哲学概論

更新日時2019/02/03

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第3回

第1章 ソクラテス以前の人たち

第2節 エレア学派――無からはなにも生まれない・有るものは有る

1.パルメニデス(Parmenides, B.C. 540480)

 ミレトスの3人の思想家たちは、それぞれ、世界の根源(アルケー)は、「水」や「無限定なもの」(アペイロン)、「空気()」であると考えた。彼らの考えに共通していることは、世界は、何らかの既に存在するものから生まれたと考えていることだった。彼らにとって、「有るものは有る」、「無からはなにも生まれない」というのが共通の前提である。ところがよく考えてみると、ここに新たな疑問が生じてくる。すなわち、世界の根源(元素)は上記のようなものであるとしても、それらの根源が変化して世界が生まれるという、その変化とは、いったい何なのだろうか(生成変化の問題)。ミレトスの3人の思想家たちは、「生成変化」を当然のこととし、それを問題にしない。しかし、そこには、ある種の「論理的困難」が潜んでいる。たとえば、アナクシメネスの空気()は、濃厚化によって水や石、希薄化によって火や天体に成るとされるしかしながら、空気はやはり空気ではなかろうか。ミレトスの哲学者たちは、世界の根源(アルケー)を明らかにしたが、どうしてそれらの根源が火や石などの別のものに成るのかを突き詰めて考えはしなかった。

 このような「生成変化の問題」に取り組んだのは、紀元前500ごろ、エレア(南イタリアのギリシア人植民都市)に住んでいた哲学者たちであった。彼らの思想は、「エレア学派」としてまとめられている。時間に限りがあるため、ここでは、このエレア学派の典型的な代表者であるパルメニデスの思想を取り上げる。

 パルメニデスはエレアの人であるが、その生涯についてはほとんど知られていない。彼は、気高く高貴な生活を送ったために人々から尊敬されていたようで、古代のギリシア人の間で「パルメニデスのような生活」という言葉が広まっていたとされる。

 パルメニデスは、「無からはなにものも生じない」という点では、先ほどのミレトスの3人の思想家たちと同じ考えであった。しかし彼は、ミレトスの思想家たちとは異なり、水とか空気などの何らかの元素(アルケー)が変化して別のものに成ることを否定した。彼は、「元素の変化を認めなかった

 変化とは、いま有るものがなくなって、別のものが生じる(生成する)ということである。しかし、パルメニデスによれば、「有るものは有るのであるからなくなることはない(存在しなくなることはない)。したがって「いま、有るものがなくなって別のものが生じるという変化は、理論上あり得ない(資料)。たとえば、「水が氷に成る」という命題は、「水が存在しなくなる(無になる)」と同時に「別のものが(無から)存在するようになる」という2つの命題に分解される。しかし、「水は水」であるから、水が氷に「変化」することは、理論上、不可能である。

 なおパルメニデスは、変化を否定する論拠になった「有るものは有る」という命題を、「思惟することと有ることとは同一である」という命題に置き換えている。すなわち、人間は、存在するものについてだけ考えることができ、存在しないものについては考えることはできないのである

① 理性と存在の同一(資料からの引用)

なぜなら思惟(思考)することと有ることとは同一であるから

② 生成と変化の否定(資料からの引用)

ただ、有るものは有る。・・・なぜなら有らぬものが有るということは、言うことも考えることもできないから有るものは有る有らぬものは有らぬ。それはまったく有るか、まったく有らぬかのどちらかである。・・・思惟(noesis)それが有るという思想(noema)とは同一である。 Cf. George Berkley (18C), esse est percipi.

 パルメニデスは、「有るものは有る」あるいは「有(存在)と思惟は同一である」という前提から、元素の「変化」を否定するばかりか、運動(ある場所からある場所への移動)そのものも否定し万物は一見すると生成消滅と運動を繰り返しているが、(思惟の次元では)絶対の静止の状態にあるとしている。パルメニデスがどのような推論によって「運動」を否定したのかは知られていない。しかし、彼の推論を推測すれば、次のようになろう:「運動とは、今ここに有るものが有らぬものになり、別の場所に移ることである」と定義される。しかるに、「有るものが有らぬものになる」ことを考えることはできない。ゆえに運動は、理論上、成立しない、ということになろう。

 

