哲学概論

更新日時2019/02/03

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第5回

第3章 ソクラテス・・・哲学の創始者

第1節 ソクラテスの生涯

 ソクラテスは、ペルシア戦争終結直後の紀元前469にアテネに生まれ、ペロポンネソス戦争終結後の紀元前399に刑死した。彼は自伝や自分の思想を述べる本を書き残さなかったため、彼の生涯や思想を正確に知ることはできない。しかし、裁判にかけられ刑死したという一事からして、彼は、当時のアテネで相当に問題な人物であったことは明らかで、ソクラテスを見知っていた人たちの幾人かが、彼の言動を――善い意味でも悪い意味でも――書き残している。したがって我々は、彼の生涯を、他の古代人のそれに比べて、かなりよく知ることができる。いや、「かなりよく」どころか、「必要以上に」知ることができると言った方がよい。なぜなら、彼の言行を伝える書物は、どこまでが史実で、どこまでが後の美化ないしは中傷なのか区別するのが困難だからである。このような事態は、哲学史家の間では、「ソクラテス問題」と言われる。ソクラテスの生涯と思想を伝える主な資料は、次の通りである:

@    当時の大喜劇作家アリストパネス (Aristophanes, B.C.445385)の『』によれば、ソクラテスは、「金さえ払えば・・・何が正しいか正しくないかに関わりなく、議論に勝つ技術を教える」ソフィストにされている。

A    ソクラテスの弟子クセノフォン(Xenophon, B.C.430354)の『ソクラテスの思い出(Memorabilia)では、ソクラテスは、謹厳実直、月並みで退屈な教訓ばかりを垂れる生真面目な老人として描かれている。

B    ソクラテスの弟子プラトン(Platon,B.C.427347)が、ソクラテスを中心人物とする15の対話編を書いている。

 これらの資料のうち、次章で述べる哲学者プラトンの書き残した15の対話編が、美化や誇張が避けがたいとはいえ、ソクラテスの思想をある程度正確に再現しているのではないかと考えられている。

 これらの15の対話編(初期対話篇)――プラトンが書いた作品(すべて対話編)は、全部で27ある――は、プラトンがソクラテスの刑死直後から40歳の熟年になるまでに書いたとされたもので、ソクラテスの在りし日の面影を後世に伝えようとして書いたものに相違なく、ソクラテスを知るための第一級の資料となっている。それらはしばしば、ソクラテス的対話篇と総称される。その中には、ソクラテスの裁判と弁明が書き記された『ソクラテスの弁明』が含まれている。「物事の根拠を探求する」哲学者の真のあり方が如何なるものであるかに興味のある人は、この本を紐解くべきである。

 プラトンの書き残した初期対話編によれば、ソクラテスは、貴族の血筋を持つ彫刻家のソフロニコスを父とし、助産婦のファイナレテを母として生まれた。彼は、父親と同じく彫刻を生業としたとされる。しかし、当時のアテネ市民は、奴隷制度に支えられていたためであろうか、彼は仕事らしい仕事をほとんどせず、アテネ市内の広場や街角に立っては、政治的な野心に燃える若者たちや有力者、アテネ市内を闊歩するソフィストたちを捕まえ、議論(対話・問答)をしていたようである。

 プラトンの『ソクラテスの弁明』によれば、ソクラテスは、このように街角に出て人々と議論(対話・問答)をしたのには理由があった。それは、アテネ近郊にある技芸の神アポロン[1]を祭ったデルフォイの神殿[2]で、カレイポンという彼の友人が得た神からのお告げ――「お前ほど賢い者はいない」という 託宣 ( たくせん ) ――を確かめることである。彼は、そのために街角に立ち、博識家・詭弁家として知られるソフィストたちをはじめ、多くの人々と議論した。

 そのような数々の議論(対話・問答)から得た結論は、「汝おのれ自身(の無知)を知れ」――これはデルフォイの神殿の門柱に書き記されていたとされる。「神々の前では高慢になるな、身の程を知れ」というのが本来の意味だと考えられる――ということだった。すなわち、いわゆる知識人と呼ばれる人たちは、本当のことは何も知らないのに、何かを知っていると思い込んでいるところがソクラテスは、自分が本当のことを知らないということを知っている彼は、ただその点で、自分がもっとも賢いと判断した。ソクラテスによれば、自分が何も知らないという「無知の知こそ、デルフォイの神殿の門柱に刻まれた言葉が暗示するものだった。

