言葉にはしないけど。

1. First contact ― くう視点



彼女を見かけたのは、入学式から間もなく、図書室の片隅でだった。


心地よい春風が吹き爽やかな青空が広がるキャンパスは、どこもかしこも1回生達の賑やかな声で溢れていた。
それまで「受験」という言葉に縛られてきたであろう彼らは、ようやくその戒めから解き放たれ、好奇心で満ちた瞳でキャンパス内を探索している。
学食やカフェテリア、特に中庭はサークル勧誘の2回生や3回生もごちゃまぜになっていて、弾けるような声は一際大きくなっていた。その喧騒に巻き込まれないように少し離れた場所をセレクトしていたつもりだった。
・・・が、こちらをちらちらと見ている女の子の集団がににじり寄ってきたことに気が付き、ベンチで葉月を待っていた俺は苦笑して立ち上がった。
ジーンズのポケットに捩じこんでいた携帯を取り出して開く。
教授に相談したいことがあるから待って居て、とのメールを受信した後、連絡はない。
そのメールをもらって、もうすぐ1時間になろうとしていた。
最初は野住たちも一緒に居たけれど、サークル勧誘の賑やかな声に誘われるように、その輪の中に入って行った。
俺はメール作成画面を開き、葉月に『図書室に居る』とだけ打って送信した。
再びバックポケットに携帯を捩じこんで、賑やかな一団に背を向けた。
多分、そこなら、静かに待てるだろうと思えた。

楠本 葉月とは高校の頃からの付き合いだから、今年で3年になる。
自分の容姿や性格をよく把握している彼女は、それを効果的に見せる方法もよく知っていた。
明るくて、誰とでもわけへだてなく関わるので、先生や先輩受けもよく、友人も男女問わず集まってくる。
一緒にいると面白かったけれど、疲れることも多い。
適当に遊んでいるみたいだけれど、高校時代のような恋愛感情はすでになくなってしまっているのはお互い様で、葉月に言わせると「一番一緒に居て楽」だというだけで、付き合っているようなものだ。
俺自身も、お互いが割り切っているならと、遊んだこともある。
構内で一番の恋人たち、なんて噂されていることも知っていたけれど、それは周囲から見たイメージであって本人たちはライトなものだった。



比較的近代的な造りの多い構内にあって、図書室だけは趣が異なるものだった。
蔵書量を大学内外に誇るだけあって、古さと重みを感じさせるような独立した建物だ。
図書室というよりも、図書館と言った方がよさそうだと、ここを訪れるたびに思う。今日も同じように思いながら、渡り廊下から続く重厚な扉を開けた。
まだ本格的な講義が始まっていないこともあり、図書室の中は人もまばらだった。
新入生は建物が放つ独特な雰囲気に中を覗きにくることはあっても、ここを利用するものはまだ少ない。
もちろん、例外は毎年あるようで、法学部や医学部に入学した生徒は事前に薦められた本を探しに来ていることはあるが、それらの生徒も長居することはなく目当ての本を見つけたら足早に去っていくようだ。
この図書室に馴染む院生などの佇まいに圧倒されるのかもしれない。
かくいう俺自身、課題がなければ足繁く通うということもなく、研究熱心な生徒であるとはお世辞にもいえないので、この中に居てしっくりくるかといえば「否」だろう。
それでもこの図書室の中で感じる紙の重みは不快ではなく、誰かが本を捲る紙の細く高い音に心が安らぐ気がするほどだった。
特に試験前や論文作成に追われる学生が居ない春先は居心地がいいのだと、昔からの知り合いが教えてくれていた。

予想通り新入生と思しき人影はなく、なんとなく住み分けされている閲覧テーブルの一番端に向かった。
そこには誰かが持ち込んだ、場にそぐわないソファーが一つ置かれている。
まるで俺のような学生が仮眠するのを歓迎するように置かれたソファーに小さく音を立てて座り、改めて辺りをぐるりと見回す。
いつもなら、そこに荷物を置いて本を探しに行ったり行儀悪く横になったりするのだけれど、その日は何故か小さな違和感を感じて首を傾げた。
俺はその不思議な感覚にもう一度館内を見回し、そこに妙に馴染んでいる馴染みのない姿に首を傾げた。
これだけの大きなキャンパスだ。院生も入れたら、顔も名前も知らない学生なんて山程いる。

(でも、あれ、1年だよな・・・?)