2.同一律と矛盾律・・・思考(理性)の法則・論理学の法則

 パルメニデスは、「人間は存在するものについてだけ考えることができる」(存在と思惟の同一視)という前提から生成変化を否定した。実はパルメニデスは、このとき、我々が物事を論理的に考える際に従う思考の法則(理性の法則)、すなわち同一律矛盾律という論理学の法則を、万物が生成消滅する現象界(自然界)に適応したに過ぎなかった。論理学とは、我々の思考の形式(考え方の筋道)を研究する学問である。同一律と矛盾律とは、次のようなものである:

        同一律・・・「AAである」。  Principle of identity

        矛盾律・・・「AAであると同時にB(A)であることはできない」。 ※ Principle of contradiction

この二つの法則(理性の法則)を、現実の現象界で生起し得る「水は氷になる」という事態に適応してみよう。すると論理的には、「水は水である」(同一律)、「水は水であると同時に、水以外のもの(すなわち氷)であることはできない」(矛盾律)。ゆえに、「水が氷に成る」という変化は、論理的に――すなわち理性の法則に照らして――不可能である。

しかしながら、それでも我々の目の前の自然(現象界)は、変化している。たとえば、樹木の種は、変化して別のもの、種とは似ても似つかぬ木に成る。我々人間も死ねば、原形をとどめず腐敗し、無に帰する。なるほどパルメニデスにしても、論理的には自然の変化を否定したが、自然が変化する現実を否定することはできなかった。しかしながら彼は、現実の変化は、目や耳や触覚などの感覚が我々にもたらす錯覚、死すべき者たちの 臆見 ( おくけん ) (不確かな考え)」と述べるにとどまっている。彼は、物を感知する人間の感覚を信用せず、論理法則(同一律と矛盾律)に従う理性を確かなものとして信用していたのである。

        理性永遠不変なものを捉える能力(客観的):理性は、矛盾律と同一律に従って何かを考察する能力であり、変化(時間)を超えた、恒常不変なもの・永遠不変なもの対象とする能力である。たとえば、「三角形の内角の和は180度である」という数学上の真理は、いかなる時にも成り立つ永遠不変の命題である。この命題で述べられている事態は感覚では捉えることはできない。それは、理性の対象である。

        感覚変化するものだけを捉える能力(主観的)感覚は、身体の諸器官を通して外界を把握する能力である。それには、大きく分けて五つ(視覚聴覚嗅覚味覚触覚)ある。それらによって捉えられるもの(感覚対象自然界)は、生成変化するのが常である。しかしパルメニデスによれば、五感が我々に提供する生成変化の世界(現象界)は錯覚であり、我々の理性が把握する絶対静止の世界こそ真実の世界であるとされる

 パルメニデスは、いわば、矛盾律と同一律という理性の法則(論理法則)のフィルターを通過することができるものだけが存在すると考え、そのフィルターを通ることのできない感覚的なものを死すべき人間の錯覚だとした。パルメニデスによれば、理性の語ることだけが、本当の意味で存在する理性の法則(論理学の法則)に合うものだけが存在する権利を与えられる。このように理性に絶対的な信頼を寄せ、すべてを理性の立場から判断する考え方は、「合理主義(rationalism)と呼ばれている。パルメニデスは、理性の要求(同一律と矛盾律)を厳格に守り、物事の変化を否定した点において、古代における合理主義の代表者の一人と見なされている。

ともあれ、パルメニデスの思想をきっかけにして、

感覚の対象 可変的なもの 一時的存在 (事実存在 existentia Daß-sein]

理性の対象 不変的なもの 永遠の存在 (本質存在  essentia  Was-sein)

の対立が生じた。結論から言えば、以後の西洋哲学の歴史は、感覚と理性の対立の歴史だと言うことができる。それは、感覚によって捉えられた生成変化する現実をそのまま受け入れ、それを真理(本当の姿)として認めるか、それとも理性によって捉えられる何かしら永遠不変なものを真理として認めるかという対立である。前者は一般に「経験主義(empiricism)と呼ばれ、後者は先程述べたように「合理主義(rationalism)と呼ばれる。

 しかし当然のことながら、自然の変化を否定するパルメニデスの思想には、すぐに反対者が現れた。それは、小アジア(現トルコ)のエフェソスにいたヘラクレイトスという人物である。

 

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