哲学概論

更新日時2019/02/03

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第4回

第1章 ソクラテス以前の人たち

 第4節 原子論者たち

パルメニデス(エレア学派)は、「有るものは有る(AであるものはAである)および「有らぬものを思惟することはできぬ(存在と思惟の同一視)という前提の下に、感覚界(現象界)の生成変化を否定した。すなわち彼は、同一律(矛盾律)という理性の法則に合致するものだけに存在する資格を与えた(合理主義)。これに対しヘラクレイトスは、感覚によって捉えられる自然界(現象界)の生成変化こそ物事の真の姿(アレーテイアすなわち真理[1])であるとし(万物は流転する) 現成 ( げんせい ) する自然が示す一定の 秩序 ( ロゴス ) (対立による調和)に従って生活することこそ人間の賢明な生き方であるとした

彼らの思想の対立は、言うなれば理性と感覚の対立である。理性は永遠不変なものを対象とし、感覚は変化するものを対象とする。パルメニデスの理性は変化を否定し、ヘラクレイトスの感覚は変化を肯定したのである。

二人の説のどちらが真実だろうか。いずれの説も、それなりの根拠を持つ。一見すると、二人の説は調停不可能である。しかし、この問題の解決を試みたのが、原子論者(atomist)と呼ばれる人たちであった。原子論者には、シチリア島生まれのエンペドクレス[2]、小アジアのどこかで生まれたアナクサゴラス[3]、エーゲ海の北方の港町アブデラで生まれたデモクリトスがいる。本講義では、ソクラテス以前の思想家の中で、最後の偉大な自然哲学者とされるデモクリトスの説を紹介する。

1 デモクリトス(Demokritos, B.C.460370)

デモクリトスは、いま述べたようにエーゲ海の北方の港町アブデラの出身で、ヘラクレイトスが泣く哲学者と呼ばれたのとは反対に、笑う哲学者と呼ばれていたようである。デモクリトスは、どのようにして上述の矛盾、すなわちヘラクレイトスの感覚とパルメニデスの理性――「感覚によって捉えられる自然界の変化」と「理性によって捉えられる永遠不変な存在」――の対立を調停したのだろうか。

すでに原子論という言葉が暗示しているように、デモクリトスは、この矛盾を、永遠に変わることのない多数の原子の存在を想定することによって解決した。原子とは、英語ではアトムatomであるが、ギリシア語のアトモン(atomon)に由来する。ギリシア語のアトモンの「ア」は、アナクシマンドロスのアペイロン(無限定なもの)のところでも出てきた「ア」で否定を表し、「トモン」は「切断できる」「分割できる」を意味する。したがって原子(アトモン)とは、「(これ以上)分割不可能なもの」「不可分なもの」を意味する。原子とは、目の前にある物質をどにように細かく切り刻んでも、これ以上切り刻めず、目で見ることもできないほど小さな微粒子である。

デモクリトスが「想定した」この原子は、数の上で無限であるが、質や量の上では同じではなく、それぞれ大きさ配列(組み合わせ)位置の点で相互に異なっており、しかも永遠不変であると「想定した」。原子を永遠不変であるとした点で、デモクリトスはパルメニデスの考え――有るものは(永遠に変わることなく)有る――を引き継いでいる

これらの原子は、真空の中を絶えず動き回っており――彼は、空虚(真空)の存在すなわち無の存在を認め、「有るものは有らぬもの以上に有ることはない」と主張したとされる(資料)――、ちょうど凹凸のブロックがうまく落ち合えばきっちりかみ合うように、相性のよい原子と結合して大きな塊を成し、やがて離散すると「考えた」。このようにして、ヘラクレイトスが認めた自然界の生成と変化は、パルメニデスの主張に反することなく、真空を運動する無数の原子の結合と分離によって説明される。なぜなら、パルメニデスが認めるように原子は永遠不変な存在だからである。

デモクリトスの想定する原子論は、現代物理学の学説に似ている。現代物理学は、物質を分子、原子、電子、陽子、中性子などに細分し、さまざまな実験装置を使い、それらの素粒子の存在を検証している。しかし驚いたことにデモクリトスは、今日のように科学の発達していなかった時代に、自分の思考だけで原子論を考え出した。

