哲学概論

更新日時2019/02/03

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第2回

 

4.宗教(神話)と哲学

  「なんか変だなという驚異の念が哲学の出発点であるが、「なんか変だな」という問いには、宗教神話もそれなりの回答を用意している。たとえば、「雷がゴロゴロと鳴るのはなぜだろう」という問いには、古代の宗教あるいは神話は、「神々が怒ったからだ」と答えるかもしれない。古代の宗教ないしは神話を持ち出さなくても、「なぜ、人間はこの世で苦しむのか」という疑問には、「それは前世の報いである」(仏教)とか、それは「人間が来世において救われるために神が課した試練である」(キリスト教)といった回答がある。「物事の不思議に単純に答えるのが哲学というのであれば、宗教(神話)も哲学になる

  しかしながら哲学は、当たり前だと思っていることを疑い、「なんか変だ」「それはおかしい」と問う。それゆえ哲学は、神話が語っていることや宗教さえも疑いの対象にし、その由来や根拠を問う。すなわち哲学は、神()の存在を無批判に受け入れず――既成の権威にとらわれずに――、自分自身の経験と判断(思考)と言論によって、物事の不思議・物事の不思議(人生と世界の存在の神秘)に答えていこうとするものなのである

  以下に紹介する哲学者(思想家)たちは、まさに宗教や神話が教えることをそのまま信じることなく――このことは、宗教や神話を否定するということではなく、すべてを経験と判断(思考)の篩(ふるい)にかけるということを意味する――、みずからの経験と判断で、自然や人生の不思議に答えようとした。

第1章 ソクラテス以前の人たち

  フィロソフィア(愛知)と名づけられる知の営み(哲学)は、古代ギリシアに始まる。一般に哲学史では、自分たちの思想的営為を意識的にフィロソフィアすなわち哲学と呼んだソクラテス以後の思想家たちと区別して、それ以前の古代ギリシアの哲学者たちは、ドイツ語でフォーア・ゾークラティカー(Vorsokratiker)、すなわち、「ソクラテス以前の人たち」と総称される。今回も含めて以後3回の講義では、このソクラテス以前の人たちの哲学的諸思想を、幾つかの文献に基づきつつ、略述する。

  彼らは、今からおよそ2500年前、だいたい紀元前6世紀初頭から紀元前5世紀にかけて、古代ギリシアで活躍した。使用された言語は、もちろん古代ギリシア語である。彼らは、哲学という言葉を作ったソクラテス以前の人たちなので、いま述べた通り、「ソクラテス以前の人たち」と呼ばれる。

彼らに共通して言えることは、次の諸点である:

   彼らはすべて、ギリシア本土の出身者ではなかく、ギリシア本土よりも文化の進んでいたイオニア地方(現在のトルコの西海岸)マグナ・グレキアと呼ばれた地方(イタリア南部とシシリー島)であった。

   彼らの書いた著作は、今日完全な形では何一つ伝えられておらず、人によって多少の差はあれ、わずかな断片しか残されていない。

   哲学者たちに共通する根本問題の内、「世界はどこからきたか」という世界の起源の問題を取り上げた。

  しかし彼らは、この問題に対して、「世界は神からきた」とか「神によって無から創造された」などというように、彼らは神()を前提にして答えなかった。すなわち彼らは、次のように考えた:

   神話や宗教を鵜呑みにせず、経験的事実に依拠した

   無からは何も生まれない無から存在()は生じない有るものは有る(素朴実在論[1])

   存在するものは、前もって存在する材料のようなものから生じた

  なお、立ち入った論究はしないが、存在()という言葉は、西欧の諸言語では、次の2つの意味を含んでいる。

   「~がある」(現実存在)・・・ existentia Daß-sein:本がここにある(存在)

   「~である」(本質存在)・・・ essentia  Was-sein:これは本である(定義)。 

 

