哲学概論

更新日時2019/02/03

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第7回

 

第4章 アリストテレス

ソクラテスによって始められた普遍的で客観的な知識の探求という意味での哲学は、プラトンによってイデア論という壮大な仮説に大成された。しかしそれは、職人の製作行為をモデルにして考案されたひどく不自然な体系で、人工物には当てはまるが、自然物に上手く当てはまるものでなかった。この欠点を克服しようとしたのが、アリストテレスである。

第1節 アリストテレスの生涯

 アリストテレス(B.C.384322)は、ソクラテスやプラトンのようなアテナイの出身ではない。彼は、紀元前384年にギリシアの北に隣接するマケドニアの首都スタゲイロスの医者の家に生まれた。父親は、医者としてマケドニア王フィリポス2世に仕えた。彼は、17歳でアテナイに赴き、プラトンが開いた学園アカデーメイアに入学し(B.C.365)、プラトンの死まで20年間近く、そこで学んでいる。アリストテレスがそこに入学した当時、師のプラトンは63歳になっていたから、彼は、プラトンの晩年の弟子と言える。

 紀元後3世紀半ばにディオゲネス・ラエルティオスという人が書いた『哲学者列伝』という古代の哲学者に関する資料や逸話を集めた本によると、アリストテレスは、「発音するときに舌がもつれることがあり」、「彼の足はか細く、眼は小さくて、派手な衣服をまとい、指輪をはめ、髪を短く刈り込んでいたそうである」。アリストテレスは、流行にはやる派手好みの青年だったのだろうか。紀元後2世紀にローマ人のアリアノスという人によって書かれた『ギリシア奇談集』という怪しげな噂話を集めた本によると、プラトンは、そうしたアリストテレスの服装や髪型が気に入らず、彼を疎んじた。アリストテレスの方も、学園を離れてしばらくした後、80歳にもなった高齢のプラトンの許に、仲間を連れて押しかけ、詰問し、プラトンに「答えろ!」と言って脅し苦しめたとされる。これらの話の真偽の程は定かではないが、アリストテレスがプラトンの弟子の中でもかなり目立った存在であったことがうかがわれる。

 アリストテレスは、プラトンの死後アテナイを離れ、小アジアやレスボス島(エーゲ海)さすらった後、故郷マケドニアに帰り、当時のマケドニア王フィリポスの頼みで、前342年から6年間、あのアレクサンドロス大王[1]の教育にあたる。この間、フィリポスの率いるマケドニア軍は、前338年のカイロネイアの戦いでアテナイを中心とするギリシア同盟軍を破り、ギリシアを占領した。アレクサンドロスの即位とともに、アリストテレスはその教育係の任を解かれるが、前335年に占領下のアテナイに戻り、おそらく故国マケドニアの威力を背景にして、回廊つきの学園リュケイオン(Lykeion)を建設する。ちなみに、現在のフランスの高等学校リセ(lycée)の呼称は、このリュケイオンに由来する。リュケイオンで学んだ弟子たちは、アリストテレスがしばしばリュケイオンの回廊を散歩(peripatos)しながら講義をしたことか、彼らの一団は、ペリパトス学派(逍遥学派Peripatetikoi)と呼ばれている。リュケイオンは、プラトンの設立した学園アカデーメイアとともに、紀元529年に東ローマ皇帝ユスティニアヌスによって閉鎖されるまで、900年近くアテナイで学鐙を灯し続けた。

第2節 アリストテレスの著作

 アリストテレスは、いくつかの対話編や書簡を書いたようである。しかし、今日まで伝わっているのは、彼がリュケイオンで行った講義ノートだけで、それは『アリストテレス全集』としてまとめられている。彼の残した講義ノートは膨大な数に上るが、彼の哲学的思想を知る上で特に重要なのは、『形而上学(metaphysica)という講義ノートである。ここで、「形而上学」という語の意味を説明するために、その言葉の起こりを簡単に述べておこう。この言葉は、アリストテレスがみずから考案したものではない。

 もともとアリストテレスは、『形而上学』という講義ノートを、『第一哲学(prote philosophia)と呼んだ。その狙いは、およそ事物が存在する限りでの、その「存在するということの意味を探求することであった。すなわち「第一哲学とは、実質的に、存在一般(の意味)について論じる存在論(ontology)と同義であった。その一節を下に訳出してみる:

 それゆえ実に、今も昔も常に問われ探求されているのは、「存在とは何か」ということである。それは帰するところ「真に存在するものは何か」ということである。ある人々は、それを一つであると言い、他の人々は一つよりも多くあると言い、その内のある人々は限られた数だけあるとし、他の人々は無限に多くあるとした。したがって我々も、このように存在するものについて、それらが何であるかを、何よりも先ず先に、いやそれどころか、ひたすらこれだけを究明すべきである(VII.1028B)

 ところが、彼の死後200年ほどしてから、ロドスのアンドロニコスという人が彼の講義ノートを整理したとき、この『第一哲学』を『自然学(ta physika)の後に配置し、それを『自然学の後の書(ta meta ta physika)と呼んだ。ところが、ギリシア語のta meta ta physikaという言い方は、「自然物を超えたもの」という意味を含み、自然物を超えた「存在一般の意味」を問う「第一哲学」の狙いをよく表していたため、この縮まった言い方metaphysikaの方が、この講義ノートの表題として一般に流布するようになった。日本語の形而上学という言葉も、「形ある自然物を越えたもの(存在の意味)を問う学問」という意味で造語されたもので、同様に『第一哲学』の狙いをうまく表していると言える。

第3節 イデア論批判

 アリストテレスの哲学の出発点は、プラトンのイデア論批判である。プラトンによると真実の世界は、生成変化する感覚界ではなく、理性によって捉えられる(想起される)時空を超えた永遠不変のイデア界であり、現実の世界(感覚界)は、このイデア界の模像(エイコーン)でしかなかった。この現実の机を例に取ると、現実の机は、永遠に存在する机のイデアを手本にし、無定形の材料(質料)から制作されたもので、机のイデアの単なる写しにすぎない。

 しかしながら、アリストテレスは、現実の世界とは別の所(青空の裏側)に、そのモデルとなったイデア界が存在するとは考えなかった。たとえばアリストテレスにとって、机のイデアは、この現実の机とは異なる場所にあるのではなく、まさにこの机に内在するものであった机のイデアなるものは、個々の机とは別の所に存在するのではなく、個々の机を机たらしめる共通の本質として、まさに個々の机の中に存在するのである

 このことをアリストテレスの使った術語で敷衍してみよう。地上にある一つひとつのものは、個物と呼ばれる。個物は、無定形の質料(ヒュレー)と、形相(エイドス)との合成体である。この形相は、個物の内に内在し、無定形な質料に形を与え(限定し)、個物を個物たらしめる或る普遍的な特徴すなわち本質である。たとえば、地上にある一つひとつの机という個物は、机を机たらしめている形相と木材との合成体である。形相は、個物を個物として成り立たせている点で、プラントンが想定するイデアと同じ働きをするが、その存在する場所が異なっている。アリストテレスの考える形相は、個物の内にあり、プラトンの想定するイデアは、天上界にある。アリストテレスは、いわばプラトンのイデアを天上の世界からこの地上の世界に引き下ろし、個物の中に内在させたと言ってもいいだろう。

 プラトンはイデアの世界を現実の世界の外に設定し、それを真実在の世界とし、この現実の世界をその模造品・ 仮象 ( かしょう ) (仮の姿)として軽視したのに対し、アリストテレスは、真実在の世界(イデアの世界)をこの現実の世界の中に引き戻し、この現実の世界こそ真に存在する世界だと主張した

 アリストテレスにとって、イデアなるものは人間の空想の産物――単なる理想」――に過ぎず、人間の頭の中に存在するだけであり、真に実在するものではなかった。これに対しプラトンは、イデア界を真に存在する世界であるとし、現実の世界はイデア界の単なる写しに過ぎないと考えるしかしアリストテレスにとって、プラトンの考えは本末転倒であったすなわち、このイデア界こそが、むしろこの現実の世界の写しだった

 

第4節 個物・・・形相と質料の合成体

 既述のように、アリストテレスによれば、個物(個々の物)は、形相(eidos)質料(hyle)合成体(to synolon)である。たとえば、個々の机は、すべての机を机たらしめている机の特徴(形相)と、木や金属などの何らかの材料(質料)から成り立つ。個々の机は共通の特徴(机の形相)を共有する点では同じ机である。しかしそれらは、質料の点では同じ机でない。それらは、同じ机の形(形相)を持っていても、材質が違えば異なったものとなる。このように、個々の机を、他の机と区別させる要因は、形相の側にではなく、それを限定する質料の側にあるこのような意味で質料は、個体化の原理であるとされる。それぞれの個物に独自の個性を持たせるのは、形相ではなく質料である。