 さらに、プラトンの対話編『饗宴』(219E221E)では、ソクラテスが何時間も突っ立ったまま 恍惚 ( こうこつ ) 状態に ( おちい ) り、 瞑想 ( めいそう ) ( ふけ ) っていたとされている。ソクラテスは結婚し、3人の子供を持っていたが、彼の妻クサンチッペは、家事も省みず仕事もしないで一日中議論ばかりしている夫の姿に憤慨し、彼に頭から ( おけ ) の水をかぶせたという逸話が伝えられている。ソクラテスの容姿は、どうかと言えば、『ソフィーの世界』の叙述を引けば、「チビで、デブで、目つきが陰険で、鼻は上を向いていた」とある。

 ソクラテスの生涯や 風采 ( ふうさい ) ( ) くの ( ごと ) くである。つぎに、彼の思想を瞥見しよう。結論から言えば、彼の活動は、弟子のプラトンを通して増幅され、以後現代に至るまでおよそ2500年間、ヨーロッパ文明に様々な影響を及ぼすことになった。難しく言えば、ソクラテスによって始められた新しい知の営み――すなわち厳密な意味での哲学――は、彼の弟子プラトンによって体系化され(イデア論)、以後、哲学(Philosophia)ないしは 形而上 ( けいじじょう ) (Metaphysica)という名でヨーロッパ文明を形成する指導的理念(理想)となった。後世に与えた影響と個性的な生き ( ざま ) の点で、ソクラテスは、仏教の開祖の 釈迦 ( しゃか ) キリスト教の開祖のイエスと共に、人類の三大聖人と言われることがある。

第2節 ソフィストへの挑戦

 しかし、ソクラテスの活動の目的は、無知を自覚している点で最も賢いことを確認することだけにあったのではない。彼の活動の目的は、前章で示したように、当時の社会で一世を風靡したソフィストに代表される考え方を根本的に否定することにあった。ソフィストたちは、金銭を取り、立身出世の術――弱論を強論にする術(強い者の理屈は正しいと思い込ませる術)――を教えていた。彼らのそのような活動の思想的前提は、プロタゴラス(2章第3)の思想を取り扱った際に指摘したように、倫理的相対主義であった。既にアテネ社会では、善悪の客観的な基準は存在しない(懐疑論)、あるいは、それが存在しても知られ得ない(不可知論)とされ、強者の理屈が正しいものと見なされる傾向にあった(衆愚政治)ソクラテスにとってソフィストの活動は、倫理的相対主義を代弁し、それを助長しているように見えたソクラテスは、倫理的政治的混乱・堕落から祖国アテネを救うために、博識家を自認するソフィストたちの 自惚 ( うぬぼ ) れを打ち砕き、そのような倫理的相対主義をアテネから駆逐しようとしたのである

 これを難しい言葉で言い換えれば、ソクラテスは、本来の有り方(フュシス)に基づいて定められるべき倫理的価値判断の基準(エートス)が、強者の恣意によって任意に定められる人為的な約束事(ノモス) 仮象 ( かしょう ) (エイドーラ)に変質してしまったことに異議を唱え、そのようなフュシスとノモスの 乖離 ( かいり ) ・分離を許すソフィストたちの考え方を徹底的に糾弾し、恣意に揺るぎかけたエートスを確固とした土台(客観的理性という新しい土台)の上に立て直そうとした

 しかしソフィストたちと対決は、愛国心に裏打ちされたものだとはいえ、やはりそれは当時のアテネの堕落した民主政体そのものとの対決をも意味していた。なぜならソフィストの活動は、当時のアテネの政治状況(衆愚政治)を代弁していたからである。その限りでソクラテスは、反民主的な――したがって反アテネ的な――少数 寡頭 ( かとう ) 政体支持者に好意的だったようである。事実、彼の弟子には、後に少数 寡頭 ( かとう ) 政体に組し、アテネと敵対した政治家が幾人もいた。実は、アテネに敵対する政治家を輩出してしまったことが、ソクラテスが裁判にかけられる原因をなしていた

第3節 無知の知ソクラテス的アイロニー

 ソクラテスがソフィストとの対決において何を目指したのかを、更に深く検討してみよう。ソクラテスがソフィストとの議論(対話・問答)で採用した戦略は、「無知の知」であった。繰り返し述べると、無知の知とは、自分は何も知らないが、何も知らないことを知っているということである。ソクラテスは、その限りで他の誰よりも賢いという自覚に達した。