ところでデモクリトスは、一般についてもやはり原子論の立場から論じている。魂という語は、人間の心や意識、精神、行為の主体、生命原理、運動原理などの漠然とした意味を含む多義的な語である。デモクリトスは、魂も、原子であると言っている。彼の言葉を引用してみよう:

第一に魂は動かすものである。・・・ 魂は一種の火であり、熱である。・・・ アトムは無数であるが、そのうち球形のものが火であり、魂である(資料)

なぜ魂は球形かというと、球形のものは、隙間を通り抜ける埃のようにあらゆるところに入り込み、他のものを動かすことができるからだ、とされている(資料)。たとえば、私の心という火のような球形の原子は、私の体細胞の隙間をぬって体の隅々に行き渡り、私の体をその末端に至るまで動かしているのである。

さらに、魂が火であり熱であるということから、デモクリトスは、すべての温かいものには、魂があると考えた(DK. 68 A 177)それはおそらく、命あるものは程度の差こそあれ、それなりの温かさを持っており、命あるものには魂が宿っているというのが当時の常識だったからだろう。ここにも、我々は、物活論的な自然観の「名残」を認めることができる。デモクリトスは、「すべてのものが或る性質の魂を持っている」(DK.67 A 30)と主張したとされる。

このように魂は、火のような球形の原子であるとされている。しかし原子は、デモクリトスの考えによれば、永遠不滅であるから、たとえば我々人間の魂も永遠不滅であり、死後も存続すると考えられる。我々の体は死ねば腐敗し、体を構成していた原子は四散するが、我々の魂は滅びることなく、あちこちを漂い、やがて他の原子と結合して、他の生物の魂として生き延びることになろう。このような考え方は、インドの諸宗教で前提にされる輪廻転生(サンサーラ)に通じるものがあるが、デモクリトスは、生前の功徳(功罪)によって来生(転生の先)が定まるとは考えない。

ともあれデモクリトスは、魂という特別な原子を想定したとはいえ、すべては無数の原子よって構成されると考えたため、彼の思想は「唯物論[4](materialism)の考え方に極めて近い。

さらに彼は、原子の運動や結合は、無秩序に行われるのではなく、必然(アナンケー)の法則によって起こると考えている。彼は「すべては必然によって生じる」と言っている(資料)必然とは、他のものでは有り得ないということで、自由意志の否定である。したがって万物は、必然の法則に支配されており、我々人間には自由などない。デモクリトスに言わせれば、我々の魂が自由に考え、自由に行為しているとしても、それは必然の法則の為せる業であり、そこには本当の自由はない。すべては機械のように動くのであり、我々人間は、自由意志のないロボットである。このような自由意志の否定も唯物論の特徴で、彼の考えはしばしば、機械的唯物論(mechanistic materialism)とも言われる。

2 まとめ

我々はこれまで、ソクラテス以前の人たちの(哲学的)諸思想を簡単に紹介した。総じてソクラテス以前の思想家(哲学者)たちは、世界の存在の神秘に驚き、自然の根源(アルケー)は何かを捜し求め、自然界の運動と変化を説明しようとした。そのため彼らは、後述するアリストテレスによって、自然哲学者たち(フュシオロゴイ)と一括して呼ばれることになった。すなわち彼らは、現成する自然(フュシス)の理論・根拠(ロゴス)を探求する人たちであった。



[1] 「真理」を意味するギリシア語の「アレーテイア」(aletheia)は、語源的には「非()・隠蔽性(レーテイア)」、すなわち、「真相の開示」を意味する。

[2] シチリア島の生まれ。万物は、不生不滅不変の四元素(土・空気・水・火)から成り、それらが「愛」と「争い」の力により結合・分離し生成変化が生じるとした

[3] アテネで活動した最初の哲学者。混沌とした元素の集団にヌース(精神)が秩序と運動を与えたことによって、万物が形成されたとする。

[4] ただ物質だけが真の存在だとし、すべてを物質から説明する考え方。この反対が「唯心論」である。

 

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