  彼らが「あなたはだれ?」という問題に関心を払わなかったのには、それなりの理由があったと筆者には思われる。すなわち、古代ギリシアの時代には、あなたは世界の一部であると考えられており、世界の起源を問うことは、そのままあなたの存在の神秘を問うことにつながった

 

第1節 ミレトスの3人の思想家たち(ミレトス学派)・・・自然哲学者

  これらのソクラテス以前の人たちが問題にしたのは、「世界はどこからきたのか」という世界の起源の問題だった。しかしいま述べたように、彼らは世界の起源を求めたと言っても、その答えをいきなり宗教や神話に求めることはしなかった。彼らは、「無からは何も生まれない」、「無から有は生じない」という前提から、世界の存在の起源を何かあらかじめ存在するもの、すなわち物質とでも言っていいような自然の構成要素に求めたのである

   最初に取り上げるのは、紀元前6世紀頃に活躍したミレトスの3人の思想家(哲学者)たちである。ミレトスは、エーゲ海をはさんだギリシア本土の対岸・小アジア(現在のトルコ)にあったギリシア人の植民都市(入植地)である。

 

1.タレス(Thales, B.C.624546)

  このタレスという人物に関する資料はわずかしか残されていない。そのため、彼の生涯について詳しいことはわからない。しかし、エジプトに行ってピラミッドの高さを測ったことや、紀元前585528日に起こったとされる日食を予言したことが知られている。

  彼の思想を一口に言えば、世界の起源・根源――これはギリシア語でアルケー(archê)と呼ばれる――であるというものである。おそらくタレスは、すべての生き物には水分があり、大地の周りに海が広がっているのを見て、この地上に存在するものは、水から出来上がっていると判断したのだろう(資料)

  また彼は、磁石が鉄を動かすのを見て、磁石には物を動かす」があると考えていた。さらに、宇宙全体にも宇宙を動かす魂のようなものがり、「万物は神々に満ちている」と言ったとされる(資料)。古代ギリシアでは、「生命活動の原理(生命活動そのもの)であると考えられていたため、彼はこの万物の起源である水には魂が宿り、この魂の何かしら神秘的な働きによって万物が生じたと考えていたのだろう。

  万物の根源に、生命活動を持った魂のようなものがあり、それがすべてを動かしているという考え方を、後の哲学用語で「物活論[2](animism)ないしは「汎心論[3](panpsychism)と言う。このような世界観(自然観)は、ソクラテス以前の思想家たちに共通した考え方で、日本の神道のアニミスティックな自然観と共通している。

  実は、このような「素朴な」自然観にもう一度立ち戻り、ソクラテス以後の知の営みによって構築された西洋文明を根本的に見直そうというのが、20世紀の一群の哲学者たち(ハイデガー/メルロ・ポンティ/デリダ)の企てであった。特に彼らに決定的な影響を与えた19世紀末の思想家ニーチェは、生き生きとした自然が宿す生命力を各自が開花させることによって、各自の存在は有意味なものとなる、そのための最良の手段が芸術であるというような趣旨の大変興味深い発言をしばしば行っている。ニーチェの思想については後述する。

  なお、タレスは、大地(地球)は、水の上に浮いていると考えていた(資料)。現代人から見れば、これは奇異な非常に奇異な考えである。しかし、近代自然科学を知らない当時の人たちは、このような見解を疑うことはなかっただろう。それは、当時の人たちにとって経験的事実であった。

 

2.アナクシマンドロス(Anaximandros, B.C.610546)

  次に紹介するミレトスの思想家は、アナクシマンドロスである。古代の人たちは、彼をタレスの弟子であるとも、同輩であるとも言っているが、タレスとの思想的な関係ははっきりしない。

  彼は、世界のアルケー(起源・根源)無限定なもの(アペイロン)と名づけた。アペイロンの「ア」は、ギリシア語で否定を現わし、「ペイロン」とは限定とか限界を表す。したがってアペイロンとは、「限界のないもの」すなわち「無限定」を意味する。しかし、アナクシマンドロスが、この「無限定なもの」という言葉で具体的に何を考えていたのかは分からない。彼の言う「無限定なるもの」(アペイロン)とは、世界の「すべてのものがそこから生じ、またそこに帰ってくるもの」、「なんとも言い表し難いもの」で、何か特定の物質をさすものでないことは確かである。

