西暦 | 年号 | 監督 | 成績 | 順位 | チーム名 | 本拠地 | 主な出来事 | |||
勝 | 敗 | 分 | ||||||||
1936 | 昭和11年 | 池田豊 | 3 | 6 | 0 | 春 | (5位) | 名古屋軍 | ----- | 1/15球団創設。正式名称は「大日本野球連盟名古屋協会」。親会社は新愛知新聞。7/7公式戦東京大会で優勝。 |
4 | 3 | 0 | 夏 | (4位) | ||||||
12 | 14 | 0 | 秋 | (4位) | ||||||
1937 | 昭和12年 | 桝嘉一 | 21 | 35 | 0 | 春 | 7位 | 名古屋軍 | ----- | イーグルスの選手大量引き抜きに遭う。球団代表に赤嶺昌志就任。 |
13 | 33 | 3 | 秋 | 8位 | ||||||
1938 | 昭和13年 | 根本行都 | 11 | 24 | 0 | 春 | 7位 | 名古屋軍 | ----- | 入団2年目,17歳の西沢道夫が台頭。 |
19 | 18 | 3 | 秋 | 4位 | ||||||
1939 | 昭和14年 | 根本行都 小西得郎 |
38 | 53 | 5 | 6位 | 名古屋軍 | ----- | ペナントレースが通年に。服部受弘入団。監督途中交代。 | |
1940 | 昭和15年 | 小西得郎 | 58 | 41 | 5 | 5位 | 名古屋軍 | ----- | 村松幸雄,西沢道夫がダブル20勝。石田政良が32盗塁で盗塁王。 | |
1941 | 昭和16年 | 小西得郎 本田親喜 |
37 | 47 | 0 | 6位 | 名古屋軍 | ----- | 投手の不振で低迷。服部本塁打王。 | |
1942 | 昭和17年 | 本田親喜 | 39 | 60 | 6 | 7位 | 名古屋軍 | ----- | 親会社の新愛知新聞社と名古屋新聞社が統合され中部日本新聞に。5/24大洋戦で世界最長の延長28回引き分け。投手は西沢完投、大洋も野口が完投。 | |
1943 | 昭和18年 | 三宅大輔 | 48 | 29 | 7 | 2位 | 名古屋軍 | ----- | 合併に伴う本社人件費の増大により球団への投入資金が大幅減少。中部日本新聞取締役の大島一郎が私費を出資。 | |
1944 | 昭和19年 | 三宅大輔 | 13 | 21 | 1 | 4位 | 産業 | ----- | 理研工業の傘下に。9/24に戦争のため公式戦中止。 | |
1945 | 昭和20年 | 戦争のため中止 | ||||||||
1946 | 昭和21年 | 竹内愛一 杉浦清 |
42 | 60 | 3 | 8位 | 中部日本 | ----- | リーグ戦再開。中部日本新聞社が経営に復帰。 | |
1947 | 昭和22年 | 杉浦清 | 67 | 50 | 2 | 2位 | 中部日本ドラゴンズ | ----- | ニックネーム導入にあたり、当時の中部日本新聞・杉山虎之助社長の干支が辰年だったことから“ドラゴンズ”に。 | |
1948 | 昭和23年 | 杉浦清 | 52 | 83 | 5 | 8位 | 中日ドラゴンズ | 後楽園球場 | 天知俊一技術顧問就任。赤嶺旋風で抜けた選手の穴を埋める主力を多数獲得。中日スタヂアム完成。12/2にオールスター東西対抗戦で初お披露目(ペナントは翌年から使用) | |
1949 | 昭和24年 | 天知俊一 | 66 | 68 | 3 | 5位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 杉下茂入団。西沢道夫が金星から移籍復帰。 | |
(1リーグ成績) | 543勝645敗43分 |
西暦 | 年号 | 監督 | 成績 | 順位 | チーム名 | 本拠地 | 主な出来事 | ||
勝 | 敗 | 分 | |||||||
1950 | 昭和25年 | 天知俊一 | 89 | 44 | 4 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | リーグ分裂、2リーグ制となりセリーグに加盟。 |
1951 | 昭和26年 | 天知俊一 | 62 | 48 | 3 | 2位 | 名古屋ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 名古屋鉄道が経営参加。8/19巨人戦で球場が全焼。死者3名,負傷者約300名。 |
1952 | 昭和27年 | 坪内道典 | 75 | 43 | 2 | 3位 | 名古屋ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 焼失した球場が鉄筋コンクリート,収容人員30000人で新築される。 |
1953 | 昭和28年 | 坪内道典 | 70 | 57 | 3 | 3位 | 名古屋ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 中日スタヂアムで初ナイター(6/25広島戦)。名古屋鉄道がシーズン終了後、経営から撤退。 |
1954 | 昭和29年 | 天知俊一 | 86 | 40 | 4 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | リーグ初制覇。優勝決定は移動日の10/19。日本シリーズで西鉄ライオンズを4勝3敗で下し、日本一に。 |
