのすばらしさを知るには、「みんなが謎の手紙を郵便箱に見つければいいのに」と書かれている。「謎の手紙」とは、「哲学者からの不思議な手紙」という副題のついた『ソフィーの世界』のことである。いま引用した言葉は、『ソフィーの世界』の導入部に書かれている。したがって、この『ソフィーの世界』は、ハイデガーのことについて直接何も言っていないが、それ全体がハイデガーの哲学の紹介であるのは、これによって明らかである。

 人間は、自分の死に直面するとき、生きていることの素晴らしさ、自分の存在の重みを知るそして、自分の存在を改めて見直し、自分の今の人生を他の誰のものでもない自分自身の一度きりの人生として捉えることができるのである。ハイデガーによれば、この死の自覚を通して、人間は、自分の死を忘れた世人(das Man)としての在り方――非本来的な生き方日常性――から離れ、本来的な生き方をするようになる。では、本来的な生き方とは、具体的にはどのようなものだろうか。自分の死を自覚して生きると言っただけでは、それが何を言っているのか分からない。我々は、自分の死を自覚した上で、どのようなことをすれば、本来的な生き方」をするのだろうか。その問いに答える前に、もう一度、人間の日常的な在り方を分析してみよう。

第4節 現存在・被投性・世界内存在・投企

 人間は、ふだん、日常性の中に埋没し、自分の来るべき死を忘れ、世人(das Man)として非本来的な生き方をしている。しかし、人間はこの日常の在り来りの生活に取り囲まれているだけではない。彼は、目前の社会、この世界の中に ( あらが ) い難く埋め込まれている。ハイデガーによれば、人間は、生まれたときには既に、自分で決めたわけでもない一定の時間的空間的状況の中に否応なしに投げ込まれ、そこから抜け出すことができない。このような逃れることのできない状況を、ハイデガーはドイツ語で「ダー(Da)と呼び、その「ダー(Da)の中に投げ込まれている人間の在り方を、「ダー・ザイン(Dasein)、すなわち日本語で現存在と表している。「ダー(Da)は、英語で there / here / then に相当する。

 たとえば、私は、自分でこの地上の人生を選んだわけではない。おそらく私の両親の夫婦の営みが、私がこの世に生まれた原因であるとしても、私がこの夫婦の営みを両親に促したわけではない。私は、自分の意志とは関わりなく、まったく偶然にこの世に生まれ、気づいたときには既にこの地上の、特定の時期、特定の地域にいる。私がこの状況の中にいるのは、まったくの偶然理由のないこと(不条理)である。

 さらに私は、この地上から、この特定の時間や場所から自由になることはできない。それは死ぬときだけである。私は、生きている限り、この地上の特定の場所や時間に縛られて生きている。たとえば、私が、「今、ここ(hic et nunc)という特定の状況から逃げ出すことに成功したとしても、この世界から、いやこの宇宙から逃げ出すことはできない。我々は常に、新たな「今、ここ」という特定の状況に投げ込まれる。

 ハイデガーは、我々を取り囲むこの逃避不可能な時間や空間を状況(Da)と呼び、人間はこの状況(Da)の中に不可避的に存在する現存在(Dasein)だと言うのである。人間は「ダー・ザイン」(Dasein)として特定の時間的・空間的状況(Da)に置かれ、それに制約されている。ハイデガーは、人間がこのように特定の状況(Da)意味もなく不可避的に投げ込まれた状態被投性(Geworfenheit)と呼ぶ。この「被投性」という語は、ハイデガーの造語で、ドイツ語で「投げる」という意味の動詞(werfen)の過去分詞形に由来し、「投げ込まれた状態」を意味する。すなわち、特定の状況の中に不可避的に投げ込まれた人間存在には、常に被投性という特徴が見出される。ハイデガーによれば人間は、みずからに課せられたこの状況(Da)から逃れることができない。かりに逃れることができたとしても、人間は、常に新たな状況に投げ込まれる。

 こうした「ダー(Da)という状況に投げ込まれた人間は、自分がなぜ、このような「ダー(Da)に置かれなければならないのか分からない。私がこのダー(Da)の中に投げ込まれているのは、理由のないことであり、不条理(Absurde)である。不条理とは、理由がわからないということである。