第5節 可能態と現実態

 しかしながら、机が質料と形相の合成体であるとしても、机が制作される以前には、その机の形相はどこにあるのだろうか。それがイデア界という特別な世界にないことは、確かである。なぜならアリストテレスは、イデア界を否定し、個々のイデアを形相として個物に内在させたからである。

 アリストテレスは、生物の成長過程を参考にしながら、この問題に答えているように思われる。たとえば杉の種は、時機がくれば発芽し、やがて一本の杉に成る。杉の種は、成長して一本の杉の木になる可能性を宿し、その可能性を実現しようとしている。同様に 雛鳥 ( ひなどり ) は、親鳥になる可能性を宿し、それを実現しようとしている。アリストテレスの創始した用語を使えば、前者(雛鳥や種)は、その成長した姿(杉の木や親鳥)すなわち形相を、すでに「可能態(デュナミスdynamis)として持ち、それを「現実態(エネルゲイアenergeia)にもたらそうとしているのである。

アリストテレスは動植物の成長過程をモデルにして得られた「可能態」と「現実態」の概念を用いて、現実の机が製作される以前の、机の形相の所在を巧みに説明した。すなわち机の形相は、質料の内に可能態として存在する可能態として質料の内に内在する机の形相が実現されると――現実態に移行すると――、実際の机が生じるのである

『ソフィーの世界』では、このことが彫刻家を例にしてわかりやすく描かれている(一部改変)

昔、彫刻家が大きな花崗岩に取り組んでいた。彫刻家は、来る日も来る日もこのただの石くれをたたいたり、削ったりしていたんだが、ある日、小さな男の子がやって来た。「何してるの?」と、男の子が尋ねた。「待っているのさ」と、彫刻家が答えた。何日かして、また男の子がやって来た。彫刻家は、花崗岩から一頭の見事な馬を彫り出していた。男の子はハッと息をのんで馬に見とれた。それから彫刻家に尋ねた。「この馬がこの石に入ってたって、どうしてわかったの?」

本当に、どうやって彫刻家はそんなことを知ったんだろうね? 彫刻家は、花崗岩の塊の中に確かに馬を見ていたんだよ。なぜならこの花崗岩には馬になる可能性が宿っているからなんだ。こんなふうにアリストテレスは、自然界のすべてのものは特定の形相を実現する可能性を内に秘めていると考えた。

 馬の形相は、彫刻家が花崗岩を削る前は、存在しなかったのではない。すでに花崗岩は――彫刻家の手にかかれば、他のものになる可能性も宿しているが――、馬の形相を可能態として持っており、彫刻家の手を借りてその形相は実現され、現実態に移ったのである。彫刻家は、花崗岩の潜在的可能性を引き出し、その内に潜む彫刻としての馬を露にした(自然の造化作用の手助けをした)と言える。一般的に、質料と形相の合成体である個物は、常に変容と運動の途上にあり、可能態として内蔵する形相を現実態にもたらそうとしている

第6節 自然物(自然・フュシス)と製作物(技術・テクネー)――自然的存在論と制作的存在論

 こうしてアリストテレスは、可能態現実態という概念によって、人為的な制作活動のプロセスを説明するとともに、プラトンのイデア論では説明することのできなかった自然界の生命活動すなわち動植物の成長過程を説明することに成功した。前章で指摘したように、プラトンのイデア論は、制作活動に基づいて構想されているため、地上の製作物の形成過程しか上手く説明することができなかった。

 これに対し、生物学的な成長過程をモデルにして作られたアリストテレスの可能態と現実態の概念は、上述のように、動植物の成長過程ばかりでなく、製作物の製作過程をも説明することができる。もちろんアリストテレスは、このことを明言しているわけではない。しかし彼は、「可能態」と「現実態」の概念が、プラトンの欠点を補うものであることを自覚していたように思われる。彼は、『自然学』第2巻第1章で、「自然(フュシス)によって存在するもの(自然物ta physei onta)」と「技術(テクネー)によって存在するもの(製作物ta techne onta)」からそれぞれ一つずつ例を引き、可能態と現実態という対概念が、いずれにも当てはまることを論証しているのである。

 アリストテレスによれば、自然物であれ、製作物であれ、すべてのものは等しく、可能態として有する形相を現実態にもたらす――すなわちそのものをそのものたらしめる本質(形相)を実現させる――動きの内にある。アリストテレスの世界観は、すべてのものが、みずからの存在の目的の実現(自己実現)を目指して活気づく目的論的世界観である。この点でアリストテレスは、プラトンの制作的存在論を修正し、ソクラテス以前の物活論的な自然的存在論の復権を狙っていたと言うことができる。それが成功したとは言えないけれども。