1955 | 昭和30年 | 野口明 | 77 | 52 | 1 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 新主将に西沢道夫、二軍監督には近藤貞雄が就任。球宴直後の7/28巨人戦〜8/18大洋戦に15連勝を記録し首位に3.0差まで詰め寄るも、最後は15.0差の2位。 |
1956 | 昭和31年 | 野口明 | 74 | 56 | 0 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 大洋戦26連勝(前年6/28〜4/26)。大矢根,中山がともに20勝も、投打の歯車がかみ合わず3位。ウエスタンリーグで中日が初優勝。 |
1957 | 昭和32年 | 天知俊一 | 70 | 57 | 3 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 最大5.5差で首位を走り、前半を首位で折り返したが8月末に陥落。 |
1958 | 昭和33年 | 天知俊一 | 66 | 59 | 5 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 西沢道夫,服部受弘,杉下茂が現役引退。服部(10),西沢(15)の背番号は永久欠番に。 |
1959 | 昭和34年 | 杉下茂 | 64 | 61 | 5 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 杉下が33歳で監督就任。9/25夜に上陸した伊勢湾台風の被害で、合宿所が壊滅。試合も6試合が他球場に振り替えられる。 |
1960 | 昭和35年 | 杉下茂 | 63 | 67 | 0 | 5位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 前半戦は首位折り返しも、大洋に1勝9敗と負け越すなど後半戦で失速。2リーグ分裂後、初のBクラスに。 |
1961 | 昭和36年 | 濃人渉 | 72 | 56 | 2 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 新人の権藤博がフル稼働。新人王,沢村賞,ベストナイン,最多勝(35勝),最多奪三振(310)など。終盤まで巨人と優勝争い。勝利数は1勝上回ったが勝率が7厘下回り2位。 |
1962 | 昭和37年 | 濃人貴実 | 70 | 60 | 3 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 後半戦に36勝19敗の猛追も、前半戦の不振が響き、3位止まり。 |
1963 | 昭和38年 | 杉浦清 | 80 | 57 | 3 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 球宴時に首位巨人と10.0差。後半猛追し、全チーム勝ち越しも2.5差の2位。 |
1964 | 昭和39年 | 杉浦清 西沢道夫 |
57 | 83 | 0 | 6位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 2リーグ分裂後、初の最下位。杉浦監督が6/7に休養、西沢コーチが代理監督に就任。 |
1965 | 昭和40年 | 西沢道夫 | 77 | 59 | 4 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 前年首位打者の江藤慎一が開幕直後に戦線離脱、入団以来の809連続試合出場記録が途絶える。復帰後、2年連続の首位打者を獲得。小川健太郎,水谷寿伸,板東英二,山中巽の4人が2ケタ勝利。8月に14連勝も2位。 |
1966 | 昭和41年 | 西沢道夫 | 76 | 54 | 2 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 26回総当りの130試合制に。優勝した巨人に6勝20敗と完敗。13.0差の2位。 |
1967 | 昭和42年 | 西沢道夫 | 72 | 58 | 4 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 5/15〜5/30に西沢監督が胃炎で休養(監督代行は近藤貞雄コーチ:8勝2敗)。 |
1968 | 昭和43年 | 杉下茂 本多逸郎 |
50 | 80 | 4 | 6位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 年明けに西沢監督が十二指腸潰瘍悪化のため監督辞任。成績低迷で6/25には杉下監督が休養。球団創設以来初の全球団負け越し。 |
1969 | 昭和44年 | 水原茂 | 59 | 65 | 6 | 4位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 一時は最下位も8月末から1分けをはさみ10連勝。小川健太郎が6/15の巨人戦・王との対戦で「背面投げ」。8/31,10/19にも奇策を披露。 |
1970 | 昭和45年 | 水原茂 | 55 | 70 | 5 | 5位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 「黒い霧事件」でエースの小川健太郎が球界追放。 |
