中日ドラゴンズの歩み(歴史/球団史/年表)


西暦 年号 監督 成績 順位 チーム名 本拠地 主な出来事
1936 昭和11年 池田豊 3 6 0 (5位) 名古屋軍 ----- 1/15球団創設。正式名称は「大日本野球連盟名古屋協会」。親会社は新愛知新聞。7/7公式戦東京大会で優勝。  
4 3 0 (4位)
12 14 0 (4位)
1937 昭和12年 桝嘉一 21 35 0 7位 名古屋軍 ----- イーグルスの選手大量引き抜きに遭う。球団代表に赤嶺昌志就任。
13 33 3 8位
1938 昭和13年 根本行都 11 24 0 7位 名古屋軍 ----- 入団2年目,17歳の西沢道夫が台頭。
19 18 3 4位
1939 昭和14年 根本行都
小西得郎
38 53 5 6位 名古屋軍 ----- ペナントレースが通年に。服部受弘入団。監督途中交代。
1940 昭和15年 小西得郎 58 41 5 5位 名古屋軍 ----- 村松幸雄,西沢道夫がダブル20勝。石田政良が32盗塁で盗塁王。
1941 昭和16年 小西得郎
本田親喜
37 47 0 6位 名古屋軍 ----- 投手の不振で低迷。服部本塁打王。
1942 昭和17年 本田親喜 39 60 6 7位 名古屋軍 ----- 親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社が統合され中部日本新聞に。5/24大洋戦で世界最長の延長28回引き分け。投手は西沢完投、大洋も野口が完投。
1943 昭和18年 三宅大輔 48 29 7 2位 名古屋軍 ----- 合併に伴う本社人件費の増大により球団への投入資金が大幅減少。中部日本新聞取締役の大島一郎が私費を出資。
1944 昭和19年 三宅大輔 13 21 1 4位 産業 ----- 理研工業の傘下に。9/24に戦争のため公式戦中止。
1945 昭和20年 戦争のため中止
1946 昭和21年 竹内愛一
杉浦清
42 60 3 8位 中部日本 ----- リーグ戦再開。中部日本新聞社が経営に復帰。
1947 昭和22年 杉浦清 67 50 2 2位 中部日本ドラゴンズ ----- ニックネーム導入にあたり、当時の中部日本新聞・杉山虎之助社長の干支が辰年だったことから“ドラゴンズ”に。
1948 昭和23年 杉浦清 52 83 5 8位 中日ドラゴンズ 後楽園球場 天知俊一技術顧問就任。赤嶺旋風で抜けた選手の穴を埋める主力を多数獲得。中日スタヂアム完成。12/2にオールスター東西対抗戦で初お披露目(ペナントは翌年から使用)
1949 昭和24年 天知俊一 66 68 3 5位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 杉下茂入団。西沢道夫が金星から移籍復帰。
(1リーグ成績) 543勝645敗43分

西暦 年号 監督 成績 順位 チーム名 本拠地 主な出来事
1950 昭和25年 天知俊一 89 44 4 2位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム リーグ分裂、2リーグ制となりセリーグに加盟。
1951 昭和26年 天知俊一 62 48 3 2位 名古屋ドラゴンズ 中日スタヂアム 名古屋鉄道が経営参加。8/19巨人戦で球場が全焼。死者3名,負傷者約300名。
1952 昭和27年 坪内道典 75 43 2 3位 名古屋ドラゴンズ 中日スタヂアム 焼失した球場が鉄筋コンクリート,収容人員30000人で新築される。
1953 昭和28年 坪内道典 70 57 3 3位 名古屋ドラゴンズ 中日スタヂアム 中日スタヂアムで初ナイター(6/25広島戦)。名古屋鉄道がシーズン終了後、経営から撤退。
1954 昭和29年 天知俊一 86 40 4 優勝 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム リーグ初制覇。優勝決定は移動日の10/19。日本シリーズで西鉄ライオンズを4勝3敗で下し、日本一に。
1955 昭和30年 野口明 77 52 1 2位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 新主将に西沢道夫、二軍監督には近藤貞雄が就任。球宴直後の7/28巨人戦〜8/18大洋戦に15連勝を記録し首位に3.0差まで詰め寄るも、最後は15.0差の2位。
1956 昭和31年 野口明 74 56 0 3位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 大洋戦26連勝(前年6/28〜4/26)。大矢根,中山がともに20勝も、投打の歯車がかみ合わず3位。ウエスタンリーグで中日が初優勝。
1957 昭和32年 天知俊一 70 57 3 3位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 最大5.5差で首位を走り、前半を首位で折り返したが8月末に陥落。
1958 昭和33年 天知俊一 66 59 5 3位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 西沢道夫,服部受弘,杉下茂が現役引退。服部(10),西沢(15)の背番号は永久欠番に。
1959 昭和34年 杉下茂 64 61 5 3位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 杉下が33歳で監督就任。9/25夜に上陸した伊勢湾台風の被害で、合宿所が壊滅。試合も6試合が他球場に振り替えられる。
