時代劇の主人公


家康の肴は焼味噌

家康は若い頃から美食は極力避け、食事に麦飯を好んで食べていたそうだ。その家康を支えた三河の武士たちも家康に劣らぬ粗食で心身を鍛えたが、常食は湯漬け飯と焼味噌(朴の木の葉で包み炭火で焼いたもの)で酒の肴もこれで済ませたそうだ。功成に名遂げてからも一汁三菜を常とし、酒席などでは好物として焼味噌を所望したという。家康は酒を好んで飲むことはなかったそうだ。 (名古屋人は、すでにこの時代でも節約に徹していたんでね。)

水戸光圀は美食家

水戸光圀は寛永5年(1628年)に生まれ、元禄13年(1700年)に73歳で亡くなっているが、この時代は食べ物の味に目を向け始められた時代で、それまでの空腹を満たせばこと足りた食事から、故実に関わりなく目新しくて美味しい料理が重視される、日本料理の転換期であった。光圀の食卓は、自然と酒をこよなく愛し、季節の初物、旬の彩りで飾る食通の毎日であり、こと飲食関しては探究心がきわめて旺盛で徹底していたそうだ。光圀の食通となった背景には五歳まで家臣 三木仁兵衛の家で普通の子供として育てられた生い立ちと、反抗期に江戸の町々を歩き回って庶民の味に親しみ、吉原にも通って朝帰りを繰り返した庶民性があったことが挙げられる。

『玄桐筆記』  井上 玄桐(光圀の侍医)
「御酒を好んで召上れる。江戸にては諸大名、麾下衆、京家者ども毎日の御客に痛飲をあそばされしが、西山にては御家来、御領内僧衆など御相手になりければ御心のまま召し上げられ候。されども普通の大戸(酒豪)ども皆沈酔すれど公は儼然(げんぜん・いかめしくおごそかなようす)としておわせし也。御座中の者ども皆ことごとく正体なく、明日になりては昨夜何を申せしも覚えたるものもなきに、いつとても公は終中始のこと少しも忘れ給うことなし。また、いかほどの大盃にても一息に飲み尽くし給いて、ついに半ばてめらひ給うことなし。」(要旨)という並みの酒飲みなど足元にもおよばなかった医者が呆れる酒豪だったそうだ。(きっと、午後8時45分に悪人退治。そのあと美味しい酒を飲んでいたんでしょうね?)

国定忠治最後の酒

国定忠治は、嘉永3年(1850年)12月21日、いまの群馬県吾妻郡吾妻町大戸の地で、ハリツケの刑によって41歳の生涯を閉じた。その時の話として、処刑間際に役人の計らいで酒を一杯飲んだ。忠治が旨そうに飲み干したので、役人がもう一杯すすめると「酔っぱらってハリツケになったのでは臆病者呼ばわれされるから」とわらって断り、大戸宿や近在から忠治の最後を見ようと集まった1500人ほどの人々の見守る中、槍で14回突かれたのち息絶えた。罪名は「関所破り」の重罪だった。この時飲んだ酒の銘柄は、彼が以前から懇意にしていた大戸在住の豪商、加部安左衛門が醸造して、中仙道の宿々に売り込んでいた「牡丹」という銘柄の地酒であった。忠治は、江戸伝馬町の牢から唐丸籠に揺られ、中仙道を経て高崎から信州街道に入り、処刑の前日、大戸に到着している。その晩は忠治愛用の酒として「牡丹」が加部家から差入れられ、忠治はそれを飲んでぐっすり寝たという。(親分のなかの親分。ではないだろうか。)