言葉にはしないけど。 ― くう視点 

2. Second impact  

イライラしたり、ムカついたり、まったくないといえばそれは嘘で、ただそんな負の感情を長続きさせることは苦手だ。
自分がいい人だとかそうありたいとか、そんな高尚な考えは持っていない。

ある程度感情をコントロールするのは、さほど難しいことではない。
自分自身が好むと好まざると、感情の嵐というやつは訪れる。
ただそれを表面に出す必要はないし、その嵐に巻き込まれたり巻き込んだりするのは避けたいだろう?
身近で嵐を起こすやつが3人はいるから、それだけで十分だ。
わざわざ自分のプライドやら感情を持ち出して、主張する気はないし戦う気もない。
もちろん、何もかもがOKということとは違う。
これ以上譲れないと思う手前で諦めさせる。それを悟らせず、こちらが妥協しているように思わせればいい。
それで気分良くしてくれるのだから。
高校に入る頃には、すでにそのスキルはかなり磨かれていた。
俺の周囲でよく起こる事象であるからなのか、葉月が言うように俺自身が冷めてる所為なのかはわからない。
ただ、その度に自分の内面を総動員してまで騒ぎ立てることが面倒なだけだ。

ぐだぐだするのが嫌だからはっきりと物事は言うほうで、お陰で傍に居て傷つきたくないやつは自分から近寄ってくることはない。
俺の周りはそうやって、ある程度自分に自信がある奴や、ライトな感覚な奴しか居なかった。

もちろん、面倒な人物など、自分から近づこうなんて思わなかった。

ただ一人の存在を除いて。



* * *



「空也君、最近よく来るじゃない。」

人の良さが滲み出ている声が頭上からかけられ、俺はアイマスク代わりに乗せていた薄い雑誌を胸元までずりおろし、そっと声のした方を仰ぎ見た。
年より老けて見えるシルバーグレイが視界に入る。
その髪が一箇所――耳の脇がぴょこんと跳ねていることを確信しながら、もそもそと起き上がった。
「おはようございます」
やさしく目を細める小早川教授の為にソファーに乗せていた足を床におろす。
すでに「おはよう」なんていう時間じゃないことはわかっていたけれど、教授は朗らかに「おはよう」と返した。

「ここ、いいよねぇ。僕も大好きなんだ。」

構内での無作法を咎めもせずに俺の隣にちょこんと腰かけて、教授は長年愛用している眼鏡を指で押し上げて微笑んだ。
幼いころから見慣れた笑顔に、少しばかり居心地の悪さを感じて苦笑する。
彼が教えてくれた場所とはいえ、流石にひとりで独占して寝転んでいるのを見られてしまうのは気恥ずかしかった。

「このソファーね、僕がここに運びこんだんですよ。」
「え!?」

そんな俺の心の内を見透かしたように耳元で囁く教授の言葉に、俺はまじまじとソファーを見下ろした。
使い込まれた革張りのソファーは、言われてみれば教授のようだと唸りたくなる。

(来るもの拒まず。ソファーも教授も。)

「だって、ここ、あの天窓からの日差しでポカポカして気持ちいいじゃないですか。ごろんと横になれるソファーがあれば最高だと思ってね。」

なんでもないことのように話す教授に、俺は思わず笑い出してしまった。
場所柄、極力、声は抑えて。

(お昼寝ポイントだって、言ってたっけ。)

居心地の良さは"だから"だったのか、と妙に納得してしまう。

「その笑い方、お父さんにそっくりですよ。よく学生時代、そうやって笑われました。」

教授が場違いなソファーに座って一緒に笑うのを、学生たちは不思議そうに見つめていた。
学部が違う奴らなんかは、彼が教授だということすら知らないかもしれない。

「ああ、僕もなんだか眠くなってきちゃいましたねぇ。これから会議があるというのに・・・」
「駄目ですよ。また鵜沢女史にどやされますよ。」

笑いをかみ殺して呟くと「ああそうですね。」と暢気な答えが返ってきた。



この大学は父さんの母校だ。
そして、小早川ゼミをとったのは、教授と父さんが旧知の仲だったことも関係している。
この少し風変わりな教授は、父さんの昔からの友人でもある。
二人は共に経済学を学んでいたらしいのだが、ある日イギリス経済を論じた本の、その翻訳の素晴らしさにこの教授は文学に目覚めたのだという。
「僕なんかがわかるように訳してありますよ! いかにわかりやすく翻訳するか、知識だけじゃない表現力・文章力・時にはユーモアも必要じゃないですか!」
この図書室で、そう叫んだらしい。
編入という制度がなかった当時、教授は経済学部を卒業したのち、再び文学部の門を叩いたのだそうだ。
父さんは呆れた半面、ひたむきに文学の世界に没頭していく教授を友人として誇らしく思ったという。

