言葉にはしないけど。

少し寒い日曜日。

日曜の昼下がり。
青空が広がっていた午前中とはうってかわり、どんよりとした雲がひろがっていた。
薄手のカーディガンを羽織ってでてきて正解だった。
太陽が雲に隠されてしまうと、ぐっと体感温度が下がる。
ベランダの洗濯物、早く片付けなくちゃ。
もう一回洗濯しようと思っていたのに、無理かな。
誰も聞いていないのをいいことに、舌打ちする。
それは小気味よく響いて、思わずくすっと笑ってしまった。
誰かが聞いていたら、はしたないって言われるかもしれない。

金曜の夕方に同じように空を見上げた時には、綺麗な夕日に溜め息しか零れなかったというのに、たった2日、されど2日の休み。そのお陰で心がすこーしだけ軽くなっていた。
こんなどんよりとした曇り空でも、今夜はくうの好きなメニューにしようかな、なんて思えるのだから。

おでんに日本酒、じゃあ、まだ早いかな?
でも、今だって肌寒く感じるんだもの。夜になったら、もっとぐっと冷え込むだろうし、いいよね?
鶏ささ身にしそとチーズを巻いて焼いたやつと、ほうれん草の胡麻和え、あとはきんぴらごぼうでいいかな?

くうは居酒屋メニューが好きだから、いろんなものをちょこちょこ出すと喜んでくれる。
だけどそれって一番面倒だったりする。

昨日は疲れが抜けきらなかったから、買い物にでかけるのも億劫で、しかも「野住たちと飲んでくる」と言うくうのありがたい言葉に、私は主婦業を放棄して、夕食は金曜の仕事帰りにコンビニで買ったサラダとおにぎりで済ませてた。
賞味期限、危なかったんだけれど・・・ね。
今のところお腹が痛くなることもないから、大丈夫だったんだろう。
図書館で借りていた本を返却しなくちゃいけなかったから、くうが帰るのを待つつもりでベッドの上で本を読んでいた。
・・・けれど、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。気がつけばベッド脇のライトは消されていた。




* * *




背中・・・あったかい。

私は当たり前になっている背中の温もりに視線を向ける。後ろから抱きこむように私に腕を伸ばし、毛布に潜り込んですうすうと寝息をたてるくうに、ほっとした。
緩やかに捕われた腕の中でそっと体を捩り、くうの癖のある柔らかな髪を一つまみ指に絡めた。
いつ帰ってきたんだろう?
ベッドサイドの携帯に手を伸ばす。
5時30分・・・
私は時間を確認すると、再び眠りを楽しもうと枕を引き寄せた。
起きだすにはまだ早い。
日曜くらいゆっくりしたい。
くうが無意識に、身を捩ってできた隙間を埋めるべく、再び私を抱え込もうと腕を伸ばす。
「そら」
名前を呼ばれ、ぎゅうっと抱きしめられると、少しだけ冷たい朝の空気に触れた肌が、人肌が生むぬくぬくとした心地よさに包まれる。
それは例えようのない心地よさで、私はあっという間に、たゆうような眠りへと引きずり込まれた。



くう――松下空也と出会ったのは、大学のゼミで。
一つ年上。
ちょっと冷たさを感じさせる整った顔立ち。
でもそれは、くうの外側に居た私がそう感じていただけのこと。
だって、くうの周りにはいつだって大勢の人がいて、その中では笑顔を見せていたんだもの。

"言いたいことはズバズバ言うんだ"と、人の好い教授が苦笑いしてた。
"案外、面倒見はいいんだけれどね"とも。

同じゼミと言ってもほとんど接点もなく過ごした。
接点など、見つけられるわけがない。

当時の私は、これ以上厚くなると店で一番太いフレームのものでもレンズが収まらないかもしれないですよ、とメガネ屋さんに言われるくらい分厚い眼鏡をかけていた。
髪は見苦しくない程度に切りそろえているだけで、お化粧なんてしたことがなくて。
その所為、ということではないけれど、生まれてこの方、男の子に声をかけられたことなんてなくて。
昔から本が好きで、特に時間を持て余すということもなかったし、コンパやサークルに興味もなかった。
だからくうのことなんて、それこそ"雲の上の人"という感じで、時々見かける"カッコイイ先輩"としか思っていなかった。

転機は急に訪れた。
翌年、突然みんなに押しつけられた新歓コンパの幹事。
コンパとは何か、くらいは知っていたけれど、自分の新歓コンパですら欠席していた私にとって、本当に大袈裟でなく未知の世界で。
まして、幹事なんてもの、それまでやったこともなければ、みんなが喜ぶようなお店も何も知らない私は途方に暮れてた。
すでに一週間後という期日だけは決まっていたのだから。