熱心に本を読みふけっている傍らに置かれたバックの上に、無造作に置かれた若葉色のレジュメに目を留めて、思わず一歩近づいた。
単位の説明だとかキャンパス内の説明だとか、教務への提出必要な諸々の出来事やその書類だとか、オリエンテーションで配布されるそれを持っているということは、彼女は1回生ということだ。
見た目に構わないタイプなのか化粧っけのない顔。よほど目が悪いのかレンズ越しで見える横顔は、輪郭がぶれて見えた。かなり度の強い眼鏡をかけているのだろう。
服装にも持ち物にも、俺の周りにいる女のコたちのようなこだわりなんかは見受けられなかった。
清楚、と言う感じでもないが、清潔さは感じられる。
まあ一言でいえばとても地味で、あまりに図書室に同化しているところが却って目立っていた。
ただ、すっきりと一つにまとめられた髪は見るからに滑らかで、解いて指を通せばさらさらと流れ落ちるのだろうと思えた。

(・・・って、何考えてんだ、俺?)

知らず俯く彼女の近くまで歩み寄っている自分に驚いて、慌てて立ち止まる。
特別美人だというわけではない。可愛いわけでも。
それなのに、彼女がとても気になった。
気になるのに、自分の中にその動機となる理由が見つけられず首を傾げた。

(好み・・・ってのも違うしな・・・)

腕組みしてそんなことを考えていると、さすがに視線が気になったのか、それともただ単に顔を上げただけなのか、彼女は開いていたページから視線を引き剥がすように、ガバッと顔を上げ、きょろきょろと視線を左右に動かした。
そんな姿が、何かに似ている気がして片手を顎にあてて考えた。

(・・・小動物・・・?)

いつか見たプレーリードッグを思い浮かべて笑いかける。
微笑ましい、というよりは、胸の中がザワザワとして嘲笑に近かったかもしれない。
あまり、というか、俺の周りにはいない人種だ。
俺の周りに集まる奴らは、自分に自信があるような人間ばかりだから、挙動不審な行動に退いてしまうのだ。

そんなことを想っていると、彼女の視線と俺の視線がぶつかった。
瞬間、その細い喉が息を吸い込む音が聞こえた気がした。
彼女は弾かれたように「す、すみません!!」と泣きそうな声で立ち上がった。
何故謝られるのかわからずに、イラッとしてしまう。
「ごめんなさいっ、ここ、使いたかったですか?」
慌てて身支度する彼女は安いコメディー映画のように、抱え損ねた本を床に落とし「ひゃっ」と小さく可笑しな悲鳴をあげて椅子につまずいた。
カツン、と床に彼女の眼鏡が落ちて、人影もまばらな図書室に響いた。

(おいおいおいおい!)

流石に呆れてしまう。
本当に、俺の周りにはいないタイプだ。というか、いたら思い切りイライラとさせられてしまうだろう。
良くも悪くも、要領よく生きているような奴が多くて、俺だってもちろんそんな一人だって自覚している。
葉月や母さん、楓花の我儘を「はいはい」と聞いて合わせるのも、慣れからくるものである以上に、そうすることで余計な手間が省かれるということがわかっているからだ。
だから、こういったタイプの人間は一番苦手とする人間で。

(大丈夫かよ・・・こんなんで。)

これから始まる学生生活が、彼女にとってどんなものになるのか想像すると、思わず頼まれてもいないのに同情してしまう。

(なんで・・・気にしてるんだ?)

そこがわからなかった。
いつもの自分なら、興味がないことに時間を割くなんてことは極力避けるのに。

イライラだけでなく、もやもやとした気持ちまで加算させる彼女は、眼鏡がなくてぼやけているのか、掴もうとした椅子の背を掴み損ねて再び膝をつきかけた。
思わず手を差し伸べてしまう。

「うあっ」
「・・・危ないって。」

溜め息交じりにイライラの元凶を見下ろすと、真っ赤になった彼女は息を止めてフリーズしてしまった。
大きく見開かれた瞳はくっきりとした二重で、こじんまりとした作りながら素材の良さははっきりとわかった。
大きな眼鏡で隠れていたけれど、肌がとてもきれいだった。

「あ、れ・・・意外と・・・」

可愛い、と言いかけて、俺は慌てて視線を逸らした。

(俺は、何を言いかけて・・・)

思い返せば、戸惑う、という感情を初めて気がつかせてくれたのは、彼女だったのかもしれない。

はっと気がつけば、俺たちを遠巻きに見つめる無数の瞳が興味津々といった感じで取り囲んでいた。こんなに人が居たのか、と驚くほど。
彼女を立たせ、足元に落ちていた眼鏡を手渡すと、彼女は相変わらず真っ赤な顔のまま、だけどまっすぐに俺の顔を見て「あ、あの、ありがとうございます。ここ、今、開けますから・・・」と小さな声で囁くように言って頭を下げた。
ぎゅうっと握りしめた眼鏡を見つめると、指先が小さく震えていた。