  アナクシマンドロスが、なぜ、タレスのように万物のアルケーを水ではなく、あるいはその他の土、空気、火のいずれでもなく、「無限定なるもの」(アペイロン)にしたかというと、おそらく万物のアルケーをたとえば「水」などの特定の物質(元素)にすると、どうしてその「水」から「熱いもの」と「冷たいもの」、「乾いたもの」と「湿ったもの」といった互いに性質の違うものが生じるのかを説明できないからであろう。したがって万物のアルケーは、それらの正反対の性質を持つものとはまったく別のものでなければならなかった(資料)

  では、どのようにしてこのアペイロン(無限定なもの)から万物が生じてくるのだろうか。アナクシマンドロスも、そおことについては、あまり具体的に述べていない。しかし彼は、このアペイロン(無限定なるもの)から「熱」と「冷」が現れ、この「熱」と「冷」の働きによって、太陽や月やその他の天体が生じたと述べている(資料)。なお、アナクシマンドロスは、アペイロンを、万物を包括し、統御する」「神的な存在であると言っている(資料)彼は、このアペイロンにも、先ほどのタレスで見たのと同じように、何らかの生命活動があり、この活動によって万物は生じると考えていたようである

  彼もまた、今日の我々から見れば奇異な世界観を提示している。彼は、人間が住む大地を、今日の我々が考えるように球形とはせず、円筒形とした:「彼の言うところによれば、大地は何ものによっても支えられていないが、すべてのものから等距離にあるために宙に浮いている。その形は凸状で丸く、石柱に似ている。そしてその表面の一方は我々がその上に乗っているものであるが、他方は反対側にある」(DK.12 A 11: Hippol. Ref. I 6,3)

  地上の生命については、それはまず、湿った物の中で生じ、やがて地上に現れたと考えられている。最初の人間の誕生については、他の動物と違って自立した生活をするには長時間の養育を必要とするため、まず魚の中である程度大きくなるまで育てられ、自分で生活できるようになったとき、初めてこの大地に取り付いたと言われている(資料)。最初の人間は、魚から生まれたとする説は、ダーウィンの生物進化論を連想させる。アナクシマンドロスは、他の資料では、「初めに人間は他の種類の動物から生まれた。それは、他の動物どもが直ぐに自分自身の力で食っていくのに、ただ人間だけが長期間の保育を必要とする、それゆえ初めの内にもこのようなものであったなら[=他の動物と同じように生れ落ちたなら]、生き延びることは決してなかったろう、という考えに基づいてなのである」(DK. 12 A 10 [Plut. Strom.2])とも言っている。

 

3.アナクシメネス(B.C.570525)

  3人目のミレトスの思想家は、アナクシメネスである。彼がアナクシマンドロスと、思想的にどのように関係していたかは不明である。彼は、世界の根源(アルケー)は、(プネウマ)あるいは空気であると述べた。ギリシア語で息(プネウマ)は、空気も意味している。そして彼は、この空気の希薄化濃厚化によって万物の生成と変化(生じることと変化すること)を説明したとされている。

  伝えられるところによると、アナクシメネスは、この「空気ないしは」が希薄化するとになり、濃厚化するとが生じ、さらに濃厚化すると」、さらに濃厚化すると」、さらに濃厚化すると」、さらに濃厚化するとになり、残りのものはこれらから生まれたと述べている(資料)

   希薄化: 空気 ⇒ 火 ⇒ 太陽・月・その他の天体

   濃厚化: 空気 ⇒ 風 ⇒ 雲 ⇒  ⇒  ⇒ 石

  すなわち、万物(世界のすべてのもの)は、この空気の「希薄化」と「濃厚化」に由来するわけである。アナクシメネスの時代には、世界の基本的な構成要素は「」と「空気」、「」と「」は、四大構成要素(四大元素)とされていた。アナクシメネスは、この四大元素の内、空気を世界のアルケー(根元)としたのである。

