第六節

ホワイトヘッドのプロセス思想との比較

 

 以上、私たちはホワイトヘッドのプロセス思想と対応ないしは対比し得ると思われるオリゲネスの考え方を簡単に取り出してみた。概して神と世界とについての両者の見解は、明らかに平行していると思われる。オリゲネスの神はその本性において世界を超越し、世界を秩序付ける形相原理を noesis の noema として永遠に把握すると同時に、その働く力すなわちエネルゲイアにおいて自らを世界に与え世界に内在てし、理性的被造物の神化を促す愛に満ちた善い神であり、世界は神の力によって貫かれ統合された有機的世界であり、理性的被造物の神化と共に栄光化のプロセスを辿る力動的な世界なのである。他方、ホワイトヘッドの神は、その原初性(primordial nature)の内に世界に内在して、世界の究極的な構成要素である現実的実質(actual entity)の自己創造的なプロセスに立ち合い、その原初性の内に概念的に抱握された永遠的客体(eternal object)をその主体的目的あるいは説得的誘因として附置し、その結果性(consequent nature)において世界を自然的に抱握し統合しつつ超越する。と同時に、その自己超越性(superjective nature)において世界に自らを抱握の客体として与える愛の神であり、生成を繰り返す現実的実質は、三つの本性に分析される神の働きに助けられて一つの有機的かつ力動的な世界を形成しているように思われるのであります。

 とは言えオリゲネスとホワイトヘッドの思想には、著しい相違があることも確かであ。ホワイトヘッドの中心概念である現実的実質、すなわち精神的極(mental pole)と自然的極(physical pole)とを併せ持ち、世界の究極的な構成要素となっているactual entityという概念は、厳密に言えばオリゲネスには見当らない。またホワイトヘッドはすべての現実的実質は相互内在的に秩序付けられるとしてもすべては同じ形而上学的次元にあると考えているが、オリゲネスにって形而上学的に同等なのは理性的被造物だけなのである(De Princ.,II,9.4-6;IV,4.9)。しかしより決定的な相違は、オリゲネスが神はその本性において造られざる方としているのに対して、ホワイトヘッドが神を一切の現実的実質を貫きその創造的前進を促進する一般的活動性(general activity)の源初的被造物(primordial creature)だと見做して、神の絶対的創造性したがって無からの創造を否定している点(p.32,154,)が挙げられる。しかしながらオリゲネスの神はある意味で造られるという被造的な側面を持っており、ホワイトヘッドの神との類比は可能であると思われる。実際、オリゲネスの神はその本性において造られざる方であるが、P.G.クンツが言うように、「プロセスとは生成することであり、その際動詞の分詞に似たものが現われる」とすれば、世界の創造と管理のオイコノミアにおいて「働く方」(ho energon)という動詞の分詞形を以て表されるオリゲネスの神は、私たちにとってはまた真実に生成する神、つまりそのエネルゲイアにおいて被造物と相関しながらその都度造られつつ自らを造り直す神だとも言えるのであります。最後にJ.Meyendorffがオリゲネスの神について述べていることを引用するのも無益ではないと思います。(引用)「まさしくオリゲネスの誤謬は、神と本質とを同一視して、不動性と運動、認識不可能性と啓示、超時間性と時間の中での働きとが、神のペルソナ的な存在の神秘と単純性の中で一つに結び合わされ、現実に共存し得る、ということを知らないことにあった。」(p.305)と言うが、しかしその批判は正しくないと思われる。

 

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