 ハイデガーにとって状況(Da)とは、我々を取り囲むすべてのもので、これは気づいたときには既に我々の周りにあり、我々を取り囲み我々の可能性を制限している。たとえば、私はここに黄色人種として立っている。しかし私には、白色人種になる可能性はない。なぜだか分からないが、しかしともかく私を取り巻く現実はそうなっているという性格が、「ダー」(Da)という状況に本質的に備わっている。そういうダー(Da)という状況の中で人間のあり方は、運命的に制約されているそれをハイデガーは、被投性(Geworfenheit)と言ったのである

 ハイデガーによれば、人間を不条理に制約する「ダー」(Da)という状況をもう少し拡大したものが、世界内存在(das- in-der-Welt-sein)という言葉である。この言葉は文字通り、人間は目前の特定の状況に投げ込まれているばかりでなく、もっと広く世界という状況の中に投げ込まれている事態を表している。現存在と世界内存在はほとんど同じことを言っているが、世界内存在の方がもう少し広い視野の下に人間を捉えている。

 しかし、この世界内存在という言葉には、もっと深い意味が込められているそれは、プラトン以後のヨーロッパの哲学的伝統に対する批判である。プラトン以後のヨーロッパでは、合理主義(プラトン主義)が圧倒的な力を持っていた。特にデカルトやカントを取り扱った章で言及したように、この合理主義においては人間の理性は、神に等しい地位を与えられ、世界の存在を決定し、世界を製作する役割を与えられた(製作的思考法)。しかし、人間の理性が世界の存在を決定し、世界を製作することができるには、人間が神と同じように、「世界の外に」いわば飛び出ていなければならない。

 しかしハイデガーは、こうした人間理解に対して、人間は世界を超越することはできず、人間は世界の中に運命的に投げ込まれているとする。そのような意味で人間は、特定の状況の閉じ込められた現存在(Dasein)であるばかりでなく、世界内存在(das-in-der-Welt-sein)である。詳論は控えるが、ハイデガーは、ニーチェと同様に、プラトン以来のヨーロッパの合理主義(=ニヒリズム)を克服し、ソクラテス以前の自然観(自然的存在論)を復権させようとしていた

 ともあれ人間は、このような制約された状況の中で、自分の死を自覚し本来的な生き方をするとき、ある決断を迫られる。その決断をハイデガーは、投企(Entwurf)――「下絵(設計図)を描く」という意味の動詞(entferfen)に由来――と言っている。投企とは、限られた状況の中で、これからどういう生き方をすべきかどういうあり方をすべきかを、その都度の状況によって限られた選択肢の中から自分の責任で決める決断(被投的投企)である。

 人間は、自分自身の死を自覚した上で、自分本来の生き方をしようとするとき、自分の責任において、自分の本来的なあり方を決めなければならない。しかし、このような決断すなわち「投企」は、無制約なものではない。人間が投企によって選択できる本来的な生き方は、状況によって限られている

 たとえば、私がここで、建物の崩壊という生死を分かつ危機に直面したとき、死の危険に直面しながら取るべき行動は、非常に限られている。この机の下に座るか、それとも皆さんを非常口に誘導するか、あるいは皆さんを放っておいて我先に逃げ出すか。差し当たり、この三つの選択肢しか考えられない。自分自身の決断と責任で選ぶことのできる投企の可能性は、状況によって限られている。

 人間は、自らに与えられた特定の状況(Da)の中で、限られた選択肢の中から死の自覚に立ってみずからの決断で自分の人生を選び取るしかない。死の自覚に立った人間の決断(投企)の場面をもう少し詳しく分析してみよう。

第5節 死への存在 Sein zum Tode

 人間は特定の限られた状況の中に投げ込まれた状態(被投性)にあるとき、自由な決断(被投的投企)によって選び取ることのできる本来的な生き方は限られている。このことは、人間存在の有限性」を示している。人間が否応なしに投げ込まれている状況(Da)というものは、人間存在について二つのことを教えている:

      人間存在のまったき偶然性(不条理)――これは既に述べた。

      人間存在の有限性――人間は、徹底的に有限である。

 ハイデガーによると、人間の有限性という事実をもっともはっきりと示しているのは、「という現象である。死は終わりを意味する。人間は、死という終わりを持っている。我々人間は、死を避けて通ることはできず否応なしに死と関わりを持たなければならない

 人間存在に必然的にまとわり付く死という事実を踏まえて、ハイデガーは、人間の在り方を、死への存在(Sein zum Tode)と表している。死が、人間の究極的な可能性であることは誰しも認めところだろう。しかしそれと同時に、人間のすべての可能性は、死において切断される。その意味で、人間の死は、自分自身の本来的な生き方を選択するという人間の現実的投企の可能性を決定的に ( せば ) めてしまう。現実をこのように観察すると、「死への存在(Sein zum Tode)と「現存在 (Dasein)との間には、根本的な相違はないことがわかる。ただ、死への存在(Sein zum Tode)の方がより切実で、より深刻な表現だと感じられるだけである。我々は、いずれ死ぬ

 ところで、「死」という不可避の現象は、人間存在の有限性を教えてくれるばかりでなく、さらに別のことを教えてくれる。それは、人間は孤独であるということである。人間の孤独に関連して、ハイデガーは次のように言っている:

各自の存在は、各自のものである」。

 これは、結局、自分というものは、自分がどんなに気に食わなくても、墓場までそれを背負っていかねばならないということを意味している自分のこの存在は、他人に代わってもらえない自分の存在は 代替 ( だいたい ) 不可能である。

 たとえば、自分の鈍感な頭脳や容姿などもそうだろう。自分の短所・欠点も、自分ひとりで死ぬまでこれと付き合っていかなければならない。自分の存在も含めて、自分の持てるすべてのものは死ぬまで自分独りで背負っていかなければならないこのような意味で、人間存在は常に孤独であるもちろん自分の欠点を補い、自分を支えてくれる人はいようしかし死ぬときは、独りである

 さらに死は、別の観点からも人間の孤独を明らかにする。人は、自分の死に直面したとき世界内存在(das-in-der-Welt -sein)として、それまでさまざま関わってきたすべてのもの失う。今まで出会ってきた人や物は、私の死に際して、意味のないものとなる私と関わりのないものと感じられるようになる。すなわち死は、私と私以外のものとの結びつきを切断し、私を完全に独りにする。こういう意味でも「死」は、人間を孤独にする。「人間は、本来孤独なものでしかないということを死は明らかにする

第6節 死への先駆的決意(覚悟) Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode

 ハイデガーによれば、人間に徹底的な孤独をもたらすこのような死の自覚を通して、本来的な生き方を選択(決断・投企)することは、非常に辛い。なぜなら人間は、敢えて自分の死に直面し、自分の人生の有限性と孤独直視しなければならないからである。死がもたらす孤独を回避せず、その孤独に耐えるには、相当の勇気が必要だろう

 たとえば皆さんも、夜、家に帰り、自室に閉じこもり、手持ち無沙汰になるとき、息も止まりそうな孤独に襲われることはないであろうか。普通の人すなわち「世人」は、何かで気を紛らし、この孤独から逃れる。世人とは、そういうものである。世人は、死の恐怖や死から来る孤独から逃れようとするしかしハイデガーは、この孤独から目を背けずにそれを直視せよと、我々に命じる我々が人生の意味を真剣に問い直し、それを有意義に生きるには、有限な人生から来る孤独、死の孤独を避けて通ることはできない

 ハイデガーは、人間が自分の死を自覚し、直視することを死への先駆的決意(覚悟)(Vorlaufende Entschlossenheit zum Tode)と呼んでいる。それは、人間が、自分自身の現実的な死に先立って、あらかじめ自分の死を覚悟することを意味する。本来的な生き方には、死への先駆的決意(覚悟)が必要である

 なぜハイデガーは、このような言い方をしたのだろうか。それは、我々がややもすると自分自身の存在の有限性(孤独)を何とか忘れようとして生きているからである。自分自身の有限性(孤独)から目を逸らさないようにするには、我々は、敢えて死への先駆的な覚悟をしなければならない