 ソクラテスは、この「無知の知」という自覚を ( たて ) に取り、ソフィストとの議論に臨んだ。当時のソフィストたちは、倫理的相対主義の立場に立ち、立身出世に役立つ実用的な知識を有料で教えていた。ソクラテスは、このようなソフィストを捕まえては、述べつ幕なしに質問を浴びせ、彼らの無知を暴き出した。「自分は何も知らないから、あなたの知っている知識を私に教えて欲しい」と。相手が答えると、ソクラテスは、さらに問いかけ、遂には、あなたは知っていると思い込んでいるだけで、実は正確なことは何も知らないのだという事実に相手を直面させるのである。

 たとえばソクラテスは、街角でソフィストに、美について、それが何であるか(美の本質・定義)を問い、ソフィストに色々と答えさせる。ついで彼は、その答えを吟味し、その答えに潜む矛盾を指摘し、彼らがその問題について何も知らないという無知の自覚に到らせる。これをプラトンの対話編風に言い直せば、次のようになろう:

ソクラテス 「美とは何であるかを、私は知らない。どうか教えてほしい」。

ソフィスト 「それは、諸部分の調和と均衡である」。

ソクラテス 「しかし、およそ調和も均衡もないこのグロテスクな抽象絵画もそれなりに美しいではないか。あなたの美の説明は、この絵画には当てはまらない」。

ソフィスト 「・・・・」。

ソクラテス 「答えられないとなると、あなたは、美について本当のことは何も知らないのだ」。

 自尊心の高いソフィストなら、「無知の知」を盾にしたソクラテスの議論の仕方に立腹するだろう。ソクラテスは、「無知の知という立場に立ち、ソフィストたちを次々と論破していった。自分は何も知らないという立場(絶対的否定の立場)に立てば、どんな相手でも言い負かすことができる。なぜなら、とにかく自分は知らないと言い続け、相手の言い分の矛盾を衝いていけばよいからである。このように自分は無知だと装い、相手を窮地に追い詰める論法は、ソクラテス的アイロニー」と言われる。アイロニーという語は、ギリシア語の「エイローネイア」の英語表記であり、日本語では一般に「皮肉」と訳されているが、「白ばくれ」「 ( そら ) とぼけ」という訳語の方が原意をよく表している。ソクラテスは、この空とぼけによって、何も知らないくせに知ったかぶりをするソフィストの無知を暴いていった。このような、対話相手の無知を白日の下に曝す「白ばくれ」「空とぼけ」が、「ソクラテス的アイロニー」と言われるものである。

 プラトンの大作『国家』には、ソクラテスの論法に関して、次のようなやり取りが記されている。ソクラテスは、当時、悪名の高かったソフィストの一人トラシュマコスに、正義とは何かを 執拗 ( しつよう ) に問い ( ただ ) す。その執拗さにトラシュマコスは腹を立て、ソクラテスに向かい、「人に尋ね、その答えに反駁するだけでなく、自分でも答えるべきではないか」となじる。するとソクラテスは、自分だって精一杯の努力はしているのだが、何も知らないだから賢明なあなた方は私に腹を立てるべきではなく、むしろ何も知らない私を哀れむべきだと反論するのである。それを聞いたトラシュマコスは、大声でソクラテスを ( あざけ ) りながら、こう言い ( はな ) った。「ははぁこれが例のソクラテスのエイローネイアだな私にはそれがわかっていたから、あらかじめ皆に言っておいたのだ誰かが君に尋ねても、君は答えようとしないだろう君はエイローネイア ( ろう ) して何とかして答えることを避けようとしているのだ」と。

 ともかくソクラテスは、このような問答を述べつ幕なしにしたため、当時の社会の主だった人々から、 ( うるさ ) がられた。ソクラテスは、そのような自分を、「神が、私をちょうど ( あぶ ) のようなものとして」、鈍い馬のような「この ( ポリス ) に付着させたのではないか」と表現している(『ソクラテスの弁明』30E)。鈍い馬とは、目先の利益に夢中になり、本当のことを何も知ろうとしないアテネをたとえたものである。

第4節 無知の知と愛知・・・知識への欲望(エロース)

 もちろん、ソクラテスのエイローネイアの狙いは、相手に無知を自覚させるという消極的なことに尽きるものではない。それは、無知の自覚に立って本当の(客観的・普遍的)知識を探求することへと人々を促すものであった無知の自覚に立った真の(客観的・普遍的)知識の探求、これが、ソクラテスの創始したフィロソフィア(philosophia)すなわち愛知(知恵を愛すること)いう言葉の意味するものである

 なお、真の(客観的・普遍的)知識の探求としての「愛知」と言う場合の「愛」とは、今日の我々が、プラトニックラブ(platonic love)という言葉で思い描くような純粋に精神的な愛ではないそれは、たとえば欲深い人間が異性を求める場合の愛欲、すなわち、エロース()」であって、厳密な意味での「」ではない。