1971 | 昭和46年 | 水原茂 | 65 | 60 | 5 | 2位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 星野,渋谷,稲葉,松本幸,渡部,谷沢,大島ら若手の台頭で4年ぶりにAクラス入り。 |
1972 | 昭和47年 | 与那嶺要 | 67 | 59 | 4 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 8/24巨人戦で爆弾騒動(いたずら電話)。観客や選手が一時的に避難し、25分間試合中断。 |
1973 | 昭和48年 | 与那嶺要 | 64 | 61 | 5 | 3位 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | シーズン序盤から混戦模様。7月に一時的に抜け出すも8月に大失速。5月に中日スタヂアムが関連事業の経営不振から倒産。 |
1974 | 昭和49年 | 与那嶺要 | 70 | 49 | 11 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | 中日スタヂアム | 8月後半から大攻勢を見せ首位に躍り出る。巨人のV10を阻み、20年ぶり2度目のリーグ制覇。2位巨人とは勝率1厘差。 |
1975 | 昭和50年 | 与那嶺要 | 69 | 53 | 8 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 球団初の海外キャンプを米フロリダ・ブラデントン球場で実施。シーズン中盤に2度首位に立ったが赤ヘル旋風を巻き起こした広島に抜き去られ、4.5差の2位に。 |
1976 | 昭和51年 | 与那嶺要 | 54 | 66 | 10 | 4位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 星野仙一,高木守道ら主軸の離脱で6年ぶりのBクラス。人工芝になった後楽園で0勝12敗1分。 |
1977 | 昭和52年 | 与那嶺要 | 64 | 61 | 5 | 3位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 下位には勝ち越しも上位に負け越し3位。現役メジャーリーガー・デービスが入団、8/2広島戦で左手首を骨折するまで25本塁打の活躍。 |
1978 | 昭和53年 | 中利夫 | 53 | 71 | 6 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 10年ぶりの生え抜き監督も、ケガ人続出で下位低迷。 |
1979 | 昭和54年 | 中利夫 | 59 | 57 | 14 | 3位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 6年ぶりの前半戦首位折り返しも8月に失速。10月に8連勝し、Aクラス確保。 |
1980 | 昭和55年 | 中利夫 | 45 | 76 | 9 | 6位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 開幕戦6連敗スタート。球団史上最低の勝率.372で12年ぶりの最下位。高木守道が現役引退。 |
1981 | 昭和56年 | 近藤貞雄 | 58 | 65 | 7 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 4月に15勝4敗の好スタートもその後失速。8/26巨人戦で宇野勝が迷プレーの「ヘディング」。 |
1982 | 昭和57年 | 近藤貞雄 | 64 | 47 | 19 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 8年ぶり3度目のリーグ制覇を最終戦130試合目で決める。2位巨人とは勝率8厘差。勝利数が試合数の半数(75)を満たさず優勝したのはリーグ初。 |
1983 | 昭和58年 | 近藤貞雄 | 54 | 69 | 7 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 投手陣崩壊。巨人優勝決定の10/11にシーズン中にも関わらず、来季監督が決定。 |
1984 | 昭和59年 | 山内一弘 | 73 | 49 | 8 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 6/29大洋戦で毎回得点試合(22-7)。本塁打王宇野を筆頭に、谷沢,モッカ,大島が本塁打30本越え。宇野が月間15本塁打のタイ記録(8月)。 |
1985 | 昭和60年 | 山内一弘 | 56 | 61 | 13 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | キャンプ直前に人気絶大だった田尾安志が西武へトレードされる。小松辰雄が孤軍奮闘。夏場前には下位低迷。 |
1986 | 昭和61年 | 山内一弘 高木守道 |
54 | 67 | 9 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 7/5に山内監督休養、高木コーチが代理監督に就任。オフに星野仙一就任、世紀のトレードで落合獲得。 |