第7節 目的論的世界観・・・存在の階梯

 この「可能態」と「現実態」、ならびに、「質料」と「形相」の概念によって、我々は、世界の構成物と運動を統一的に理解することができる。アリストテレスによると、すべての存在者は、それぞれに内在する形相(存在の目的)の実現を目指して運動しているが、その形相の実現の度合いに応じて[2]下位の存在者が上位の存在者の生存に奉仕する形で階層的に秩序づけられている:

     質料・・・形相を持たず、まったく無定形の物質(第一質料)で、自然界の最下層(基礎)にある。これにより、すべてのものが構成される。

     無生物・・・その上に、自然界の無機物(制作物も含む)が位置する。それらは上位の存在者の生存を支える役割(形相)を持っている。

     植物・・・この上に植物が位置する。植物は、栄養摂取の能力を持つとともに、上位の存在者の生存に貢献する役割(形相)を持つ。

     動物・・・この上に動物が位置する。動物は、栄養摂取と運動と感覚の能力を持ち、上位の存在者の生存に貢献する役割(形相)を持つ。

     人間・・・その上に人間が位置する。人間は、栄養摂取・運動・感覚の能力に加えて、理性の能力を持ち――人間は理性的動物(animal rationalis)である――、各自の形相を実現しつつ、さらに上位の存在者に貢献する。

     純粋形相・・・最後に、万物を構成する全存在者の頂点に、純粋形相」とも、「不動の動者」とも、「第一起動者」とも、「神的な精神」とも呼ばれるものが万物を超えて君臨し、万物に究極目的を与え、有機的に秩序づける働きをしている。それは、質料をまったく持たない形相そのもの(純粋形相)、潜在能力(形相)を余すところなく実現した完全現実態(エンテレケイアentelecheia)の内にある。したがってそれは、可能態から現実態に移行することのない不動の存在者であり、万物の生存の究極目的として、みずから動かずして、他のすべての存在者を可能態から現実態へと動かす「不動の動者」あるいは「第一起動者」である。しかし、その超越的な有り様はプラトンのイデアそのものである。その限りでアリストテレスも、プラトンの想定したイデア論を完全には克服できなかった。

 このように、質料と形相および可能態と現実態という概念により、すべての存在者は、不動の動者である純粋形相を頂点にして階層的に秩序づけられている。このようなアリストテレスの世界観が、プラトンの世界観と正反対なのは明らかである。制作的思考法に依拠するプラトンの世界観は、永遠不変のイデア界と、その模像でしかない現象界(感覚界)とを峻別する二元論的世界である。これに対しアリストテレスの世界観は、(プラトンのイデア論の紛れもない残滓である)不動の動者の光の下に、すべてが有機的に連動する目的論的世界である。言うなれば、プラトンの世界観は非連続的世界観であり、アリストテレスの世界観は連続的世界観である。

 以後のヨーロッパでは、この二人の世界観が、キリスト教を後ろ盾にして互いに覇を競った。最初は、プラトンが勝った。その後、中世(13世紀頃)に到り、アリストテレスが勝利した。しかしルネサンス以降、またプラトンが勝利した。すなわちキリスト教は、その教義を作成するためにプラトンを利用した。神と世界の関係を説明するには、プラトンの製作的思考法が適していたからである。やがて、世俗国家に介入する教会の権利を正当化するには、アリストテレスの連続的世界観が適していることが気づかれた。それにもかかわらず、プラトンの製作的思考法が、捨て去れられることはなかった。ヨーロッパ文明はプラトンの敷いた路線を走り続けた。プラトンの影響は、技術文明という形で、今でも猛威を振るっている。それは物作りを本質とする技術文明の無機的な物質観をもたらしたからである。



[1] B.C. 365323マケドニア王フィリッポス2世の子。ギリシア諸都市を平定後ペルシアを征服し、インダス河畔に至る大帝国を築く。ヘレニズム文化の基礎をつくった。

[2] アリストテレスによると、すべての事物の生成消滅の原因は、四つある。①質料因(個体化の原理としての質料)。②作用因(形相の実現を働きかける外的原因)。③形相因(物をそのものたらしめる形相・普遍的な本質)。④目的因(物が存在する目的・存在理由)しかしそれらは、質料因と形相因に帰着する

 

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