楓花が生まれるまで海外勤務の多かった父さんは、この教授の為に赴任先で頼まれた本を探しては送っていたのを覚えている。
俺もお供であちこちの本屋に連れて行ってもらった。
赴任先に押し掛けてきたこともあったし、日本に帰った時には必ず遊びに行っていた。
慣れない異国の地を転々とする生活は、幼かった俺にとっては興味深く目を輝かせることも多かったのだけれど、母さんには違っていた。
母さんは、いつもピリピリとしていた。
表面上はにこやかにしていたけれど、そうじゃなかった。
責任感が強く、赴任先でも良き妻・良き母でいようと、いつも精神の糸をピンと張っていた母さん。
笑顔が引き攣っていたことを俺ですら感じていた。
夜になると寝室から泣き声が聞こえてくることも多かった。
少しずつ、笑顔も消えていっていた。

――父さんが母さんに甘いのは、あの頃のことがあるからだろう。

だからこそ、子どもの頃の俺は、会うたびに幸福そうな笑顔を見せる彼が大好きだった。
赴任先(あれはロンドンだったと思うけど)に突然押し掛けてきて一週間居ついたこともある。そんな彼に厭味を零す母さんにも、まったく動じなくて。
父さんが送った本の話しだとか、その土地の民話だとか、いろんな話を聞かせてくれた。
帰国してからも、「面白い本があったよ」とか「空也君に読ませたくて翻訳したよ」なんて言いながら、論文を持ってきたこともある。
そんな環境が影響したのだろう。俺は彼が教鞭をとるこの大学を選んでいた。

(あの頃から、この眼鏡で・・・同じトコ、髪跳ねてたよな)

まだ黒々とした髪をしていた頃も、耳の脇で髪がぴょこんと跳ねていたことを思い出していた。
今ほどインターネットが普及していたわけでなく、日本で自由に洋書が手に入らなかった頃は、父さんが助手のようだと教授は目を細めて話していた。
奥さんを早くに亡くしたらしいけれど、その後再婚することもなく「気ままな独身貴族です。」といつも柔和な笑顔を浮かべている。
「僕のような変わり者と、結婚してくださる人はなかなかいないのですよ」と。 生活感がないのは、その所為だけではないと思う。きっと奥さんがいても、篤おじさんは変わらないと思う。
どこか浮世離れした雰囲気を身に纏いつつ、どこか可愛らしくて憎めない人だ。
「好きなことだけに没頭していますから。」と頭を掻く、彼のくたびれた背広の胸ポケットには、色あせた一枚の写真がある。
困ったような笑顔で佇む、本を抱えた女性。
この図書室で知り合ったひとだったんだと、父さんと教授がする昔話から察することができた。
縁遠いのではなく、彼自身が再婚を望まなかったのだろう。

奥さんとの、思い出の場所。
だから、ここは、教授にとっても思い入れのある場所のはずだ。

「・・・おや、伊藤君だ。」

のんびりと立ち上がった教授が何気なく呟いた名前。
試験も終わり、図書室にはそう多くの生徒が訪れているわけではない。
俺は顔も知らない"伊藤君"を探して教授が見つめる先に視線を向けた。

(・・・・あれ?)

さして興味もなく彷徨わせた視線は、しかし、彼女を見つけて動きを止めた。

(今日も来たんだ?)

名前も知らない、そのひと。
トレードマークといえる分厚い眼鏡。
4月の頃より伸びたように感じられる髪は、項を露わにするように袂を分かち耳の下のあたりで結ばれていた。
その髪型は容姿と相まって、酷く幼く感じさせた。
それなのに、真っ白く華奢な項にぞくりとする。

(なんだよこれ・・・)

女に飢えているわけでも、少女趣味があるわけでもないのに、酷く心をざわつかされている自分に驚く。
こんな感覚は今まで経験したことがないから、厄介な存在に正直辟易した。

