言葉にはしないけど。 ― くう視点 

5.Five crimes 前編


「いつから教職課程とろうなんて思ってた?」

驚かれるのも無理はない。
教師になろうなんて、まったく考えていなかったのだから。
だから野住の問いかけに「さあ?」と肩を竦めた。理由なんて・・・わざわざ話すのは気恥ずかしい。
教免申請を書きこむ俺の手元を見ていた野住は「ふ〜ん?」と意味深に呟き、くすくすと笑いだす。

「まあね、最近のお前見てたらなんかわかるよ。なんつーか、くう、親鳥みたいだもんな?」

アイスコーヒーの入ったグラスを片手に持ちながら、野住は俺に向かって人差し指を向けた。グラスから落ちる水滴が、申請書スレスレに落ちる。
じろりと野住を睨みつければ、まったく意に介さないとばかりのにやけ顔で返される。

「もともと無垢な雛状態だから仕方ないけど、ここんとこのお前ら見てると親子って感じ。」
「親子・・・?」
「それも激甘な親・・・いや、兄妹? でも楓花ちゃんとはまた違うよな・・・う〜ん師弟??」
「・・・甘い?」
「自覚ないの? そらちゃんに向ける視線の甘さったらないじゃん。くうはさ、来るもの拒むタイプじゃなかったけど、自分から関わったりしないヤツだったのに。」

変ったよな、と笑う野住が憎らしい。
今さらっと「そらちゃん」と口にしてなかったか?
余裕がないとわかっていても、こめかみがピクリと動くのを止められない。
それを見咎められ、また笑われる。

「そらちゃんだろ? くうに"教師"なんて選択肢増やしたの。」

理由なんて、いくつも言える。
けれど、どれも伊藤と出会わなければ、近づかなければ、感じなかった。きっと気にも留めなかった。
人と関わる仕事なんて、絶対に選ばなかった。

「そう、だな。」

思い浮かべたのは、どうしようもなく愛しい人。
最初は苦手だった。イラつくのに、目が離せなくて。
いつの間にか、心の中に住みついてしまったひと。

「・・・不思議だよな。葉月ほどおまえに似合いのオンナはいないと思ってたのに、今ではそらちゃんといるくうの方が、しっくりくるなんて、な?」

野住の言葉を聞きながら、苦笑する。
そう見えているとしたら、俺にもまだ望みはあるだろうか?
彼女は、恋の駆け引きなんて知らない。
俺が今まで積んできた経験なんて、なんの意味もなさない。
自分の気持ちを曝け出すことなど必要なかった。お互いに深い部分には立ち入らない。自分の心の平穏の為に、それは誰と付き合っても変わらない不可侵な場所だった。
そこに立ち入るのは、自分自身でさえ躊躇してしまう。
なのに、その領域に、伊藤はいつの間にか居座っていた。
無防備に、ありのままで。

「じゃあ・・・」
「?」

ふむ、と考え込む野住にいい予感がしない。
これはまたよからぬことを考えているのだろうと、短くはない付き合いで感じる。

「学祭の実行委員に推薦したのは間違いだったかなー。いっそがしくなっちゃうもんなあ。」
「誰を?」
「そらちゃん。いや、委員長がさ、今年はお祭り好きなヤツばっかだから、裏方頼めるコを探してたから〜」
「野住・・・」
「うん? いやー、だって、そらちゃんが偶々通りかかったんだよ。」

頭を抱えたくなる。
何故、よりにもよって、そんな場面に出くわしてしまうんだ? 伊藤は。

「そんな器用じゃないんだって・・・」
「でも、そらちゃん引き受けちゃったよ?」

ああ、そうだろう。
きっと彼女は引き受けてしまう。不安で仕方ないくせに。

がたん、と少し大きな音をたてて椅子をひけば「気になる?」と野住は人の悪い笑顔を浮かべた。
無言で立ち上がり溜息を吐きだす。
苛立ちは大きくなる。 誰に対して、なのか、自分でもその捌け口をうまく見出せない。
ただ、彼女が今居るであろう場所に、心が向かうのを止められない。

