「今年は咲かないかもしれませんねえ・・・。」
ごく間近で吐き出されたため息に、俺ははっとして振り向いた。
ぼんやりと窓の外を見つめていた俺のすぐ隣で、窓に額を張りつかせるようにして階下へ視線を向ける小早川教授にまた驚く。
「篤おじさ・・・!」
「昨年も、本当に花の数が少なくなっていましたから。」
寂しげに呟いたその瞳が微かに揺らいだ気がして、教授が見つめる先を追いかけた。
中庭に向けられた瞳は、一本の木を見つめていた。
ぐるりと建物に囲まれた状態で、ぽつんと佇む姿は何故か老人を連想させて物悲しい気持ちになる。
(何の木だった?)
記憶を辿ってみる。咲かないかも、と教授が呟いたのだから、昨年は花が咲いていたのだろう。それなのにまったく覚えていない。
首を傾げる俺に「仕方ないですよ。この時期は忙しいですからね、学生の皆さんは」と微笑まれた。
「霞桜というんです。ソメイヨシノと比べると2週間ぐらい遅く咲くんですけどねぇ・・・昨年も本当に数えるほどしか咲かなかったんですよ。」
確かに、この時期に研究棟に入り浸る学生はまだ居ないだろう。
だからだろう。俺の記憶の中では、その桜の木に花が咲くイメージはまったくなかった。
「淡い紅色の花が咲くこともあるようですけど、この霞桜は純白なんですよ。」
「そうなんですか・・・でも、もう桜が散って随分経ちますけど・・・・」
構内を取り囲むように植えられれている桜の木はとっくに見頃を終え、淡いピンク色の花の替わりに青々とした葉が覆っている。桜の花が満開だった頃から数えても、もう随分経っている。
「ええ。ここ数年、めっきり花の数が減ってしまって・・・今年はいよいよ咲かないのではないか、と教授会でも話していたんです。」
至極残念そうに溜息を吐いた小早川教授はコツンと軽く窓を叩いて窓に背を向けた。「知っていますか? 我が校の霞桜伝説。」と言いながら。
「いいえ。霞桜という名称さえ初めて聞きました。」
「その年初めて咲いた桜を一緒に見たふたりは結ばれる、というものです。まあ、伝説の出所は院生らしんですけれどね。研究棟で研究に明け暮れて桜を愛でることもできなかった院生が、花見も終わり、忘れた頃に咲く霞桜にロマンスを託したんでしょうねぇ。」
それなのに、と寂しそうに呟く声に、再びその木を見下ろした。
樹形はまっすぐ伸びているが枝は細く、つぼみがあるのかどうかすら定かでない。
「一重咲きの小ぶりな可愛らしい花がふんわりと咲くんです。ちょうどね、うっすらと淡雪が積もったみたいに見えるんです。」
「それは、見てみたいですね。」
教授の言葉に、一人の女の子を想い浮かべていた。
伊藤 空。
まるで、それが伝わったかのように。
「ああ、ちょうどね、伊藤君のイメージなんですよ?」
篤おじさんは、ふふふと微笑んだ。
* * * * *
午後の講義はどことなく倦怠感が漂う。
週初めの午後は尚更。
休み明けの月曜が一番疲れているという皮肉は、ここにいるすべての人間が潜在的に感じていることなんじゃないかと思う。
前日の疲れが今頃出てくるのか、教授の話を聞いている人数よりどこか上の空だったり突っ伏している人数の方が多いように思える。
それらの学生にいちいち注意は促さないものの、この教授が恐ろしい程記憶力がよく、論文提出時に日ごろの態度が加味されるということを小早川教授から聞いている身としては、睡魔の誘惑にのってしまうのは避けたかった。
撃沈していく窓側の学生たちを見遣り、苦笑する。またひとり、頭ががくりと下がる。その度に河辺教授の眉がぴくりと上がることに俺は気づいていた。
窓から降り注がれる日差しを受けないように廊下側に席をとったのは正解だったようだ。あの柔らかな日差しを受けて、眠らない自信は、ない。
ふと、微かな振動音が響く。
携帯だ。
メールだろうと放っておいたが、一向に振動は収まらない。
仮眠室状態になっている室内は教授の声だけが響いていて、普段気にならないバイブ音がやけに大きく聞こえた。
携帯を取り出しサブウィンドウを確認する。見慣れた数列。表示は"楠本"だ。
昨晩のことが思い出されて、気が滅入る。
机下で携帯のフラップを開き、溜息と共に電源を落とした。
* * *
