謙遜

 しかし俗世で何らかの物を所有していた者は、修道院に入ったとき、その持ち物が共有されるのを進んで望まなければならない。他方、何も持っていなかった者は、かつて外にいたとき持つことのできなかった物を修道院の中に求めてはならない。しかしながら、かつて外にいたとき、貧困のせいで必要なものさえ入手することができなかった場合には、その者が病弱ならば、必要な物が配分されなければならない。

 彼らは、外で見出すことのできなかった食べ物や着る物を見出したからといって、自分たちが幸せであると考えてはならない。また、外では敢えて近づくことのできなかった人たちの仲間になるからといって、首をもたげてはならない。むしろ心を上にあげて(Col.3,1-2)、地上の虚栄を求めないようにしなければならない(Ph.3,19)。富んでいた者が修道院で遜り、貧しかった者がその中で傲慢になるようでは、修道院は富んでいた者に有益であり、貧しかった者には有益ではないということになってしまう(1 Co.5,2;13,4)

 逆に、俗世では一角の人物に見られていた者たちも(Ga.2,2)、貧困の中からこの聖なる仲間に加わった兄弟たちを疎んじてはならない。かえって彼らは、富裕な親類縁者の地位名声を誇るよりも、むしろ貧しい兄弟たちの仲間になったことを誇るように努めなければならない。また、自分の財産の中から、共同生活に何ほどかの資財を提供したからといって(Tb.1,19;Lc.8,3;1 Co.13,3)、高ぶってはならない。また、修道院内で自分の富を分かち合うからといって、かつて俗世でそれを享受していたとき以上に、自分の富を誇りにするようであってはならない。まことに他のすべての不正は、悪事の中で働いて、その不正の実現をはかるが、高慢は、善行の中にも罠を仕掛け、その滅びをはかる。哀れな霊魂が、富を軽蔑することによって、富を持っていたとき以上に、高慢になるとすれば、貧しい人たちに富を分け与えて(Ps.111,9;Lc.18,22;1 Co.13,3)、貧しくなることに何の益があろうか。

 したがってあなた方はみな、心を一つにし(Ac.1,14;2,46;Rm.15,6)、心を合わせて生活しなさい。そしてあなた方は神の神殿となったのであるから(2 Co.6,16; cf.1 Co.3,16)、あなた方の内におられる神を互いに敬いなさい。

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