1960 昭和35年 杉下茂 63 67 0 5位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 前半戦は首位折り返しも、大洋に1勝9敗と負け越すなど後半戦で失速。2リーグ分裂後、初のBクラスに。
1961 昭和36年 濃人渉 72 56 2 2位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 新人の権藤博がフル稼働。新人王,沢村賞,ベストナイン,最多勝(35勝),最多奪三振(310)など。終盤まで巨人と優勝争い。勝利数は1勝上回ったが勝率が7厘下回り2位。
1962 昭和37年 濃人貴実 70 60 3 3位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 後半戦に36勝19敗の猛追も、前半戦の不振が響き、3位止まり。
1963 昭和38年 杉浦清 80 57 3 2位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 球宴時に首位巨人と10.0差。後半猛追し、全チーム勝ち越しも2.5差の2位。
1964 昭和39年 杉浦清
西沢道夫
57 83 0 6位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 2リーグ分裂後、初の最下位。杉浦監督が6/7に休養、西沢コーチが代理監督に就任。
1965 昭和40年 西沢道夫 77 59 4 2位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 前年首位打者の江藤慎一が開幕直後に戦線離脱、入団以来の809連続試合出場記録が途絶える。復帰後、2年連続の首位打者を獲得。小川健太郎,水谷寿伸,板東英二,山中巽の4人が2ケタ勝利。8月に14連勝も2位。
1966 昭和41年 西沢道夫 76 54 2 2位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 26回総当りの130試合制に。優勝した巨人に6勝20敗と完敗。13.0差の2位。
1967 昭和42年 西沢道夫 72 58 4 2位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 5/15〜5/30に西沢監督が胃炎で休養(監督代行は近藤貞雄コーチ:8勝2敗)。
1968 昭和43年 杉下茂
本多逸郎
50 80 4 6位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 年明けに西沢監督が十二指腸潰瘍悪化のため監督辞任。成績低迷で6/25には杉下監督が休養。球団創設以来初の全球団負け越し。
1969 昭和44年 水原茂 59 65 6 4位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 一時は最下位も8月末から1分けをはさみ10連勝。小川健太郎が6/15の巨人戦・王との対戦で「背面投げ」。8/31,10/19にも奇策を披露。
1970 昭和45年 水原茂 55 70 5 5位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 「黒い霧事件」でエースの小川健太郎が球界追放。
1971 昭和46年 水原茂 65 60 5 2位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 星野,渋谷,稲葉,松本幸,渡部,谷沢,大島ら若手の台頭で4年ぶりにAクラス入り。
1972 昭和47年 与那嶺要 67 59 4 3位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 8/24巨人戦で爆弾騒動(いたずら電話)。観客や選手が一時的に避難し、25分間試合中断。
1973 昭和48年 与那嶺要 64 61 5 3位 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム シーズン序盤から混戦模様。7月に一時的に抜け出すも8月に大失速。5月に中日スタヂアムが関連事業の経営不振から倒産。
1974 昭和49年 与那嶺要 70 49 11 優勝 中日ドラゴンズ 中日スタヂアム 8月後半から大攻勢を見せ首位に躍り出る。巨人のV10を阻み、20年ぶり2度目のリーグ制覇。2位巨人とは勝率1厘差。
1975 昭和50年 与那嶺要 69 53 8 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 球団初の海外キャンプを米フロリダ・ブラデントン球場で実施。シーズン中盤に2度首位に立ったが赤ヘル旋風を巻き起こした広島に抜き去られ、4.5差の2位に。
1976 昭和51年 与那嶺要 54 66 10 4位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 星野仙一,高木守道ら主軸の離脱で6年ぶりのBクラス。人工芝になった後楽園で0勝12敗1分。
1977 昭和52年 与那嶺要 64 61 5 3位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 下位には勝ち越しも上位に負け越し3位。現役メジャーリーガー・デービスが入団、8/2広島戦で左手首を骨折するまで25本塁打の活躍。
1978 昭和53年 中利夫 53 71 6 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 10年ぶりの生え抜き監督も、ケガ人続出で下位低迷。
1979 昭和54年 中利夫 59 57 14 3位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 6年ぶりの前半戦首位折り返しも8月に失速。10月に8連勝し、Aクラス確保。