1987 | 昭和62年 | 星野仙一 | 68 | 51 | 11 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 5月に14勝4敗3分と大きく勝ち越し首位に立つも、最終的には巨人を追い詰めることができず2位。8/9巨人戦で高卒新人の近藤真一がプロ初登板でノーヒットノーランを達成(史上初の快挙)。 |
1988 | 昭和63年 | 星野仙一 | 79 | 46 | 5 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 4/30には首位広島に最大8.0差の最下位も逆転優勝し6年ぶり4度目のリーグ制覇。2位巨人に12.0差の大差。 |
1989 | 平成元年 | 星野仙一 | 68 | 59 | 3 | 3位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 故障者続出も後半戦持ち直し何とか3位。巨人から移籍した西本がチーム15年ぶりの20勝。8/12巨人戦で9回一死まで無安打無得点も最後は落合が逆転サヨナラ3ラン。 |
1990 | 平成2年 | 星野仙一 | 62 | 68 | 1 | 4位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 新人の与田剛が150km台の速球を武器に活躍。落合博満が前半終了時は三冠も、後半戦で打率を下げ二冠に。 |
1991 | 平成3年 | 星野仙一 | 71 | 59 | 1 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 最大7.5差の首位に立っていたが9月に入って3連敗-4連敗-5連敗と大失速。9/10〜12広島との天王山で3連敗し首位から陥落。9/23に星野監督が辞意表明。 |
1992 | 平成4年 | 高木守道 | 60 | 70 | 0 | 6位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 12年ぶりの最下位。 |
1993 | 平成5年 | 高木守道 | 73 | 57 | 2 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 前半戦には最下位もあったが後半戦に追い上げ、8月末には一時的に首位に。終盤に主軸が離脱、逃げ切られる。オフに落合がFAで巨人に移籍。 |
1994 | 平成6年 | 高木守道 | 69 | 61 | 0 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 7/16時点で首位巨人に10.5差をつけられていたが、69勝60敗で並び、10/8に史上初の同勝率同士の優勝決定戦。3-6で敗戦も、投打の個人タイトルは総ナメに。 |
1995 | 平成7年 | 高木守道 徳武定祐 島野育夫 |
50 | 80 | 0 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 6/2の試合前に高木監督が辞意表明。その試合で審判に猛抗議しプロ初の退場。徳武代理監督も球宴中に休養。島野二軍監督が「代行の代行」。借金30も最下位は逃れる。 |
1996 | 平成8年 | 星野仙一 | 72 | 58 | 0 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤ球場 | 残り3試合を全勝すれば同率プレーオフの可能性もあったが、ナゴヤ球場ラストゲームを飾れず。 |
1997 | 平成9年 | 星野仙一 | 59 | 76 | 1 | 6位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | ナゴヤドーム元年も打線が振るわず5年ぶりの最下位。 |
1998 | 平成10年 | 星野仙一 | 75 | 60 | 1 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 機動力野球を掲げ、韓国・李鍾範らを補強。シーズン終盤に首位横浜との直接対決に7連敗し4.0差の2位。投手陣は12球団トップのチーム防御率3.14を記録。 |
1999 | 平成11年 | 星野仙一 | 81 | 54 | 0 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | プロ野球タイ記録の開幕11連勝。6/16に単独首位に立ってからは一度もその座を譲らず、11年ぶり5度目のリーグ制覇。 |
2000 | 平成12年 | 星野仙一 | 70 | 65 | 0 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 5/6横浜戦で星野監督,立浪,大西が橘高球審への暴力行為により退場。一時的に首位に立つも長続きせず。巨人に9勝18敗と大きく負け越し2位。 |
2001 | 平成13年 | 星野仙一 | 62 | 74 | 4 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 低迷する打撃不振の責任を取り、水谷打撃コーチがシーズン途中で退団。8月下旬から上位に負け、下位に勝つ状態で順位を保つのが精一杯。9/25に星野監督が辞意表明。 |