「どうした?」

大学に仲の良い友達がいるでもなく、困り切っていた私に声をかけてくれたのが、くうだった。

「深刻な顔して、何悩んでるの?」

あの時の安堵感は、合格発表で自分の番号を見つけた時より大きかった。
そう言うと、未だにくうに笑われるけど。

くうのお陰でお店を抑え、余興好きなくうの友達たちが場を盛り上げてくれると約束してくれた。

その後は、私は名ばかりの幹事でほとんどくうが仕切ってくれて。
話す回数が増えると、それまで怖いイメージしかなかった彼の目元が、本当はとっても優しいのだと気がついた。ふとした瞬間、目元を不意に細めて、私を穏やかに見つめる。
とても柔らかで優しくて・・・。
だけど、目が合うと不貞腐れたようにそっぽを向くの。
私は自分の顔が、鑑賞に耐えられるような造形をしていないってわかってるから、恥ずかしくなって俯くしかない。
そうすると、くすくすと笑う声が響く。
「伊藤って、面白いのな」って。

"カッコイイけど怖い先輩"は、いつしか・・・"ちょっと気になる、でもひと癖ありそうな人"にかわっていた。

新歓コンパの当日、幹事席―― 一番端っこの廊下側にくうと向かい合って座っていた私は、その日も顔をあげることができなかった。
ドキドキして。

あちこちから声がかかるのに「今日は幹事だから!」なんて座り続けるくうの前で、私はちょびちょびとウーロン茶に口をつけながら俯いていた。
幹事に指名されて、わたわたとパニくっていた私に「どうした?」って声をかけてくれた瞬間から、くうを意識してた。
意識せずにはいられない。

誰も、私のことなんか気にも留めなかったのに。
私という置物が、本当は生きてるんだって気づいてくれた。

オモシロイ、と、それは褒め言葉じゃないんだってわかっていても、なんだか幸せな気持ちにしてくれた。
くうに、感謝してた。


「ソラ」

不意に名前を呼ばれて、私は驚いて顔をあげた。
「伊藤、って、名前、空(そら)っていうの?」
コンパの打ち合わせで顔を合わせて居ても、わざわざ名乗る機会もなし、ずっと"伊藤"って呼ばれていたから。
「ほら、ここ。名前書いてある。」
予約する時に書いた私の名前。
伝票に"伊藤 空"と、あたりまえだけれどそのまま書かれていて、彼はそれを見てくすくすと笑っている。
「え? え?」
「フルネームって・・・! 伊藤らしい」
「え、フルネームじゃないんですか?」
”ご予約名を”と言われて、とっさに名乗った。
あの時、一瞬時間が止まったように音が消えたのは、もしかしなくても私が何かしでかしてしまったのだろう。
慌てる私に、笑いを押し殺しながら、彼は大きな手を伸ばした。
え? と思う私の眼鏡にその指先が触れる。

「ああやっぱり。伊藤ってこんな瓶底眼鏡で隠してんだよな。」

急にぼやけた視界に、不安になる。
何にも隠してたものなんてない。
あるのは、みすぼらしい私の顔だけ。

じわっと込み上げてくる涙に、返してください、と呟いて手を伸ばす。
私の手が眼鏡に届く前に、眼鏡はそっと定位置に戻された。

「そんな顔すんなよ・・・」
クリアになった視界に、ちょっとバツが悪そうな、照れたような表情を浮かべたくうが居て、私は心臓が射とめられたように息を止めた。

「俺、そらなりって書いて空也(くうや)って言うんだ。・・・俺たちって空繋がりだったんだな。」

そう言って、くうはとても可愛らしい笑顔を見せた。



まさか。

その人と結婚して。
私は"伊藤"から"松下"に姓が変わった。
"ゼミの先輩"だったくうが"伴侶""夫"になるなんて、あの日の私は夢にも思っていなかった。



ピーピーピーと目覚ましでも電話でもない機械音で目を覚ました。
再び携帯を持ち上げて時間を確認する。すでに9時を過ぎていた。
隣にあったはずの温もりはすでになく、そっと手を伸ばすとそこは冷たくなっていた。
この時間にくうが居ないということは、今日は休日出勤だったんだろう。
私は起き上ったベッドの上で何気なく毛布を抱きしめた。
私のとは違う、くうが使っているシャンプーの匂いが微かに残っていた。
抱きしめた毛布がくうの抜け殻みたいに思えて、説明できない切なさと寂しさが込み上げてきた。
「・・・・・何やってるんだろ」
苦笑して呟き、毛布から手を離した。