「・・・付き合っちゃえば?」

茶化すように言った野住は、俺の気持ちを間違いなく読めるのだろう。

「そのつもり。」

立ち上がった俺の背中に感じた視線は、やけにくすぐったいものだった。





まるで隠れるようにそっと息づいていた小さな花が、俺だけが知っていたその花の甘さや可愛らしさが、自分では気づかないまま多くの人を惹きつけ始めた。
それは同じゼミの仲間であったり、彼女の一番好きな場所・図書室の一角であったり。
自分を過小評価する彼女にとって、相手に自分をいかに良く見せるか、などという感覚は微塵もない。
人は誰だって嫌われたくはない生き物で、"よく思われたい"という想いは一種の防衛反応だろう。
もちろん、それは男女関わらず持っているもので、その感覚が研ぎ澄まされた人間は、防衛だけでなくそれを武器にしていくんだと思う。
どちらかといえば、俺の周辺は自分の魅力を最大限生かし、かつ攻めも守りも考え抜いているような人間が多い。

そんな俺の中で、伊藤 空という存在は、とても異質で。
計算されない彼女の笑顔や仕草にどうしようもなく惹かれる。

彼女の不器用さの裏にある優しさや、分厚い眼鏡と飾り気のない姿に隠されている可愛らしさ。
誰も気づかなければよかった。
――いや、隠し通せるはずがない。
今だって、伊藤の隣には彼女が背伸びしても届かなかった本を取って差し出す男が居る。
真っ赤になって「ありがとうございます」と頭を下げる伊藤に、微笑んで見せている。
ぎりぎりと胸を締め付ける不快感に、眉を顰める。
自分がこんなにも心の狭い人間だったのか、と気づかされる。
経済学の講義で見かけたことがある奴だ。
確か、2回生。つまり、伊藤と同い年だろう。
「あの、もしよかったら、俺と・・・」と頭をかく相手に、伊藤ははっとして「あ、邪魔、でしたよね?」と背後を確認した。
彼の探し物の邪魔をしてしまったと思ったのだろう。
慌てふためく姿に、思わず苦笑する。
漏れた笑い声に、伊藤は俺を見つけて、ますます頬を赤くした。

「あ・・・松下先輩・・・!」

伊藤は、気づかないよ。
そんなアプローチじゃ。

心の中で、項垂れる男に忠告する。
けれど、それをわざわざ教えてやるつもりはない。
こんな古びた図書館の片隅で、ひっそりと花開く彼女に好意を寄せるなんて、見る目があると思う。伊藤の不思議と温かな空気がそうさせるのだろうけれど、彼女に迫る男は、基本的に優しくて押しが弱い。それは俺にとって、とてつもなくありがたい事実だ。

「あの、ほ、本当にありがとうございました。」

まだ伝えたいことを胸に秘めたままの彼は、けれど俺の存在を確認すると溜息を吐いて無理に作った笑顔で「うん」と答えて手を振った。
きっと噂は知ってるんだろう。
俺は彼女の"保護者"らしいから。

「探し物は見つかった?」

振り返って再び会釈している伊藤に、問いかける。
早く意識を俺だけに向けてほしくて、だなんて、自分でも信じられない。

「あ、はい。届かなかくて、困っていたら、彼がその、とってくれました。」
「枕草子? 英訳の?」
「はい。」

彼女の定位置に向かいながら、並んで歩く。

でも、まだそれだけだ。

あの桜を一緒に見た日に、想いは通じ合ったのだと思っていた。
あからさまに傍に居るようになっても、伊藤は自分が手のかかる後輩だから一緒にいてくれるんだろうと思っている。
それ以外に、一緒に居てくれる理由がわからないというように、不安そうに、申し訳なさそうに見つめてくる。
どうしてそこまで、と思うけれど、彼女は自分を誰からも相手にされない人間だと思い込んでいる。