 「」と「」は、同義語として用いられているかもしれないが、今日ではキリスト教思想に影響され、正反対の意味を担わされており、それぞれギリシア語のアガペー(love)エロース(desire)の訳語にあてられている。「愛とは、相手の幸せのために自分を与えること(他利主義)」で、「恋とは、自分の幸せのために相手の幸せを奪うこと(利己主義)」である。ただし、相手のために自分を与える愛が人口に 膾炙 ( かいしゃ ) し、大きく問題にされるようになったのは、紀元前後にキリスト教が誕生してからである。キリスト教では、人々の幸せのために自分の生命を犠牲にすることが何よりも尊いものとされた。しかし、宗教的な自己犠牲の愛は、それがどんなに崇高で ( おごそ ) かなものであろうとも、宗教上の報いが約束されている限り、そこには利己主義の余地が残されているのではなかろうか

 ともあれ、愛知という知の営み(哲学)は、他利的な「愛(アガペー)」ではなく、利己的な「恋(エロース)」によって支えられている。この恋(エロース)は、プラトンの対話篇『 饗宴 ( きょうえん ) 』の中で詳しく論じられている。それによれば、恋することは、恋の対象を我が物にしようとする欲求であるしかし、恋する者がその恋の対象を自分のものにすれば、自分の欲望は満たされて、恋は終わる。すなわち、恋する者は、何かを恋している限り、その恋の対象をまだ自分ものにしていない愛知(フィロソフィア)という場合の愛も、このようなエロース()の意味で理解されねばならない知識を恋する者は、その知識を我が物にしようとするしかしその人は、知識を恋し求めている限り、その知識をまだ所有していない。すなわち、彼は、無知の状態にある。ここから、知を恋し求める哲学というものは、無知を前提にして成り立つことがわかる。したがって哲学は、まさに知識を恋し求める限り、無知の状態にあり、知識を恋しつつも、遂にその知識を得ることができない。初回の授業で、哲学は「物事の根拠を探求する永遠の努力」であり、それには最終的な答えがないと述べた。それはまさに哲学の営みが、哲学である限り、本質的に満たされざるエロースに根ざしているからである。

 ソクラテス的アイロニーの目的は、相手に無知の知を自覚させることに尽きるのではなく、真の知識を新たに求めさせる哲学への誘いでもあったソクラテスによると、この真の(客観的・普遍的)知識を探求することに心を砕く魂の配慮、これこそが、人間の為すべき第一の業であり、人間を正しく幸福にする 心術 ( しんじゅつ ) (心構え)すなわちであった。すなわち、善悪正邪などの倫理的価値判断の客観的基準を否定するソフィストたちに代表される相対主義的な考え方を克服し、人間を真に正しい人間にするには、正しい行為の ( ) ( どころ ) となる真の(客観的・普遍的)知識を捜し求める哲学がどうしても必要だった。

 ソクラテスがエイローネイア(空とぼけ)を貫き、対話を通して相手に無知を自覚させ、真の知識への探求に誘う論法は、一般に「ソクラテス的問答法」とか「ソクラテス的対話術」、あるいは、ソクラテス自身の発言に基づき、ソクラテス的 産婆 ( さんば ) 」とも言われている。産婆は、自分の子どもを産むのではなく、妊婦の出産に立ち会い、その出産を手伝う。ソクラテスは、自分の使命を産婆の使命に見立て、彼の話し相手が真の(客観的・普遍的)知識の探求に着手するのを手助けしようとした。ソクラテスの生涯のところで述べたように、彼の母親ファイナレテは、産婆であった。

結び ソクラテスの歴史的意義

 ソクラテスの登場と共に、哲学の関心は、ソクラテス以前の人たちが対象としていた世界そのものの構成要素(アルケー)の探求から、「無知の知」の自覚に立ち、真の知識(客観的な価値判断の基準)の探求へと向かうようになった。ソクラテスと共に客観的な知の探求としての生まれた哲学は、次章で扱うプラトンによってイデア論という形で最大限に体系化され、ヨーロッパ文明(思想・科学・宗教)を形成する指導原理となった



[1] Apollon:ギリシア神話のオリンポス十二神の一人。美しい青年神で、詩歌、音楽、予言、弓術、医術を司る。デルフォイの神殿で下される神託は、古代ギリシア人の生活に影響した。

[2] Delphoi:古代ギリシアの遺跡。ギリシア中部のコリント湾の北側ある。アポロンの神殿があり、390年にキリスト教を国教としたテオドシウス1世により異教が禁止されるまで、中部ギリシア諸国の聖地だった。

 

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