テサロニケの首都大司教グレゴリオス・パラマス

テオファネス

神性および神性における分有不可能性と分有可能性について

 

朱門岩夫 訳

最終更新日18/12/29

注は割愛いたしました。


 

賛美は神にふさわしい

G.Palamas, PG CL 960C

 

底本

Gregorii Palamae Thessalonicensis Archiepiscopi Dialogus qui inscribitur <<Theopanes>> sive.... collectionne dans PG CL,909A-960C avec traduction latine.

 

凡例

[ ]は、直前の語句と言い換え可能であること

( )は、直前の語句の原語ないしは説明的補足

「 」は、原文自体にある引用語句

字消し――は、訳文を平易にするために、訳者朱門岩夫が施したもの

訳文注のアラビア数字と大文字体のローマ字は、ミーニュ版の頁(欄)数と記載箇所

を示している。

 


 

本文

 

テオファネス 909A 兄弟テオティモス、あなたは、近ごろ行なわれた数々の話し合いを、みずからじっくりとお考えになりましたか。それとも、なにかしら余計な無駄話かのように、等閑に伏したままほったらかして、そのうえそれらの話し合いを忘れて雲散霧消させてしまい、あなたの心の諸々の考えからすっかり取り払ってしまったんですか。

テオティモス なにをおっしゃるのですか、善きテオファネス。912A あなたは、私がそんなにもやすやすと、あの話し合いを記憶の外に放り出してしまったとお考えなのですか。あの話し合いは、私にとって素晴らしいもので、数々のこの上もなく善きことをもたらしてくれたんですよ。なぜって、その話し合いのおかげで、私は、とても大きな迷妄から解き放たれたのですから。その迷妄というは、ほら、あのイタリアのバルラアムが作り出したもので、そのせいで彼が追放され、滅んでしまったやつです。それに、例のアキンデュノスが、どういうわけか私にはわかりませんが、それに手を染めて、明らかに自分自身に対しても、また取り分け、彼に従うごろつきども[放浪修道士たち]に対しても、危険人物[キンデュノス]となってしまったあの迷妄のことです。

テオファネス 私は、君が多くの煩わしい出来事に取り囲まれていたのを知っているし、最近すべての人たちに降りかかった騒動を知っているのだよ。それに、その騒動のおかげで、君の友人たちは、才知を必要としていたろうと思う。それで私は、いまこう尋ねたのだ。

テオティモス しかしですね、私としては――いいですか、よくご承知ください――あれほど重大な諸問題について考察することの方が、すべての雑事に勝っていると思っています。なにしろ、その考察は、私はが四六時中それに気を配ったせいで、私の心の中になにか刻印のようなものを刻み付けて、(夜も)おちおち眠らせてくれなかったほどでしたからね。B それに、目が覚めたかと思うと、すぐに、それらの諸問題の一つひとつを、悟性をもってできるかぎり検討するようにと迫ってくる始末でした。しかし、どうやら私は、なにかしら見晴らしのいい望楼の上に、つまり、神に関する諸教義の真理という望楼の上にしっかりと立っているように思えたです。なぜかと申しますと、私は、あなたの数々のお言葉によってこの望楼の上に立たされたからです。このなにかしら高台のような所から下方を見ると、下の方に、深い谷間や闇に満たされて影のかかった裂目のようなものが、つまり、とてつもなく大きな誤謬、あの連中の数々の誤謬が横たわっているのが見渡せます。たしかにあの連中ときたら、誤謬に希望をかけ、誤謬にはなはだしく酔い痴れ、止めどもなく欺瞞を播き散らして、挙げ句の果てには、自分たち自身に欺き、自分たち自身をだましているんですからね。実際、彼らは、ある時には、(聖)霊の神化の賜物を、つまり、聖なる人たちがそれをとおして神に参与する者となる、いや、むしろ神とともに一つの霊となる、その賜物を造られたものであると大っぴらにいいのけ、そのうえ、C 数々の論証と聖書の証言によってすべての人々を納得させようと、最大限の努力を払っているんですよ。またある時には、我々は神の本性そのものに参与しているといいのける始末です。しかし彼らは、この二つの問題に関する主張を前にして、自分たち自身に対しても、また、自分たち自身の発言に対しても、両方の側で欺かれて、自分たち自身によってだまされているのではないでしょうか。いったいどうして、彼らのいうところの神の実体に参与する人が、造られざるものではなくて、造られたものの参与者となるのでしょうか。また、いったいどうやって、彼らのいうところの造られた恵みによって神化された人が、神の実体に参与するのでしょうか。