そんな彼女に、どこまでも優しくしたくなる。自信を持っていいと。俺にとって、君ほど大切な存在はいなんだからと。

今まで遊んできたどのオンナとも違う。
こんなに全部欲しくて、でも手を出すのが怖いのは初めての経験だった。
触れるのを戸惑うなんて、想像もできなかった。


「・・・先輩、学祭のお手伝いって、私でもできますか・・・?」

急に立ち止まり、思案顔で訊ねた彼女に心の中で溜息を吐く。
不安そうな彼女の表情に、今俺のできることは励ましてやるくらいだと知っているから、野住への恨み事はひとまず頭から追い出すことにした。

「伊藤はどんなことならできそう?」

安心させるように微笑めば、伊藤は「人前にでることじゃなければ・・・」と考え込んでいる。そもそも、何をすればいいのかなんて、かかわったことがある奴じゃなければわからないのも当然だ。

「表舞台に出る人間は揃ってるから、その心配はないと思うよ。」
「あ、はい、そうですよね・・・足を引っ張らないようにします・・・!」
「まだ本決まりじゃないなら、断るってのも手だよ?」
「でも、皆さん忙しいでしょうし、私、サークル活動もしていないので・・・」

なるほど、そんな風に彼女を言いくるめたのか、と野住の悪い笑顔を思い出して踏み付けたくなった。
ゼミでの雑用も、気がつけばいつの間にか伊藤が引き受けている。
きっとこんな感じでみんな押しつけているのだろう。

「困ったことがあったら、なんでも言って。俺でよければ、相談にのるよ?」
「わっ、そんなっ、今だって、甘えてしまってるのに・・・!」

そう言って首を横に振る彼女に驚いてしまう。
これのどこが"甘えて"るっての? と訊ねたくなる。
妹や葉月、母さんの我儘に馴らされてきた俺にとって、伊藤のどこをどうとったら"甘えて"ることになるのか、理解できなかった。

「もっと、甘えてくれていいよ?」と答えれば、伊藤はしばらく逡巡して「ありがとうございます」とすまなそうに頭を下げた。
そんな姿が、俺にどう映るのか、伊藤はまったく気づいていない。
無意識に築かれてしまう壁。ぶち壊してやりたくなる。凶暴なまでの熱情が急速に膨れ上がる。

――俺は、伊藤に必要とされたい。

こんな風に感じるのは、彼女に対してだけ。
それがどれほど特別かなんて、彼女は知らない。

両手が塞がっている彼女の為に椅子をひいてやると、いつものように伊藤は目を大きく見開いて息を詰めた。
そんな彼女に気づかないふりで視線で促せば、伊藤はふにゃりと微笑む。
「あ、ありがとうございます」とくすぐったそうに照れながら。
「お姫様になった気分です」と見上げる視線に微笑み返しながら、その向かい側に座る。
今はレポートの提出もないけれど、ちらちらとこちらを伺ういくつかの視線が気になったから、伊藤から離れがたくなってしまった。
"保護者"がそばに居れば、その視線は諦めに変わるのを知っている。
諦めてもらわなくちゃならない。
誰にも、見て欲しくない。

抱えてきた本を開き辞書を引っ張り出す伊藤の髪が、さらさらと肩から零れ落ちる。
思わず見つめていると、不意に顔をあげて「え、と、」と、戸惑うような声が漏れた。
「ああ、俺もちょっと調べ物。ここいい?」と訊ねると、伊藤はくすぐったそうに頷いて視線を本に戻した。

しばらくこの距離感を大切にしていた。
もう、隠しておけそうもなかった。
伊藤も。
俺の気持ちも。
彼女の世界は広がっていく。
彼女のよさを知る奴はもっと増えてくる。
それはとても喜ばしく嬉しいものであると同時に、とても胸をざわつかせもする。