 ところが、我々が普段、健康であるときは、現実的な死は、他人のものである。我々が普段、出会う死は、他人のものであって、自分のものではない。それでは、自分の死はどうなっているのだろうか。我々が日常性に埋没して世人的な生き方をしているときには、自分の死は、単に一つの可能性に過ぎない。自分の死が現実的になるのは、いつのことかわからない今のところ自分とは関係ないと、我々は思っている。「人は、いつかは死ぬしかし当分の間は死なない」と、ハイデガーは言う。すなわち死は、今のところ自分とは関係がないこれが自分自身の死から目を逸らした世人の生き方である

 しかしハイデガーよれば、自分の死を直視し、自分の生涯が有限であることを自覚することが自分の人生を有意義に生きるための必須の条件である。こういう自覚に立ったとき、人は、限られた時間を、無駄に過ごすことなく真剣に生きることができるようになる。

 しかしながら、よく考えてみると、自分の人生を有意義に生きるのは、なにも自分自身の現実的な死を先駆的に先取りする場合に限ったことではなかろう。青春時代の有限性の自覚も、同じように、我々に有意義な人生を送るように促している。青年時代は、春の野に咲く花のように淡くはかないものである。若者たちが比較的自由に振る舞い、自由にものを考えることのできるこの時代は、やがて終わり、いわば「青春時代の死」を迎える。したがって、この自覚に立てば、自分がまだ青春時代にあるうちに、どうしてもやらなければならないことあることに気づくはずである。そして我々は、それを実行する決断に迫られる。そのような決断はいわば自分自身の青春の終わり()を先駆的に覚悟した決断だと言うことができる。その決断は、真剣なものにならざるを得ない。ここで、人間存在の有限性を、別の視点をから見てみよう。

第7節 負い目 Schuld

 「(Nichts)という言葉は、東洋人にとって、おそらく奥深い宗教的真理を示す言葉だと受け取られるかもしれない。しかし、西洋人にとってとは、いたって単純で、~ではないという否定の意味しか持たない。これをハイデガーの実存分析に当てはめれば:

     人間は、Daの中に投げ込まれていて、その特定の被投性を無視することはできない

     人間は、生きている限り、自分の生き方の根拠であるはずなのに、その根拠を自分で置いたのではない

     人間は投企によってある生き方を選べば、それ以外の生き方はできない

     自由とは、何か一つを選ぶことだが、一つを選べば、他のものは選べない

     人間は、無限には生きられない

     人間は、自由にどんな生き方でもできるわけではない

 このように、人間のあらゆる営みに、(~でない)という否定性が付きまとっているハイデガーは、このような状態を負い目(Schuld)と呼んでいる。人間は、「無」という負い目を背負っている。負い目と、人間存在の有限性は、本質的に同じものである。しかし、人間存在に負い目があるということは、道徳的な責任や過ちが人間にあるということではないそれは、という有限性に取り囲まれた人間存在の在り方を示しているにすぎない。こうした無の観点から人間存在を捉えようとするハイデガーの見方は、人間を肯定的にしか捉えてこなかったヨーロッパの伝統的な人間観への批判を含んでいる。

第8節 本質存在(何であるか)と現実存在(いかにあるか)――Was-sein und Wie-sein

 プラトン以来のヨーロッパの伝統的な人間理解は、現実の人間に即してなされたものではなく、現実を離れた理想的な何か(プラトンの超自然的なイデア)に則して行われた。ヨーロッパの伝統的な人間理解では、人間が実際にどのようにあるかという現実存在(実存)はほとんど省みられず、人間が理想的に何であるべきか」ということが考察され、人間の不変的本質(何であるか)が求められた。

 たとえばプラトンは、すべての人間を人間たらしめている人間の普遍的本質(人間とは何であるか)を、天上界のイデアに求めた。アリストテレスは、プラトンのイデアを地上に引き摺り下ろしたとはいえ、人間を人間たらしめている人間の本質を、一人ひとりの人間に内在する人間の形相()に求めた。その後の哲学者たちも、プラトンが設定した人間理解の枠組みを越えることがなかった。彼らは常に、人間とは何であるかという人間の普遍的本質を探求したしかし、そのような人間理解には、人間は~であるという肯定(本質)は見出されても、~でないという否定()は見出されない