  なぜアナクシメネスが、「アペイロン」(無限定なもの)に代えて、「空気」を万物の根元(アルケー)にしたのか。その理由を問うことは、やはり推測の域を出ない。その理由は、おそらく次のような経験的事実によるものだろう:

   空気は、状況に応じてその都度、「熱さ」と「冷たさ」、「湿り気」と「乾き」、「動き」と「静止」といった正反対の性質を受け入れることができるという点(経験的事実)が、アナクシマンドロスが提示した「無限定なもの(アペイロン)」に似ている。

   たとえば、雲や霧などの「空気の一種」が濃密になると、水滴が生じ雨となるという経験的事実に基づいて、彼は万物のアルケーを「空気」とし、その希薄化と濃厚化によってその他すべての物質が生じると考えたのだろう。

   「口を狭めて空気を吹き出すと、冷たい空気が生まれ、口を緩めて空気を吹き出すと、暖かい空気が生まれる」(資料)という事実から、彼は、空気の希薄化と濃厚化によって「冷たいもの」と「暖かいもの」が生じると考えた。

   我々の生命活動が「呼吸()」によって行われるという経験的事実から、彼は、すべての生命活動の根底には空気があると考えたのだろう:「我々の魂が空気であって、我々を統括しているように、気息(プネウマ)すなわち空気が宇宙全体を包括している(資料)と言っている。

  アナクシメネスは、上述のタレスやアナクシマンドロスと同様に、世界そのもの――これは空気の希薄化と濃厚化によってできている――に、魂のような生命原理が宿っているという物活論的な物の見方をしていたようである。彼は、空気が永遠に動いてやまぬ無限な存在であり(資料)、「神である(資料)と考えていた。

  アナクシメネスの世界観(宇宙観)も、今日の我々の宇宙観とはかなり違っていた:円盤状の大地が空気に支えられており、この大地から立ち昇る湿った空気が希薄になって火となり、空中で燃えつづけ太陽その他の星になる。しかし、それらの天体は木の葉のように平たく、透明なガラス板に打ち込まれた釘の頭のようだとされる(資料)

***   まとめ   ***

 

  以上、ミレトスの3人の思想家たち(哲学者たち)の思想を紹介した。少し難しい言葉で彼らの思想に共通する特徴をまとめれば、彼らは、おそらくさまざまな宇宙創造神話が広く信じられている時代に生きていたにもかかわらず、それらの神話を 鵜呑 ( うの ) みにすることなく、あくまでも自分自身の経験と判断で世界の根源と生成過程を解明しようとしていたと言うことができる。始めにも述べたように、物事の存在の神秘を自分自身の経験と判断と言論で探求することが哲学であるとすれば、まさにミレトスの3人の思想家たちは、自分自身の経験と判断で世界の存在の神秘に立ち向かい、世界(自然)の神秘に取り組んだ最初の哲学者たちであった(世界観の構築の試み)。それゆえ彼らは、後述するアリストテレス(B.C.384322)という哲学者によって自然哲学者(physiologos)すなわち「自然の語り部」とも呼ばれている。なお、彼らの世界観(自然観)は、現代科学が対象とする命のない物質的な自然観(唯物論的な自然観)ではなく、えも言えぬ生命原理を内に宿す生きた自然――自ずから然ある自然(フュシス)、『古事記』の言葉を借用すれば、「葦牙の如く萌え騰る物によりて成れる自然、すなわち物活論的な自然――であることに留意しよう。



[1] naive realism:人間の感覚に与えられたものすべてが、実際に客観的に実在すると考える立場。

[2] すべてのものには、その運行を司る数々の精霊(霊魂)が宿っているという考え方。「精霊崇拝」とも訳される。

[3] すべての自然物に心があるという考え方。

 

 

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