結婚してもうすぐ7年。
新婚なんて呼べないマンネリ夫婦。
それでも、私がくうを好きな気持ちは少しも変わらない。

「行動は伴わないんだけどね」
立ち上がって、すっかり新鮮さなんてものは残っていない寝室をぐるりと見回した。

どんなに好きだって思っても、それを行動で示していないから意味はない。
くうを前にすると、未だに少し緊張する。
じっと見つめられると、どうしていいかわからなくなる。
馬鹿みたいにドキドキして、顔が赤くなってしまうから、ついくうの視線を逃れるように背中を向けてしまう。
くうに出会うまで、誰かと付き合ったことがないから、私は感情を表に出す方法がよくわからない。
"すき!"
"大好き!"
"愛してる!"
新婚時代でさえ、そう言って可愛く抱きつくこともできなかった。
恋人としても、妻としても、世間一般からしたらとても合格点はもらえない。
今日、くうが休日出勤することすら知らなかったし、その為に起きて朝食の支度をすることも、見送ることすらしていない。
前日の行動も然り。

『共働きなんだから、空が休みの日くらいゆっくりしてて』

くうの提案に、最初の頃こそ「それじゃああんまりだ!」とはりきっていたけれど、今ではすっかり甘えてしまっている。
本当にダメな妻だ。
それでも『他人行儀じゃなくなっただけ嬉しい!』と、くうは抱きしめてくれる。
くうは体全部、心全部で私を大切にしてくれてる。

寝室のドアを開け、すでにカーテンの開けられたリビングで伸びをして、バスルームに向かった。
バスルームから響いていた先ほどの電子音。
洗濯が終わったことを告げていたのだ。
私は終了予約を入れていないから、くうが洗濯機を回したんだろう。
乾燥機能付きだけれど、ほとんど使ったことはない。
特にいいお天気の日は、ベランダで洗濯を干すのが好きだったりする。
「うわー寒い!」
窓を勢いよく開けて、思わず身震いした。
風が思っていたよりも冷たくて、ぬくぬくとした陽だまりの中から出てしまったことを少し後悔した。

駅から徒歩8分。
築5年の5階建てマンションの5階。
そこに私たちは2LDKの1室を買った。
越してきて5年。ローンはまだあと25年もあるのに、新築だったマンションはすでに補修が検討されている。
それでも私たちはここが気に入っている。
眼下には公園、その向こうには大きな通りがあって、そこからは閑静な住宅街が続いていた。
近くには図書館がある。
それが何よりもここを気に入っている理由だったりする。

読み終えた本を返して、予約していた本が借りれるかどうかネットで確認しよう。
そう思いながら室内に戻り、ダイニングテーブルに何か置いてあることに気がついた。
近づいて、ラップに包まれたお皿の上のメモを手にする。
そこには見慣れた几帳面な文字。


今日は仕事。伝えてなかった、ごめん。
久々に作ってみた。
愛しい奥さんの遅い朝食にどうぞ


ラップの下には近所のパン屋さんで買ってきたパンにレタスとトマト、そしてベーコンとチーズが挟まれたサンドイッチが用意されていた。
眠っている私の分迄サンドイッチを作り、くうは仕事にでかけたの?
Yシャツの袖をまくり、トマトをスライスするくうを思い浮かべて、私は思わず微笑んでしまう。
「さぼってばっかりで、ごめんね? いたただくね、くう。」
言いながら、ちょっと躊躇してメモにキスした。
真っ赤になってるってわかるけど、誰にも見られていないしいいよね?
私は椅子にきちんと座って、お皿を包んでいるラップを外した。




* * *




日曜の私の役割のひとつ、近所のスーパーに買い物に出掛け、一週間分の日持ちする食材と切れかけていた洗剤を買い込んだ。
ぎゅうぎゅうに詰め込んだスーパーのレジ袋と、図書館で無事に借りることができた小説は、あっという間に右手を痺れさせた。食い込んでしまうビニール袋の持ち手を右手から左手に持ち替えて、大根と里芋が敗因だ、と袋の中を睨んでしまった。

公園では小さな子どもを連れた同じ年頃だと思われる夫婦が、一緒にブランコをしたりベビーカーを押したりしながら、とても穏やかで幸せなそうな笑顔を見せている。
都会の真ん中に人工的に作られた緑の空間ではあるけれど、そこに笑顔で集う人々が居るだけで、どこかほっとする癒しの空間となっているから不思議だ。
幸せに満ち溢れた声を聞きながら、微かに目を細める。
胸に小さな痛みが走るのを無視して、私は歩きだした。

貴重な日曜も終わる。

リビングのドアを開けた。
くうが帰ってくるまでに、温かな夕食を作ろう。
そして笑顔で「おかえりなさい」と迎えよう。
そんな些細な計画を立て、私は腕まくりした。



2008,11,7up

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