1980 昭和55年 中利夫 45 76 9 6位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 開幕戦6連敗スタート。球団史上最低の勝率.372で12年ぶりの最下位。高木守道が現役引退。
1981 昭和56年 近藤貞雄 58 65 7 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 4月に15勝4敗の好スタートもその後失速。8/26巨人戦で宇野勝が迷プレーの「ヘディング」。
1982 昭和57年 近藤貞雄 64 47 19 優勝 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 8年ぶり3度目のリーグ制覇を最終戦130試合目で決める。2位巨人とは勝率8厘差。勝利数が試合数の半数(75)を満たさず優勝したのはリーグ初。
1983 昭和58年 近藤貞雄 54 69 7 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 投手陣崩壊。巨人優勝決定の10/11にシーズン中にも関わらず、来季監督が決定。 
1984 昭和59年 山内一弘 73 49 8 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 6/29大洋戦で毎回得点試合(22-7)。本塁打王宇野を筆頭に、谷沢,モッカ,大島が本塁打30本越え。宇野が月間15本塁打のタイ記録(8月)。
1985 昭和60年 山内一弘 56 61 13 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 キャンプ直前に人気絶大だった田尾安志が西武へトレードされる。小松辰雄が孤軍奮闘。夏場前には下位低迷。
1986 昭和61年 山内一弘
高木守道
54 67 9 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 7/5に山内監督休養、高木コーチが代理監督に就任。オフに星野仙一就任、世紀のトレードで落合獲得。
1987 昭和62年 星野仙一 68 51 11 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 5月に14勝4敗3分と大きく勝ち越し首位に立つも、最終的には巨人を追い詰めることができず2位。8/9巨人戦で高卒新人の近藤真一がプロ初登板でノーヒットノーランを達成(史上初の快挙)。
1988 昭和63年 星野仙一 79 46 5 優勝 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 4/30には首位広島に最大8.0差の最下位も逆転優勝し6年ぶり4度目のリーグ制覇。2位巨人に12.0差の大差。
1989 平成元年 星野仙一 68 59 3 3位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 故障者続出も後半戦持ち直し何とか3位。巨人から移籍した西本がチーム15年ぶりの20勝。8/12巨人戦で9回一死まで無安打無得点も最後は落合が逆転サヨナラ3ラン。 
1990 平成2年 星野仙一 62 68 1 4位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 新人の与田剛が150km台の速球を武器に活躍。落合博満が前半終了時は三冠も、後半戦で打率を下げ二冠に。
1991 平成3年 星野仙一 71 59 1 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 最大7.5差の首位に立っていたが9月に入って3連敗-4連敗-5連敗と大失速。9/10〜12広島との天王山で3連敗し首位から陥落。9/23に星野監督が辞意表明。
1992 平成4年 高木守道 60 70 0 6位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 12年ぶりの最下位。
1993 平成5年 高木守道 73 57 2 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 前半戦には最下位もあったが後半戦に追い上げ、8月末には一時的に首位に。終盤に主軸が離脱、逃げ切られる。オフに落合がFAで巨人に移籍。
1994 平成6年 高木守道 69 61 0 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 7/16時点で首位巨人に10.5差をつけられていたが、69勝60敗で並び、10/8に史上初の同勝率同士の優勝決定戦。3-6で敗戦も、投打の個人タイトルは総ナメに。
1995 平成7年 高木守道
徳武定祐
島野育夫
50 80 0 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 6/2の試合前に高木監督が辞意表明。その試合で審判に猛抗議しプロ初の退場。徳武代理監督も球宴中に休養。島野二軍監督が「代行の代行」。借金30も最下位は逃れる。
1996 平成8年 星野仙一 72 58 0 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤ球場 残り3試合を全勝すれば同率プレーオフの可能性もあったが、ナゴヤ球場ラストゲームを飾れず。
1997 平成9年 星野仙一 59 76 1 6位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム ナゴヤドーム元年も打線が振るわず5年ぶりの最下位。