テオファネス だが、テオティモス、彼らの諸々の主張は、それらを生み出した心の激情に不釣り合いではなさそうだよ。彼らは、その激情に駆り立てられて、あのようなおしゃべりへと突き進んでいったのだからね。実際、嫉みというものは、彼らのように嫉みを抱いている者たちに、そうしたおしゃべりを生み付けるのを常としているのだ。それに、彼らの諸々の発言が、それらを言い放つ当人たちに矛盾しているのであれば、D それらの発言は、そうした発言を言い放つ者たちが、生半可な悪党ではなくて、根っからの悪人であることを示している。というのはね、完全なる悪人は、自分自身に対してさえも善き人ではありえないからだ。いや、それどころか、あの連中は、自分自身を滅びへと差し向ける者たちに属している。だが、もしも君が、諸々の難問から完全に解き放たれていないのであれば、どうか、ためらわずに、君の望むところをなんでもお聞きなさい。私は、論争のためにではなく、真理のために探求する人とならね――いいかい、よく心に留めておきなさい――特に喜んで対話をするのだから。

テオティモス では、神のみ前で[どうか]、テオファネス、先ずなによりも次のことを私に教えてください。いったいだれが、このような論争を始めたのですか。この論争によって、あのバルラアムは、みずからの破廉恥ゆえに、永久追放の刑に処せられてしまいましたね。たしか、あの人は、いくつかの書物に出会ったといっていました。そして、その中からたくさんの節からなる言葉を選びだして引用し、こう言い張っていたのです。それらの言葉のおかげで、心を悩ませた。なぜなら、私自身が、なにかしらの損害をもたらしたのではなく、913A それらの著作に、善くない疑惑、いや、むしろ途方もなく悪い疑惑を受け取ったからだ、と。つまり、彼は、それらの著作家が不敬な見解を抱いていると憶測し、まさにその不敬な見解を覆すために、数々の論駁書を作成しました。そういうわけで、彼がこの論争の始まりを据えた人だといえる人は、だれもいないのです。

テオファネス いにしえの皇帝陛下の中には、いみじくも次のようにいわれたお方がおられるよ。批判する者たちに対しては、両方の耳を向けてはならない。むしろ片方の耳を、これから弁明する人のために、無傷のまま取って置くべきだ。それは、両者の話を最後まで聞くまでは、なにものかを偏愛したり、また、判決を下したりすることが、決してあってはならないようにするためだ、とね。しかし、あのバルラアムは、これらのことを、教会会議に際しても、演説の際にも、ほとんど守らなかった。そのうえ、私は、あの男の話しの間中ずっと、心を痛め、苦い思いを味わっていた。もちろん、いま君がいった、いくつかの著作によってね。B だが、これらの著作については、若干の説明が私たちに必要だったのだ。というのは、我々は、事実そのものから、異論の余地なき反論を得ているのだから。実際、我々は、我々の諸著作のはるか以前に出来上がったあの男の数々の著作[論駁書]を引き合いに出して提示していたのだ。なにしろ、あの男の数々の著作も、目下の係争問題に関係していたし、そのうえ、我々の著作が、あの男の著作と対立してさえいたからね。ところが、あの男は、自分の思うがままに、それらの著作をテサロニケから持ち去って湮滅し、今度はその一年後に作成された諸著作を、我々によって作られた数々の反論に対して提示することによって、事情を知らない人たちに、自分が(この論争を)始めたのではないと、やすやすと説き伏せた。しかし、この点で、彼が嘘つきであり、誤っていることが、いとも簡単に明らかになってしまったのだ。というのはね、テサロニケの人々は、(論争の)発端をその四年前に吟味して、それがどこから生じたかをよく知っていたからだ。なんてったってそのとき彼は、我々がどこの土地の出身であるかをほとんどまったく知らなかったし、数々の文書をとおして我々と交際してもいなかったからね。C そのうえ、テサロニケの人々は、そんなにも前に、彼がその当時、清貧の独修生活をしている人たちのある人物に聞き従って、その人から数々の非難の口実を見出したのをよく知っているのだよ。その数々の非難というのはさ、他ならぬ教会会議の決議文書が、それを望む人たちに明らかに提示しているやつさ。しかし、いまいった人たちの他に、だれが(これらの)議論の創始者だろうか。非難する奴、問責する奴がそれではないのかね。明らかに彼が、その人だったのだ。他方、我々の方は、その四年後に、総大司教の諸文書によって呼び出され、ここに来たのではなかったのか。そうであれば、どうして、われれがあの男に対する反論の端緒を開いたのでないということが、なにに増しても明白でないのだろうか。いや、それどころか、(論争を)始めたのがあの男であれ、あるいは我々だろうと、たんに(論争を)開始した人よりも、敬神の念に反して語る人の方が、だれよりも非難されるべきであり、いや、それ以上に、忌み嫌われるべきではないのだろうか。

 

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