「おかえりなさい、くう。」
甘ったるく名前を呼ばれ、思わず目を疑った。
「・・・何、してる?」
「お邪魔してるのよ。」
野住のバイトの助っ人を終え帰宅した俺は、リビングのドアを開けて思い切り引いていた。
何故かもう家に来るはずのない人物、楠本 葉月が居たからだ。
玄関に見慣れないヒールがあることに気づいていたが、それが別れた葉月のものであるなんて思わなかった。
「おかえりなさい、お兄ちゃん!」
「おかえりなさい。葉月さんね、お土産を持ってきてくださったのよ。」
葉月の隣で嬉しそうに笑顔を浮かべる楓花と、穏やかな笑みを浮かべる母さんに眩暈を覚える。葉月の凄いところは、誰とでもうまくやれてしまうところだ。
上機嫌な様子で紅茶の用意をする母さんだって、付き合い出した頃は嫌っていたのだけれど、あっという間に打ち解けていた。
だからこそ、別れたことは二人にしっかりと伝えてあった。
(なのに、なんで・・・)
まさか、葉月本人が自宅にまで来るなんて、と、この展開に辟易する。
「金曜から韓国に行ってたの。美優たちと。」
「空港からその足で来てくれたのよ。」
すっかり馴染んで寛ぐ姿に、俺は「そう」と背中を向けた。
母さんや楓花の友人として訪れているなら席を外せばいいだけだ。
朝早くからバイトに出ていて疲れていた所為もあるけれど、正直、出方を伺うような、なんとか取り込もうとするような空気に触れて居たくなかった。
(好きにさせとけば、被害は少ないだろ――)
一緒にお茶をと席を勧める母さんに「疲れたから」とだけ答え、自室へ引き上げた。
さすがに俺の態度に気づいた葉月は部屋まで押し掛けることはなかった。
今頃、葉月は次の手を考えているのかもしれない。そう想像する自分に悲しくなる。いつからここまで葉月に対して嫌悪に似た感情を持ってしまったのだろう。
それは、友人でいようと話したことに対する裏切りのようにも思え胸が痛んだ。
(でも、もう戻る気はない)
階下に行くと、まるで図ったかのようにリビングのドアが開いた。
ようやく帰宅するのだろう。
葉月が近づいてきて、俺はすっと道を譲った。
すでに21時を過ぎている。母さんのことだから、タクシーを呼んでいるだろう。
そんな俺の思考を読んだかのように「おばさま、タクシーは呼ばなくて大丈夫です。」とリビング内に向かって葉月は声を張り上げた。
「あら大丈夫?」とドアの向こうから顔を出した母さんは、俺の顔を見て意味深に笑うと「ちゃんと送ってあげてね」と見送りもせずにリビングに戻ってしまった。
最悪だ、と蹲りたくなるのをなんとか壁に寄りかかって耐える。
(どうしてこうなる?)
葉月の思惑どうりなのかもしれない。
「送ってくれないの?」
葉月は上目遣いで小首を傾げる。
「・・・駄目・・・? 松下センパイ・・・?私、あの・・・」
その言い方や仕草はとても意図的で、どこか馬鹿にしたような雰囲気でいっぱいだった。だからこそ、それが何を意味するのかわかってイラッとする。
「・・・」
「くうの最近のお気に入りの真似をしてみたんだけれど?」
くすくすと微笑む葉月に「誰のこと・・・」と思わず手で顔を覆った。
瞳が剣呑になるのを誤魔化す為だったのだけれど、葉月は俺が笑い出したいのを堪えていると思ったようだ。そっと右腕に触れてシャツをひき、甘えるように身を寄せてきた。
慣れたボディタッチに寒気が走る。
「やめろって。」
なんとか声を荒げずに呟くと、葉月は拗ねたように言い返した。
「結局、くうが幹事したんですってね。随分お気に入りじゃない? あの子といい雰囲気になってたって、噂になってるわよ。」
なんのことを言っているの? と問い返すのも面倒だった。
新歓コンパのことだと、わかってはいたが・・・。
多分、ゼミの誰かが話したのだろう。
それを咎める気もないし、葉月の言葉に反論する気はない。
突然振られた幹事に戸惑う彼女を放って置くことができなかったのは事実だし、未だに近づくことができなかった彼女へのアプローチに利用したのも本当だ。
だからと言って、思うように親しくなれたわけではないけれど――それでも、彼女の視界に入る機会が増えたことは大きな進展と言えた。
どこか怖がられていることに気づいていた。