どうしてなのかわからない。
彼女はいつも俺を酷くアンバランスな状態に陥れる。
あの4月の頃から、接点もないまま過ぎたというのに、あの日の感覚が鮮やかに蘇る。

いまだ大学のどの場所でも彼女に会うことはなかったけれど(文学部の建物でも)、必ずと言っていいほど、この図書室では会えるのだ。
振り返るほど綺麗だとか、この図書室で特別目立つだとか・・・姿勢がよいとか、そういう特徴は見られない。
葉月や楓花を見慣れている所為か、彼女は"普通"でしかない。
彼女が気付かないのをいいことに観察していれば、間抜け(女の子に使う言葉じゃないよな)でドジな・・・最初に出会った日の印象そのままだとつくづく思う。
前にも宣言した通り、この手のタイプが苦手な俺としては、自ら近づきたいなんて思わないはずなのだ。

今も目の前で咳き込む院生に、バッグの中をがさごそと音をたてながら探り、とりだした何かを渡している。
咳き込んでいる彼自身が、迷惑にならないようにと席を立ちかけているというのに、彼女はおもむろに押しつけたのだ。
袋ごと渡されたそれに、院生の方が驚いている。
そりゃそうだ。顔見知り程度ではあるかもしれないが、急に「あ、あの、」なんて、どもりながら飴を袋ごと差し出されたりしたら、正直退いてしまうだろう。

「・・・みるきーって・・・」
「おや? 空也君、伊藤君と知り合いですか?」

幼いころ口にした甘ったるい感じを思い出しながら、顔を歪めて呟いてしまった俺に、教授がちょっと意外そうな顔で振り返った。
確かに、驚かれるのも無理はない。俺の周りには居ないタイプ。多分、苦手とするタイプだと、長い付き合いの彼にはばれているのだ。そういった人に、俺が興味を示さないことも。

「知り合いってわけじゃ・・・・・」

(名前だって、今初めて知りましたよ。・・・イトウ、ね・・・)

「小早川教授は、ご存知なんですか?」

問いに問いで返すというのはいただけない行為だとわかっているけれど、答えに困った俺は訊ねていた。
教授は俺と彼女を交互に見つめ「ふむ、」と妙に納得したように頷くと「彼女は後期、私のゼミを受けるようですよ。」と答えた。

「後期からは誰でも参加できますからね。それに前期にも、彼女は僕の講義に何度か顔を出してしました。」
「へぇ・・・。」

みるきーのキャラクターが描かれた真っ赤な袋に、周囲から忍び笑い(失笑、か)が聞こえる。
彼女の風貌には違和感のない飴でも、いい年をした院生にはあまり似合うアイテムではない。
かっちりとした服装の俺よりずっと年上の彼は、「それじゃあ一つだけ」と彼女の差し出した袋を遠ざけ苦笑した。
そこで、彼女は真っ赤になって「ごめんなさい、そ、そうですよね。」と慌てて飴をひとつ彼の大きな手に転がした。
恐縮して小さくなるその姿に、またイラっとさせられる。
だけど、さっき退きかけた院生は、何故か困ったような顔で頭を掻いて。
そして、何かに気づいたように彼女をじっと見つめた。やけに甘ったるい顔で。

(・・・・気付いた?)

ジリッと胸の奥が焦げ付くような感覚に驚く。

急速に胸を占める焦燥感に、イライラが募っていく。
・・・ただ、彼女自身はもう顔をあげることができないようで、彼の苦笑が微笑みに変わったことには気づきもしない。
小さな声で「ありがとう」と声をかける彼に、本当に申し訳なさそうに俯くだけだ。

「後期のゼミは、学年関係なく取り組む予定なので、空也君、彼女のことも面倒見てあげてあげてくださいね? どうやら人付き合いが苦手なようなので。」

これで安心とばかりに満面の笑みで俺の肩をポンポンと軽く叩き「今季も空也君が僕のゼミをとってくれてよかったです。」と、小早川教授は彼女に視線を戻した。

「え? ちょっ、ちょっと待ってください?」
「空也君、彼女苦手でしょう?」
「え、ええ。はい。」

本当のことだから、しっかり頷いた。
面倒を見るって言ったって、ここは幼稚園じゃない。
自分のことは自分で責任を持つキャンパスだ。
だから、俺は不機嫌な顔を隠さずに抗議の声をあげようと、教授が穏やかな表情で彼女を見つめる視線を塞ぐように立ちあがった。

冗談じゃない。
これ以上、彼女に近づくのは危険だ。

「先日、空也君が読んでいた論文、彼女が書いたんですよ。面白い視点だったでしょう?」
「あ、え?」
「1回生であれだけまとめられたら、凄いでしょう? せっかくセンスがあるのに、なんだかもったいない気がするんです。ひとりであれこれまとめるのも、考察するのも得意そうなんですけど・・・要領が悪いというか、ね。ゼミでは意見が言えないと。」

確かに、そうだ。・・・ろう。
だけど!