1998 平成10年 星野仙一 75 60 1 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 機動力野球を掲げ、韓国・李鍾範らを補強。シーズン終盤に首位横浜との直接対決に7連敗し4.0差の2位。投手陣は12球団トップのチーム防御率3.14を記録。
1999 平成11年 星野仙一 81 54 0 優勝 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム プロ野球タイ記録の開幕11連勝。6/16に単独首位に立ってからは一度もその座を譲らず、11年ぶり5度目のリーグ制覇。
2000 平成12年 星野仙一 70 65 0 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 5/6横浜戦で星野監督,立浪,大西が橘高球審への暴力行為により退場。一時的に首位に立つも長続きせず。巨人に9勝18敗と大きく負け越し2位。
2001 平成13年 星野仙一 62 74 4 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 低迷する打撃不振の責任を取り、水谷打撃コーチがシーズン途中で退団。8月下旬から上位に負け、下位に勝つ状態で順位を保つのが精一杯。9/25に星野監督が辞意表明。
2002 平成14年 山田久志 69 66 5 3位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 4チームによる混戦も6月に7連敗し戦線離脱。巨人戦9連敗のワースト記録を川上が無安打無失点試合で止める。
2003 平成15年 山田久志
佐々木恭介
73 66 1 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 1月に契約したミラーが来日せず獲得断念。ペナントは阪神が独走、9/9に山田監督が契約を1年残し電撃解任。11/26ナゴヤ球場隣接地に合宿所完成。
2004 平成16年 落合博満 79 56 3 優勝 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 「守り勝つ野球」を掲げ、リーグ最少記録の45失策で5年ぶり6度目のリーグ制覇。新人監督の優勝は14人目で球団初。4〜9月まで月間負け越しなしの安定ぶり。G.G賞にリーグ史上最多の6人が選出。選手会が球界再編問題で史上初のストライキ(9/18〜9/19)。
2005 平成17年 落合博満 79 66 1 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 5月の交流戦前までは5.0差で首位だったが、交流戦で15勝21敗と失速。その後首位との差を最大8.0差から0.5差まで詰めたが9月に入り再び失速。最後は10.0差の2位。
2006 平成18年 落合博満 87 54 5 優勝 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 交流戦で勝ち越し首位に立つと、8/12には球団史上最速のM40を点灯。2位阪神の猛追に遭い、最大9.0差が9/29には2.0差となったが10/10に東京Dで胴上げ達成。首位の座を6/13以降、一度も譲らず。
2007 平成19年 落合博満 78 64 2 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム シーズン終盤まで中巨阪の3球団が0.5差内の大激戦。9/24にM7を点灯させたが巨人が逆転優勝。今季より導入のプレーオフ(CS)で阪巨相手に負けなしの5連勝。日本シリーズを4勝1敗で制し53年ぶりの日本一。創設3年目のアジアシリーズも優勝。
2008 平成20年 落合博満 71 68 5 3位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 開幕当初は貯金を増やしたが5月以降には失速。5/9時点の貯金10が最多で9月には4年ぶりに借金2。主力に故障や不調による離脱が相次いだ。タイトル獲得者ゼロは9年ぶり。規定投球回到達者ゼロは球団史上初。
2009 平成21年 落合博満 81 62 1 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 前年のエースと4番を欠いて迎えたシーズン。若手の台頭と新外国人の活躍により補われたが、3連覇を遂げた巨人に12ゲーム差の2位。直接対決で8勝16敗と大きく負け越し、同一カード3連敗を4度も喫した。立浪が現役引退。
2010 平成22年 落合博満 79 62 3 優勝 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 7/1時点で首位巨人と8.0ゲーム差あったが9/10に奪首。その後も中阪巨の3つ巴が続いたが僅差で優勝。ホームゲームで53勝18敗1分と圧倒的な強さを見せた。チーム防御率3.29は12球団トップ。
2011 平成23年 落合博満 75 59 10 優勝 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 東日本大震災の影響で約1ヶ月開幕が遅れた。序盤は主力に離脱・不振が相次ぎ、8/3時点で首位ヤクルトに10ゲーム離された。戦力が整った8月後半から巻き返し、球団初の連覇を達成。チーム打率.228は12球団最低。