怖がらせないように距離をとって、それでも接点を失わないように意識する自分に驚いていた。
だから、葉月が提案した"幹事"という役割に困惑する彼女に、声をかけた。
緊張は伝わってくるけれど、口元が嬉しそうに綻んでいることに気がついた。
話をできる距離に近づき、異性として意識されたくて。
(こんな感情、初めてだ・・・)
名前を呼んだ瞬間の表情も、眼鏡を取り上げた時の反応も、そして自分が彼女だけには酷く意地悪な気持ちになってしまうことや、どこか痺れを伴う胸の疼きに抗うことができないことも。
自分はこんな風になることを恐れていたのかもしれない、と改めて感じていた。
自分でコントロールしきれない感情は厄介だ。
『俺達ってそら繋がりだったんだな・・・』
そう言った瞬間の、伊藤の表情が脳裏に焼き付いている。
驚いたような顔が徐々に赤く染まっていく。『なんだか嬉しいです・・・』と呟かれた時には、誰にも見せたくないという衝動に駆られた。
無言のままに手をおろし葉月に視線移せば、不満を露わにした瞳がじろりと見上げていた。
「どこがいいの? あんな子・・・」
「葉月・・・」
「くうには似合わない。」
そうかもしれない。
あのこには、俺は不釣り合いなのかもしれない。
人付き合いが不得意で臆病になってしまうのは、人と向き合うことに真剣だから。
俺や葉月とは正反対だ。
誰とでもソツなく付き合えるというのは、必ずしも他人に対して真摯に向き合っているわけではない。
だからこそ、俺は彼女が苦手だったんだから。
それでも、もう、あのこの存在を無視することなんてできない。
「どうして? 私、やり直したいって言ったわ!」
「できないって。」
「っっ! どうしてよっ! だって、今まで私の言うことはなんでも聞いてくれたじゃない!」
(その方がラクだったから、だ)
「ちょっと毛色の変わった子で遊んでみたかったんでしょう? 私。それを咎めたりしないわよ? 今までだってそうだったでしょう!?」
「落ちつけよ」
感情のこもらない声で呟くと、葉月ははっとして無理に口角を上げようとした。
取り乱してしまったことが、悔しいらしい。
「あんなオンナに、くうは・・・」
「――俺たちはもう終わったんだよな?」
聞きたくなくて、葉月の言葉を遮る。
ここまで葉月を拒絶したことは今までなかった。
葉月は問いには答えず、唇を噛み締めた。
多分、これ以上彼女のことを持ち出されたら、俺は冷静でいられなくなる。
しばらく口を噤んでいた葉月は「でも、友人でしょう?」と挑むような口調で返えした。
「家に来たことが気に入らなかったの? 友人として遊びにきたつもりだったのに。」
「それなら、口を挟む問題じゃないよ?」
「でもっ!」
「・・・葉月がどう思おうと・・・俺は彼女に魅かれてるよ。」
ふいっと視線を逸らされる。
カフェテリアで話して以来、葉月とは学内で会うことはなかった。
葉月からのメールは短い言葉しか返していなかった。仲間内の飲み会にも行かなかったのが裏目に出たのかもしれない。
もっと、俺の態度を強くアピールすればよかったんだろう。
俺たちが元に戻ることはないんだと。
「だから」
「でも、女友達を夜道にひとりで帰らせるなんてできないでしょう?」
唇の端をあげて妖艶な笑みを張り付けると、「私たち、別れたけれど、友達でいるって約束よね?」と葉月は腕を組んで言った。
こうなると葉月は退かない。そしてこんなことでやりあう気力はすでに削がれてしまっていた。
「・・・駅まで送るよ。」
溜息交じりに呟いた言葉に、葉月は「ありがとう」と瞳を細めた。
* * *
別れ際に、今日のお礼をするなんて言っていたから、その電話なのかもしれない。
だとしたら、応える必要はない。
葉月がどう思うと、俺にとってはもう終わった関係。
胸がざらつくような感覚に眉を顰めると、教授と目が合ってしまった。
慌てて携帯を机の上に置いて見渡せば、うららかな日差しにまどろむ受講生の中で、唯一人、俺だけがしっかりと教授に向き合っていた。
「ま、松下先輩っ・・・!」
講義を終え欠伸を噛み殺しながら廊下に出ると、小さな声で名前を呼ばれた。
酷く焦ったようなその声に鼓動が跳ね上がり、足がぴたりと止まる。
何故だろう?
