第四節

愛の神とコンパニオンとしての神

 

 したがって人間の自由意思を尊重しその決断を忍耐強く待つオリゲネスの神は、いわば絶対的な専制君主として世界を超越し世界に臨む無慈悲な神であるとは必ずしも言えない。『マタイによる福音注解』十の二三、『エレミア書第二十講和』の二などによれば、オリゲネスの神は、その本性において無慈悲(inpassibilis)であるが(et Hom.Num.,XXIII,2 etc.)、神を離れた「者たちのために涙を流し」(Hom.Ez.,XIII,2:deflet)、救われた人々のために大いに喜び(Hom.Num.,loc.cit.)、『エゼキエル書第六講和』の6によれば、理性的被造物の苦しみを共に味わい、彼らにご自分を与える愛に満ちた善い神なのである。オリゲネスは次のように言う。(引用)「*救い主は、十字架の苦しみを受けしかも私たちの肉を取ることをよしとされる前に、人類を憐れでから(この)地上にお降りになり、私たちの苦しみを忍ばれたのです。実際、救い主が憐れみの情をお持ちにならなかったとすれば、人間の生命の交わりにお入りになることはなかったでしょう。救い主が私たちのために抱かれたその憐れみの情とは何でしょうか。それは愛情(caritatis passio)です。また、宇宙万物の神である父ご自身も、*憐れみの情を抱きます。神の子が私たちの苦しみを背負われるのと同じように、神は私たちの苦しみを背負われるのです。確かに御父は苦しみを受けない方ではありません(non est impassibilis)。神は願い求められれば、憐れみの情をお持ちになり共に苦しまれ、何程かの愛情を抱かれます。そしてご自分の本性の偉大さに比べれば(本来)あり得ない状況の中に身を置かれ、私たちのために人間の苦しみを背負われるのです。」(Cf.Comm.Rom.,IV,4)このようにオリゲネスの神は、明らかに救いのオイコノミアの中で真実に人類の苦しみを共に味わい、それを自ら担う愛に満ちた慈悲深い神として捉えられているのである。

 

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