「そんな、怖がらなくても何もしないんだけど?」

言って思わず苦笑した。
少なからずショックだったから、言い方には棘があった。
すると、彼女は眼鏡をかけるのも忘れ「あ、ち、違います、ごめんなさい・・・」とまた頭を下げた。

「だから、なんで謝るの?」

謝られる理由がわからない。この変な注目を集めたことに関してではなさそうだから。

「あ、あの、それは・・・」

しどろもどろになる彼女にまた心の中で溜め息を零した。
普段はっきりと意思を・・・ともすると強引に我儘を通そうとする女性陣の中にいるせいか、新鮮ではあるものの、やはり苛立ちも感じてしまう。
それでも、ちゃんと言葉にできるようにと根気よく待とうとしている自分に気が付き、また戸惑ってしまう。

「あの、さっき、向こうで読んでいたら"ここは私の定位置なんです"と言われて・・・・あの、それで、ここもそうなのかって・・・」

言いながら、なんとか言葉を探している風の彼女は、今まで言葉を交わす機会が極端に少ない人生を送って来たのか?と疑いたくなるくらいおどおどしている。

「あー・・・」

なんとか彼女の説明から状況を把握することができた。
多分、医学部の書庫前のことだろう。
あそこは医学部生しか使わないから、なんとなく自分の定位置があるらしい。
1回生じゃ知らなくても仕方ない。

体中から力が抜けていくのを感じていた。
葉月なら「どこで何を読もうと自由だと思うわ。」と捨て台詞の一つでも言いそうなのに、この子は一体どうやってここまで生き抜いてこれたんだ?と眉を顰めた。

(背中に"天然記念物"とか"絶滅危惧種"とか貼ってやった方がよくないか?)

結構酷いことを考えている俺に、彼女はまた「ごめんなさい・・・」と呟いた。
謝られるというのは、バツが悪くなる。
多分、こんな風に泣きそうに言われるからだ。
俺が悪いわけではないと思うけれど、彼女が悪いわけでもない。
「もういいから。」
ぶっきらぼうに言って、まだ床に散らばったままの彼女のバックの中身を集めようとしゃがみこむ。
「あ、あの、あ・・・」
そう言って一緒にしゃがみこむ彼女からは微かな甘い香りがした。香水などではなく、シャンプーと石鹸の香り。

「・・・文学部?」
「は、はい。」

だから図書室に居るのか、と納得しかけて、イヤイヤ、彼女以外誰もいないじゃないか、と頭を振る。
俺だって、葉月だって、他の奴らだって、去年の今頃はサークル勧誘やらあちこちで開かれる新歓コンパで浮かれていた。

(・・・よっぽど好きなのか。それとも人混みが嫌いなのか?)
ようやく眼鏡をかけ直し、どう見ても手際が悪そうな彼女に拾った学生証を手渡す。
裏面だったけれど学部毎に色が違うから一目でわかる。
俺も同じだから。

「決まってないから、この中央の閲覧席は。どこでも自由。」

返してから、名前を確認しなかったことに気づき、しまった!と思った。・・・思って、自問自答する。

(なんでそんな風に思う?)

彼女はほっと息を吐き、安心したように「ありがとうございます。」と強張らせていた口元を小さく緩めて微笑んだ。

「!」

怯えたような顔が、本当に一瞬だけ、やわらかくなった。
その瞬間、言葉にできない感覚が支配して、俺は何も言えずに背を向け歩きだした。
ソファーの前まで行くと、携帯が小さく震えてメール着信を教えた。
すっきりしない気持ちのまま、携帯を開くと葉月からメールが届いていた。


"終ったわ。ついでに新歓コンパ誘われたの。行くでしょう?中庭で待ってる。"


なんの感情もなく、文字だけを追って携帯を閉じた。
ちらりと後ろを振り向くと、彼女はまたあの席に座ってゆっくりと本をめくりだしていた。
穏やかな表情で。

その姿が、やけに印象的だった。

――まるで誰にも気づかれないように、ひっそりと咲く、小さな花のよう。
先を競うようにして咲き乱れる花々の中で、隠れるように咲く。
その花の美しさを、誰かに気づかれないように。




それが俺とそらとのファーストコンタクト。

その後も、俺はそらに対してイライラを募らせることになるなんて、知らなかった。

まして、誰よりも、何よりも、大切な愛しい存在になるなんて。
苦しみを与えることになるなんて、知らなかったんだ。




2009、2,27up

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