 プラトン以来の伝統的哲学は、合理主義の立場に立って、理性で捉えることのできる~であるという意味での普遍的本質(本質存在)だけにしか注目しなかった、というよりもそれしか注目できない。理性は、「今、ここ(hic et nunc)にしか ない ( ●● ) 有限な物事(現実存在)のかけがえのなさ・唯一性(only-oneness)を捉えることができない。理性が捉えることができるのは、現に存在する有限な事物を超えた没個性的で普遍的なもの、永遠で理想的なもの(本質存在)だけである。

 ハイデガーは、こうしたプラトン以来の合理主義に異議を唱え、現実の人間は、何であるかという永遠な普遍的本質の観点からでは十分に理解できず、現実の存在(どのように存在しているか)に即して理解されねばならないとしたのである。ハイデガーにとって、人間が永遠に何であるか(本質存在)よりも事実としていかにあるか(現実存在)が問題であった。こうしてハイデガーは、人間の現実存在を詳細に分析した上で、人間とは、特定の状況に不可避的に投げ込まれた死へ存在・有限な存在であるとしたのである。

 このように「(理想的で永遠な)本質存在」を真の存在とするヨーロッパの伝統的な考え方(プラトン主義)に反対し、「(有限な)事実存在」を考察の出発点にしたハイデガーの考え方は、ニーチェの影響を受けている。前章で指摘したように、ニーチェは、プラトン以来のヨーロッパ文明の歴史は、「本来ありもしないもの」(天上のイデア・超越的価値・偶像)に導かれたもので、根本的にニヒリズムの歴史であるとし、現実の存在に立ち戻り、大地という現実に ( しか ) と立った「超人」の思想を打ち立てた。ハイデガーの考えも、ニーチェと同じく、プラトン以来のヨーロッパの伝統的な考え方(合理主義)に対する徹底的な批判を含んでいた

第9節 神なき時代の哲学者

 プラトンによって打ち立てられた合理主義は、近代科学物質文明をもたらし、神を必要としない時代を招来させた。神やその他の霊的な存在を仮定することによって克服された人知を超える事柄は、科学技術の進歩と共に、理性によって説明されるようになり、神の働く余地は ( せば ) められた

ハイデガーは、「神なき時代の思想家」である。彼は哲学者として人間の問題を考える場合、神の存在を仮定して人間の問題に答えようとはしなかった。たとえば、1924年に行われた『時間』に関する講演――時間は哲学上の難問で、これを初めて扱ったのがアウグスティヌスである――で、ハイデガーは次のように述べている:

哲学者は、神については関知しないだから永遠についても関知しない」。

 ハイデガーによれば、人間の存在を考える場合、神を引き合いに出して考えると、死の問題について言えば、肉体は有限だが、魂は永遠であるということになり、死の重大さがぼやけてしまう肉体は死んでも魂は永遠であるから、人間は一見すると死んだようで、実は死んでいないのである。ハイデガーにとって、神の存在を前提にした人間存在の永遠性など眼中になかった。彼はただありのままの人間事実存在だけに関心を向け、それを分析した。

 ハイデガーは、この『時間』と題された講演で、「哲学者は、信仰者ではない」と言い切っている。彼は、「時間は時間に則して理解されねばならない」と言う。ハイデガーの考えを汲んで、人間存在に対する彼の態度を筆者なりに表現すると、人間は人間に即して理解されねばならない、したがってそのためには神など必要ないということになろう。

 ハイデガーは、神の存在を前提にしなかった。それゆえ、彼にとって人間は、どこから何のためにここへ来て、これからどこへ行くのかまったく分からぬ徹底的に不条理な存在である。このような人間観は、「神なき時代の人間観」を見事に表していると言える。神がいなければ人間の存在は、徹頭徹尾、不可解、不条理なのである。『ソフィーの世界』には、次のような一説がある:

「人生は、悲劇的で厳かなものさ。僕たちは、この素晴らしい世界に招かれ、出会い、自己紹介し合い、少しの間一緒に歩く。そして互いを見失い、どうやってここに来たのか、そのわけも分からない内に突然いなくなる」。