2002 | 平成14年 | 山田久志 | 69 | 66 | 5 | 3位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 4チームによる混戦も6月に7連敗し戦線離脱。巨人戦9連敗のワースト記録を川上が無安打無失点試合で止める。 |
2003 | 平成15年 | 山田久志 佐々木恭介 |
73 | 66 | 1 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 1月に契約したミラーが来日せず獲得断念。ペナントは阪神が独走、9/9に山田監督が契約を1年残し電撃解任。11/26ナゴヤ球場隣接地に合宿所完成。 |
2004 | 平成16年 | 落合博満 | 79 | 56 | 3 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 「守り勝つ野球」を掲げ、リーグ最少記録の45失策で5年ぶり6度目のリーグ制覇。新人監督の優勝は14人目で球団初。4〜9月まで月間負け越しなしの安定ぶり。G.G賞にリーグ史上最多の6人が選出。選手会が球界再編問題で史上初のストライキ(9/18〜9/19)。 |
2005 | 平成17年 | 落合博満 | 79 | 66 | 1 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 5月の交流戦前までは5.0差で首位だったが、交流戦で15勝21敗と失速。その後首位との差を最大8.0差から0.5差まで詰めたが9月に入り再び失速。最後は10.0差の2位。 |
2006 | 平成18年 | 落合博満 | 87 | 54 | 5 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 交流戦で勝ち越し首位に立つと、8/12には球団史上最速のM40を点灯。2位阪神の猛追に遭い、最大9.0差が9/29には2.0差となったが10/10に東京Dで胴上げ達成。首位の座を6/13以降、一度も譲らず。 |
2007 | 平成19年 | 落合博満 | 78 | 64 | 2 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | シーズン終盤まで中巨阪の3球団が0.5差内の大激戦。9/24にM7を点灯させたが巨人が逆転優勝。今季より導入のプレーオフ(CS)で阪巨相手に負けなしの5連勝。日本シリーズを4勝1敗で制し53年ぶりの日本一。創設3年目のアジアシリーズも優勝。 |
2008 | 平成20年 | 落合博満 | 71 | 68 | 5 | 3位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 開幕当初は貯金を増やしたが5月以降には失速。5/9時点の貯金10が最多で9月には4年ぶりに借金2。主力に故障や不調による離脱が相次いだ。タイトル獲得者ゼロは9年ぶり。規定投球回到達者ゼロは球団史上初。 |
2009 | 平成21年 | 落合博満 | 81 | 62 | 1 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 前年のエースと4番を欠いて迎えたシーズン。若手の台頭と新外国人の活躍により補われたが、3連覇を遂げた巨人に12ゲーム差の2位。直接対決で8勝16敗と大きく負け越し、同一カード3連敗を4度も喫した。立浪が現役引退。 |
2010 | 平成22年 | 落合博満 | 79 | 62 | 3 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 7/1時点で首位巨人と8.0ゲーム差あったが9/10に奪首。その後も中阪巨の3つ巴が続いたが僅差で優勝。ホームゲームで53勝18敗1分と圧倒的な強さを見せた。チーム防御率3.29は12球団トップ。 |
2011 | 平成23年 | 落合博満 | 75 | 59 | 10 | 優勝 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 東日本大震災の影響で約1ヶ月開幕が遅れた。序盤は主力に離脱・不振が相次ぎ、8/3時点で首位ヤクルトに10ゲーム離された。戦力が整った8月後半から巻き返し、球団初の連覇を達成。チーム打率.228は12球団最低。 |
2012 | 平成24年 | 高木守道 | 75 | 53 | 16 | 2位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 中日OB主体の首脳陣に一新し、勝率は前年を上回ったが優勝した巨人とは10.5ゲーム差と完敗。「ファンと共に」のスローガンを掲げ人気回復を図ったが観客動員は前年比3.0%減だった。大島が球団史上47年ぶり3人目の3割30盗塁を達成。 |
2013 | 平成25年 | 高木守道 | 64 | 77 | 3 | 4位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 1年を通じ投打の柱となる主力に故障者が相次ぎ、1968年以来45年ぶり2回目のセ全球団負け越し。主催試合の観客動員数は18年ぶりの200万人割れ(ナゴヤドーム開場以来初)。 |