ざらついていた感情が、急に凪いで行くのがわかる。
それと反比例するように、胸がとくとくといつもより早く拍動し始める。
振り向かなくても誰かわかる。わかるけれど、短い悲鳴と共にバサバサと何かを落とす音がして、それは確信に変わった。
「ご、ごめんなさい・・・!」とお決まりの台詞が聞こえ、思わずくすりと笑みが零れた。
今までの・・・半年前の自分なら多分気がつかないフリをしただろう。
あの頃は、姿を見かけるだけでよくわからない感情で苛立つことが多く、そんな自分のペースを乱す存在にはなるべく関わりあいたくなかったのだから。
それなのに、いつの間にか、俺の心の中には、彼女だけの領域ができてしまっていた。
名前を呼ばれることが――ようやく名前を呼んでくれるようになったことが驚くほど嬉しいだなんて。
(野住に知られたら、一生からかわれる・・・・)
不思議な空気を吸い込みながら振り向く。
本を拾い上げてもらい真っ赤になりながら「ありがとうございます」と受け取って、伊藤は俺の方へ駆けてきた。
思わず指を通したくなる滑らかな髪が、肩で跳ねてふわりと落ちる。
眼鏡の奥の瞳と視線が絡むと、彼女は3歩手前で立ち止まった。
「こんにちは。」
穏やかな気持ちでそう言うと、彼女は頬を染めて「こ、こんにちは。」とぎこちなく頭を下げた。
(まだ、緊張するのか)
少しは近づいた筈だったのに、と凹む自分に驚く。
少しずつ距離を縮めて、意識させるように接近した。
自分からそんなことをするのは初めてで、だからこそどれだけ本気になりかけてるのかがよくわかっていた。
(・・・警戒されてる、とか?)
しかし、彼女の瞳には警戒するような怯えは見られない。ほっと安堵しながらも、そんなことを気づかせないような声で「どうしたの?」と訊ねる。
「あ、この間の会計報告ができたので、」
「え!?」
取り出された用紙をまじまじと見つめ、俺は苦笑するしかなかった。
「う、え、、あの、私また・・・?」
「ごめん、俺がちゃんと言わなかったから。会計報告書作らなくてよかったんだ。」
一人2千円ずつ集めた会費+教授からのカンパで行われたコンパ。
1次会で僅かながら残った分は、2次会へ流れるメンバーに渡した。
俺にとっては今年で3回目となる新歓コンパだけれど、過去2年間で会計報告はその場で口頭で伝えて終わりで・・・いや、それすらなかった。
「わっ、じゃ・・・あの、忘れてくださ・・・!見なかったことに・・・!」
予約時にフルネームを名乗ったことと言い、本当に。
「伊藤は、可愛いね。」
「う、わぁっ・・・!」
思わず零れた感情に、伊藤は耳まで真っ赤になって俯いてしまった。
せっかく伊藤が書いてくれた会計報告だから、と、カンパしてくれた小早川教授に報告に行くことにした。
二人でいれる時間を少しでも長くしたかったから。ひとりで行きます、という彼女に他にも用事があるから、なんて言い訳して。
研究室には4年生が相談に来ていたので、俺と伊藤は鵜沢女史の手伝いをして過ごした。
いつの間にか4年生は居なくなっていたというのに、図書室に本を返しに行かされたり、カフェにコーヒーを貰いに行ったりと、散々こき使われてしまった。
ようやく報告ができたのは、すでに夕闇があたりを包みだした頃だった。
教授は伊藤の報告書に自分の判を押し「楽しかったですか?」と俺たちを交互に見つめた。
「楽しかった、です・・・」とふにゃりと笑った伊藤に、教授は「よかったですねえ」と目を細めた。
そして俺に近づき「やっぱり、まかせて正解でしたね」と小声で耳打ちし悪戯っぽくウィンクした。
「・・・あ!」
廊下を並んで歩いていた伊藤が、急に声をあげた。
俺はその声に驚いて立ち止まり、窓の外を見つめている伊藤に「どうかした?」と首を傾げた。
「先輩っ! あれ!」
突然腕を掴まれ、どきりとする。
伊藤はそのまま俺の腕をひき、中庭に通じる扉を開けて外へ出た。
暗闇の中、あちこちの研究室から漏れる明かりで霞桜がぼんやりと浮かび上がっていた。
「先輩、ほら、見てください・・・!」
「あ・・・!」
淡雪が・・・白い可愛らしい霞桜が、1つ咲いていた。
その枝の上にも蕾が見える。
「もう咲かないかもしれないけどって、鵜沢さん言っていたんです。よかった・・・咲いたんですね。」
「・・・霞桜の伝説を知ってるの?」
俺の問いかけに「え?」と不思議そうに視線を移した伊藤は「ひゃっ・・・!」と声をあげて、俺を掴んでいた右手を離した。
「し、知らないです、ごめんなさい、」
「謝らなくていいよ」
(伝説を知らないことも、腕を掴んだことも。)
春の冷たい風が、火照った頬に心地よく感じる。
そっと、手を握った。
びくり、と体が強張ったのを感じる。
でも、知らないフリで囁く。
「"その年初めて咲いた桜を一緒に見たふたりは結ばれる"んだ。」
狼狽している彼女に、言い含めるように告げた。
小さく震える手に俺の心も震える。
何も言えずに俯いていた伊藤は、伺うように視線を上げた。
ふっと笑みを深めると、伊藤はどうしてよいかわからないという顔をしたけれど、繋がれた掌が握り返された気がした。
めぐる季節の中で、春は特別なものになった。
2010,9,29up
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