10節 ハイデガーの思想の問題点

 以上、ハイデガーの思想を、『存在と時間(上巻)』に基づいて手短に紹介した。もちろん彼の思想はこれに尽きるものではない。彼は、20世紀最大の哲学者であると言われているのであるから、なおさらである。取り敢えず彼の思想を一口に言えば、人間は必ず死ぬという自己の有限性を自覚して、自分に与えられた状況(人生)を決断と責任もって生きる、これが人間の本来的な生き方であるということである

 しかしこのような思想には、問題がないわけではない。与えられた状況を各自の決断と責任をもって生きることが本来的生き方であるとされている。しかし、人間の決断(投企)には二つの可能性がある:

      与えられた状況を受け入れ、その状況の中に積極的に入り込む決断

      与えられた状況を受け入れ、その状況を積極的に拒否する決断

 この二者のどちらを選択するのかという倫理的規準が、ハイデガーには示されていないハイデガーにとって、与えられた状況に対して積極的に(つまり真剣に)決断することだけが問題だったしかし決断の真剣さは、決断の内容を正当化するものではない。正しい内容の決断を真剣にするのは一向に構わないが、人殺しの決断を真剣に決断しても、人殺しは正当化されるものではない。ハイデガーの考えに従えば、人がもしも、他の人を殺さざるを得ない状況に置かれたら、その人は、その状況を積極的に受け入れるか、あるいは積極的に拒否しなければならない。しかし、そのいずれを選択すべきかを教えてくれる倫理的基準がハイデガーの思想には見出されない。

 ハイデガーが、かつてナチスを支持したのは、実は、この決断の内容の成否を決める倫理的基準がなかったことに由来するのだと言われている。ところが戦後、ハイデガーはナチスを支持したことをまったく反省しなかった。戦後、彼は、あるジャーナリストに戦争責任について聞かれたとき、「それは取るに足らないことである」と言ったそうである。彼は大胆不敵という他はない。しかしハイデガーは、自分が評価されるのは、哲学的な業績からであって、それ以外のものからは評価されないという自負心を持っていたようである。決意の内容の成否を決定する倫理的規準の欠如これが、存在と時間に見られる限りでのハイデガーの思想の欠点であった

結び

 我々は、ヨーロッパの哲学の歴史を、古代ギリシアから20世紀最大の哲学者ハイデガーまで、ごく大雑把に振り返ってみた。皆さんのご期待に上手く応えることができたかどうかは自信がない。しかし筆者()としては、この短い時間に哲学の全貌を紹介しようと、できる限りの努力はしてきたつもりである。まだまだ紹介したい重要な哲学者、あるいはもっと詳しく取り上げたかった哲学者はたくさんいるのであるが、限られた時間ではこれ以上、述べることはできない。今後は、皆さん自身が、なぜだろう」「なんか変だなという好奇心に満ちた問題意識をもって、様々な哲学者の意見を参考にしつつ、皆さんなりに考えていただきたい

 最後に念を押しておくが、哲学とは、過去の哲学者の思想を学ぶことではない我々は、先人たちの残した偉大な思想を手掛かりにして我々が今、直面している不思議な問題なぜだろうと自問しつつ、我々なりの答えを見出していかなければならないそれが知を愛する(答えを求める)哲学というものである

 本講義では、プラトンに始まる合理主義に的を絞って話を進めたが、それは皆さんが皆さんなりに現代社会を理解する手助けをすることができればという一念で行なったことである。高度に組織化され管理された社会の中にあって、我々はロボットのように生きることを余儀なくされているどのようにすれば我々は、主体的に、みずからの責任と決断で自由に生きることができるのだろうか。プラトンのように天上にある理想的なイデア(ありもしないもの)に身を伸ばし、ファンタジー(空想)の中を空しく生きていけばよいのだろうか。それともカントのように、義務の倫理を受け入れ、義務の遂行を絶対的自由の ( あか ) しと見なして生きるべきなのだろうか。あるいは、ニーチェのように「超人」となり、自分の運命を運命として引き受け、自分で自分の人生の意味を創造すべく、生きていくべきなのだろうか。



[1] なお、筆者の学生時代の卒業論文(学部)は、フッサールEdmund Husserl(18591938)の現象学に関するものだった。

 

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