2014 | 平成26年 | 谷繁元信 | 67 | 73 | 4 | 4位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 7月までは上位争いに加わっていたが、8月にリーグタイ記録の20敗(7勝)を喫し離脱。2年連続のBクラスは28年ぶり。49歳山本昌が64年ぶりに史上最年長勝利記録を更新。 |
2015 | 平成27年 | 谷繁元信 | 62 | 77 | 4 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 68〜70年以来の3年連続Bクラス。投手陣が不安定で、逆転負けがリーグ最多の34試合。両リーグ最多となる94失策も一因。山本昌が引退試合で50歳登板。谷繁や和田ら多くのベテランが現役引退。 |
2016 | 平成28年 | 谷繁元信 森 繁和 |
58 | 82 | 3 | 6位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 選手兼任から専任となった谷繁監督が8月に休養、森監督代行体制となったが、世代交代が進まず、19年ぶりの最下位。4年連続Bクラスは球団史上初。 |
2017 | 平成29年 | 森 繁和 | 59 | 79 | 5 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 岩瀬が8/6に通算950試合登板の日本新記録を樹立。京田が98年川上以来19年ぶり、野手としては88年立浪以来29年ぶりの新人王。岩瀬はカムバック賞を受賞。 |
2018 | 平成30年 | 森 繁和 | 63 | 78 | 2 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | リリーフ陣が安定せず、逆転負けはリーグ最多の38度。チーム防御率4.36、救援防御率4.93はともに12球団ワースト。打撃陣は7名が規定打席に達し、ビシエドが首位打者と最多安打。SBより移籍加入した松坂が6勝を挙げカムバック賞。岩瀬,浅尾,荒木が現役引退 |
2019 | 平成31年 令和元年 |
与田 剛 | 68 | 73 | 2 | 5位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 得点(563)が失点(544)を上回ったが総得点はリーグ5位と得点力不足に苦しみ、1点差試合は19勝27敗と勝負弱かった。チーム打率はリーグ1位の.263。チーム守備率.992は04年中日(.991)のリーグ記録を更新。45失策はリーグ最少タイ。 |
2020 | 令和2年 | 与田 剛 | 60 | 55 | 5 | 3位 | 中日ドラゴンズ | ナゴヤドーム | 新型コロナ感染拡大により開幕は6/19。前半60試合は借金4と苦しんだが、大野雄が7/31の初勝利以降14試合で11勝(10完投,6完封)を挙げる活躍。また中継ぎ投手陣は6回終了時点でリードの場合37連勝と奮闘した。後半60試合は貯金9と巻き返し、8年ぶりのAクラス(セはCS不開催) |
2021 | 令和3年 |
与田 剛 | 55 | 71 | 17 | 5位 | 中日ドラゴンズ | バンテリンドームナゴヤ | 投手陣はリーグ最少防御率3.22を誇ったが、打撃成績は軒並みリーグ最下位。総得点は405点で他の5球団に100点以上の差がついた。本塁打数は69本で両リーグ最少。得点圏打率も.221と低迷した。 |
2022 | 令和4年 | 立浪 和義 | 66 | 75 | 2 | 6位 | 中日ドラゴンズ | バンテリンドームナゴヤ | 1試合の平均得点は12球団唯一の2点台(2.9点)。完封負けは26試合で66年ぶりに球団ワースト記録を更新。本塁打数も12球団最少の62本。高卒3年目の岡林が最多安打を獲得 |
2023 | 令和5年 | 立浪 和義 | 56 | 82 | 5 | 6位 | 中日ドラゴンズ | バンテリンドームナゴヤ | 2年連続最下位は球団史上初。野手陣を若手主体に切り換えたが得点力不足は解消せず、1試合平均得点は2.72点(総得点390点)。チーム防御率はリーグ2位の3.08も2ケタ敗戦投手が1973年以来50年ぶりに4名(小笠原,高橋,柳,涌井)。4連勝がないのは1944年以来79年ぶり。現役ドラフト制度で加入した細川が24本塁打、78打点と躍動。 |
2024 | 令和6年 | 立浪 和義 | 60 | 75 | 8 | 6位 | 中日ドラゴンズ | バンテリンドームナゴヤ | 7/7時点で借金3の5位ながら首位に3.5ゲーム差の混セだったが、柳,涌井,大野ら先発投手陣の不調により急失速。得点機を活かせない戦略、拙攻が目立った。岡林,細川,村松,福永など若手の活躍もあったが、中田,大島,ビシエドなど新旧の選手らを融合できなかった。高橋宏が最優秀防御率,松山がHP,マルチネスがセーブで最多タイトル |
2025 | 令和7年 | 井上 一樹 | ? | ? | ? | ? | 中日ドラゴンズ | バンテリンドームナゴヤ | 井上新監督が、3年連続最下位からの翌年優勝を目指す(達成すれば史上初) |
(2リーグ成績) | 4977勝4626敗341分 | ||||||||
(通算成績) | 5521勝5271敗384分 |
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