「空也君は、本当は面倒見がいいと僕は思うんですよ? 楓花ちゃんを見てると、そう思うんです。」
「それとこれとは・・・」
「うん、違うけれどね。伊藤君ね、僕の奥さんにちょっと似てるんです。なんていうのかなぁ、ドジで人付き合いより本のほうが仲良しなところとか・・・。」

がたん、と椅子が倒れる音が響いて俺は振り向いた。
真っ赤になった彼女が「スミマセン」と四方に頭を下げて、椅子を起こしているのが見える。
いつの間にか、あの院生が傍に居て、彼女に手を差し伸べている。

(やっぱり、気付いたか・・・・!?)

あの化粧っ気のない、大学生には見えないような彼女は。
思いのほか可愛らしいということに。
ひっそりと、隠れて咲いているのだということに。
知らず知らず、魅かれてしまう、あの存在に。

怖々と見上げて、また一層小さくなって、ほんとにもうその姿は大学に迷い込んだ子どものようだ。
中学生の楓花の方が、彼女よりずっとここに馴染んで見えるだろう。

「だから、僕は彼女になんだか親近感を抱いてしまうんですよ。」
「いえ、でも」
「空也君も感じませんか?」
「奥様に、お会いしたことないですから!」
「おや、随分赤くなってますよ?」
「篤おじさんっ!」
「ああ、懐かしいですね。その呼び方。」

懐かしさに目を見開きながら教授は俺を見上げた。
咄嗟にでた幼い頃からの呼び方で、自分のペースが崩れていることを悟る。

「空也君は兎角なんでもスマートにこなしてしまうでしょう? だからというか・・・彼女はきっと、いつも見えないものを空也君に見せてくれるんじゃないかな、と思うんですよね。見過ごしてきたものとか、見ないようにしていたものとか。」
「・・・・・・そ、れは、そうかもしれないですけど・・・・・・俺じゃなくても、彼女を助けたいと思う奴、いるんじゃないですか?」

ちらりと彼女に視線をやる。
彼女は差し伸べられた手をとれず、体を強張らせて一人で立ち上がり、笑おうとしてるのか顔が引き攣っていた。
その可哀想になるくらいの努力に、思わず苦笑する。

教授のとても楽しそうな「ふふふ」という笑い声に、はっと我に返る。

「ほら、やっぱり気にかかるんでしょう?」
「そっ・・・そんなことは・・・」
「だって、空也君、最近ここが定位置になってるから。気にかける存在ができたんだな、と思ってね。」
「!!」

図星を指されて、言葉に詰まる。

確かに、以前に比べたら図書室に入り浸る時間が増えたかもしれない。
――彼女に、ここに来れば会えるから、だ。
視界に入れば不愉快になったり正体不明のイライラが募るのに、何故か彼女を目で追ってしまう。
近づいたりはしなかった。苦手であることには、変わりないのだ。
それでも、彼女を見ていた。
見ていたかった。

彼女は人に対して臆病で。
人との接し方がわからないのだろう。だから必要以上に「ごめんなさい」と頭を下げるし、ビクビクとしている。
自分に自信がないせいだろうが、他者からしたら悪意があるわけじゃないのに怯えられてしまうと、どうしていいかわからなくなるし、気分を害することもあるのだ。初めて出会った日の俺のように。
いっそ、周囲のそんな戸惑いになど気づかなければいいのに、彼女は敏感に察知してますます萎縮してしまう。悪循環だ。

だから、彼女に感じた第一印象が好意的なものに変化するのに、そう時間はかからない。
しかし、萎縮してしまった彼女にはすでに想いは届かないのだ。
鈍感なのか、敏感なのか?
不思議な存在。

あれだけイラついていたのに・・・いつしか微笑んでいる自分に気づいた。

それは、今まで感じた事のない、柔らかな感情。
彼女の纏う空気と同じ、柔らかなもの。

はあっ、と大きく息を吐く。
否定してみたところで、仕方ない。

「気に・・・なるんでしょうね。何故か。」

噂話や人を蔑む話も、今までは聞き流してこれたのに、そんな話題の中に居ることが耐えられなくなっていた。
葉月が面白可笑しく人をこきおろすのを、ブラックユーモアとして捉えていたはずで、周りの人間がその話術に笑い出すように、俺も同じ感覚を持ち合わせていたはずで。
自分はそんなにキレイな模範的な人間ではないはずなのに。
いつしか、そういった世界とは関わり合いのない・・・喧騒からひとり離れている彼女を探すようになっていた。