2012 平成24年 高木守道 75 53 16 2位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 中日OB主体の首脳陣に一新し、勝率は前年を上回ったが優勝した巨人とは10.5ゲーム差と完敗。「ファンと共に」のスローガンを掲げ人気回復を図ったが観客動員は前年比3.0%減だった。大島が球団史上47年ぶり3人目の3割30盗塁を達成。
2013 平成25年 高木守道 64 77 3 4位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 1年を通じ投打の柱となる主力に故障者が相次ぎ、1968年以来45年ぶり2回目のセ全球団負け越し。主催試合の観客動員数は18年ぶりの200万人割れ(ナゴヤドーム開場以来初)。
2014 平成26年 谷繁元信 67 73 4 4位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 7月までは上位争いに加わっていたが、8月にリーグタイ記録の20敗(7勝)を喫し離脱。2年連続のBクラスは28年ぶり。49歳山本昌が64年ぶりに史上最年長勝利記録を更新。
2015 平成27年 谷繁元信 62 77 4 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 68〜70年以来の3年連続Bクラス。投手陣が不安定で、逆転負けがリーグ最多の34試合。両リーグ最多となる94失策も一因。山本昌が引退試合で50歳登板。谷繁や和田ら多くのベテランが現役引退。
2016 平成28年 谷繁元信
森 繁和
58 82 3 6位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 選手兼任から専任となった谷繁監督が8月に休養、森監督代行体制となったが、世代交代が進まず、19年ぶりの最下位。4年連続Bクラスは球団史上初。
2017 平成29年 森 繁和 59 79 5 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 岩瀬が8/6に通算950試合登板の日本新記録を樹立。京田が98年川上以来19年ぶり、野手としては88年立浪以来29年ぶりの新人王。岩瀬はカムバック賞を受賞。
2018 平成30年 森 繁和 63 78 2 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム リリーフ陣が安定せず、逆転負けはリーグ最多の38度。チーム防御率4.36、救援防御率4.93はともに12球団ワースト。打撃陣は7名が規定打席に達し、ビシエドが首位打者と最多安打。SBより移籍加入した松坂が6勝を挙げカムバック賞。岩瀬,浅尾,荒木が現役引退
2019 平成31年
令和元年
与田 剛 68 73 2 5位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 得点(563)が失点(544)を上回ったが総得点はリーグ5位と得点力不足に苦しみ、1点差試合は19勝27敗と勝負弱かった。チーム打率はリーグ1位の.263。チーム守備率.992は04年中日(.991)のリーグ記録を更新。45失策はリーグ最少タイ。
2020 令和2年 与田 剛 60 55 5 3位 中日ドラゴンズ ナゴヤドーム 新型コロナ感染拡大により開幕は6/19。前半60試合は借金4と苦しんだが、大野雄が7/31の初勝利以降14試合で11勝(10完投,6完封)を挙げる活躍。また中継ぎ投手陣は6回終了時点でリードの場合37連勝と奮闘した。後半60試合は貯金9と巻き返し、8年ぶりのAクラス(セはCS不開催)
2021 令和3年
与田 剛 55 71 17 5位 中日ドラゴンズ バンテリンドームナゴヤ 投手陣はリーグ最少防御率3.22を誇ったが、打撃成績は軒並みリーグ最下位。総得点は405点で他の5球団に100点以上の差がついた。本塁打数は69本で両リーグ最少。得点圏打率も.221と低迷した。
2022 令和4年 立浪 和義 66 75 2 6位 中日ドラゴンズ バンテリンドームナゴヤ 1試合の平均得点は12球団唯一の2点台(2.9点)。完封負けは26試合で66年ぶりに球団ワースト記録を更新。本塁打数も12球団最少の62本。高卒3年目の岡林が最多安打を獲得
2023 令和5年 立浪 和義 56 82 5 6位 中日ドラゴンズ バンテリンドームナゴヤ 2年連続最下位は球団史上初。野手陣を若手主体に切り換えたが得点力不足は解消せず、1試合平均得点は2.72点(総得点390点)。チーム防御率はリーグ2位の3.08も2ケタ敗戦投手が1973年以来50年ぶりに4名(小笠原,高橋,柳,涌井)。4連勝がないのは1944年以来79年ぶり。現役ドラフト制度で加入した細川が24本塁打、78打点と躍動。
2024 令和6年 立浪 和義 60 75 8 6位 中日ドラゴンズ バンテリンドームナゴヤ 7/7時点で借金3の5位ながら首位に3.5ゲーム差の混セだったが、柳,涌井,大野ら先発投手陣の不調により急失速。得点機を活かせない戦略、拙攻が目立った。岡林,細川,村松,福永など若手の活躍もあったが、中田,大島,ビシエドなど新旧の選手らを融合できなかった。高橋宏が最優秀防御率,松山がHP,マルチネスがセーブで最多タイトル
2025 令和7年 井上 一樹 中日ドラゴンズ バンテリンドームナゴヤ 井上新監督が、3年連続最下位からの翌年優勝を目指す(達成すれば史上初)
(2リーグ成績) 4977勝4626敗341分
(通算成績) 5521勝5271敗384分

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【参考サイト】
プロ野球データ管理室 自由に利用できる百科事典「ウィキペディア」

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