俺の視線に気づいた彼女が、顔をあげて首を傾げる。

「何かついてますか?」
「なんでもないよ」

きょろきょろと視線を巡らすその姿が可愛くて仕方ないって言ったら、きっと素っ頓狂な悲鳴を上げるのだろう。
そう思うとくすくす笑いを止めることができず、ますます彼女は首を傾げた。



「これ返してくるので、先輩、先に帰ってくださいね?」

伊藤はそういいながら不安げな表情を浮かべた。
俺は自ら望んでここにいたのに、きっとそうは思っていないのだ。

「駅まで送るから返しておいで?」

伝わらない感情に歯がゆくなり、頬杖をついて呟けば、彼女は「はい」と満面の笑みを浮かべた。
その可愛らしさに、俺の方が赤くなりそうだ。
人口がぐっと少なくなった図書室で、俺は顔を押さえた。
本当に、もう、愛しくて仕方がない。
もう病気なんじゃないかと思う。
病気なら、その熱に負けてしまえばいい。
臆病な本心を、曝け出して。



「伊藤」
「はい?」

名前を呼ぶと、きょとんとした顔で振り返る。
不思議そうな瞳と視線が絡むと、その頬は赤みを帯び困ったように瞳が揺れ始める。
手を伸ばせば触れられる距離で、けれど触れたら飛び上がって驚く姿が容易に想像できるから。

「!」

人気のない図書室。
まだ何が起きるか感知できない彼女を本棚に追い詰めて、両手で逃げ道を塞いだ。

「ま、松下先輩?」
「好きだよ。」
「え?」
「伊藤のことが、好きだよ。」

その瞳がレンズ越しに大きく見開かれた。

「伊藤は? 俺のこと・・・どう思ってる?」

問いかけに、伊藤は答えられず、うっすらと開いた口元は、吐き出すことを忘れて息を吸い続けている。

「あ、わ、あ・・・」

真っ赤になっている耳元に唇を寄せ「好き、なら、俺に触れて」と囁く。
言葉にすることが難しいなら、せめて。

伊藤は今度こそ息を止めて、ぴくりと身体を強張らせた。
けれど、思いのほか早くにその小さな手が俺のシャツを掴んだ。
そして、ゆっくりと顔をあげると、泣きそうな瞳で俺を見た。

「!」

言葉を紡ぐことができず震える唇を宥めるように、そっと口づけた。
柔らかなくちびる。
啄ばむようなキスを繰り返して、本棚を掴んでいた両手を滑らかな髪に滑り込ませる。
息を止めたまま固まってしまった伊藤の耳元に「目を閉じて。」と囁く。
彼女はまるで魔法にかかったかのように、ぎゅっと目を閉じた。
思わず口元が緩み、頬を撫でる。眉間に寄った皺にキスを落とすと、びくりと身体が震えたのがわかる。
恥ずかしそうに俯きかけるのを、両手で後頭部を掴んで上向かせた。
閉じられたままの瞳から、一滴涙が零れる。
涙をくちびるで受け止めれば、塩辛い味がした。
抱え込むようにして、そっと腕の中に閉じこめて、もう一度「好きだよ」と囁いた。

シャツを握る彼女の手は、離れはしなかった。
それがますます俺の気持ちを煽る。
愛しさが膨れ上がる。
反面、こんなにも愛しいと思える存在に出会えたことに、どこか恐怖を感じていた。
コントロールの利かない恋情を知ったのは、初めてだったから。

優しいキスを繰り返し、くにゃりと力が抜けてしまった彼女を抱き上げて笑った。
どんな顔をしていいのかわからずに混乱する彼女の鼻先に、またキスを落とす。
その度に、一瞬思考回路を停止させる表情があまりにも可愛くて。
何度も、何度も、俺はそれを贈ることになるのだけれど。


まだ知らなかったから。
誰よりも大切な そらに。
俺自身が、痛みを与えることになるなんて。


ようやく伝えられた自らの想いと、それに応えてくれた彼女の想い。
今はただ、それだけで幸せだった。




2010,11,14up

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