「空也君は優しいですからね。僕が頼まなくても、きっと手助けしていたでしょうけど。」

時計を気にしながら、例の院生に何度も頭を下げて、彼女は図書室から出て行った。
何か約束か、入れていた講義があることに気付いたのだろう。
すでに何度も目にしている光景だ。
残念そうに肩を落とす院生の背中に、安堵する自分がいる。
・・・これも何度か経験しているものだった。

彼女と入れ替わりで鵜沢女史が目を吊り上げて図書室に入ってくるのが見えた。
教授は「あらら。」ととぼけた声で言うと、俺の方を見て「見つかってしまいました」と肩を竦めた。

「小早川教授!」

ここが図書室であることなど、彼女にはどうでもよいらしく、大きな声をあげた後カツカツとヒールの音も高らかに俺たちに近づいてきて「何やってるんですか! もう教授会が始まります!」と教授の袖口をぐいっと引っ張った。
その剣幕と迫力に、俺は思わず一歩後ずさる。
「じゃあまたね」と笑顔のまま暢気に手を振る教授に、「いってらっしゃい」と呟いて俺も手を振る。
学部内では見慣れた光景なのだが、流石にここでは奇異なのだろう。
様子を眺めるギャラリーが、増えていた。
数歩引きずられたところで「ああ、もう一つ!」と教授は声をあげた。
鵜沢女史が怪訝そうに振り向いたけれど、教授は気にもせず「伝言を頼んでいいですか?」と続けたので、彼女は仕方なくその場で立ち止まった。
俺は「もちろん」と頷いて、大股で近づく。

「楠本さんにお会いしたら、書類を持って来てください、と伝えてください。」
「・・・葉月に、ですか?」
「はい。探してみたのですけど、見つからなかったので。」

多分、樫月准教授のところに居ますよ、と言いかけてやめる。
わざわざここから一番遠い建物まで教授を行かせる必要はない。

「わかりました。伝えます。」

答えて苦笑した。
先ほどの提案より、こちらの伝言の方がずっと気が重くなるからだ。
女史に牽き立てられる教授を見送った後、俺はソファーに座って携帯を取り出した。
履歴を眺めて、しばらく葉月と連絡を取り合っていなかったことに気づいた。




『私ね、やりたいことを見つけたわ。学部は違うけれど、やりがいがありそうなの。』

そう言われたのが6月。
ベッドの中、まだ気だるさが支配する中で、葉月は俺にすり寄りながら囁いた。妖艶な笑顔で。
そんな表情を浮かべる時の彼女は恐ろしく頭の回転が速くなっている。
きっと、彼女は自分の目的を果たすべく、すでに行動を開始しているのだろうとすぐにわかった。
俺は気のない返事をして、葉月がしたいようにすればいい、とだけ答えた。
もともと、束縛されるのもすることも少ない関係だったから、さして気にもならなかった。

『応援してくれるでしょ?』
『頑張れよ』
『ふふ、空也なら、わかってくると思ったわ。』

何を? と問い返すこともしなかった。
葉月が嬉しそうに、俺の首に腕を絡めた。




メール画面を開き、教授からの伝言を短く打ちこみ送信する。

すぐに携帯が震えだし、俺はゆっくりと図書室を出た。
重厚な扉から外に出て、通話ボタンを押す。

『伝言ありがとう。小早川教授のところ行けばいいのね?』
「教授はしばらく戻らないよ。鵜沢女史に連れてかれたから。」

中庭に向かって歩き出すと、葉月がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
にっこりと笑って小さく手を振り、携帯から『久しぶり。ねえ、今日時間できたの。これから付き合って?』と甘えるような声が響く。
俺は肩を竦めて通話ボタンを切った。
葉月は携帯を閉じると、軽やかに石畳を蹴って俺の元に駆け寄り、当たり前のように腕を絡めた。

「んーやっぱりここが落ち着くわ。あなたの香りが一番好き。」

慣れた香りと体の重みには、何も感じないのに。
その先に見つけた人影に、心が震える。

それが、何を意味するのか・・・もう、気づき始めていた。
コントロールの効かない感情が、自分の中に眠っていることも。




2009、7,7up

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