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恋愛事変







誕生日を前に、私は失恋した。
失恋と呼べるのかどうかすら怪しいけれど、かなりの痛手になったのは確かだった。
昨日まで私の右手の薬指には、誇らしげにダイヤが輝いていたのに。
今更、こんな仕打ちってないよ。
世の中って、なんて不条理なことを起こしてくれるんだろう?
握り締めた封筒。
今ここで、ばらまいてやろうかしら・・・!




出版社のパーティーなんて、普段は招待状すらお目にかからない。
私のように、まだ駆け出しの・・・ありていに言えば『掃いて捨てるような』三流作家には、華やかなパーティーのお誘いなんてものは、皆無に等しいのだ。

せっせと書いては、ダメ出しをもらう。
読者アンケートに添って、テーマを与えられては、自分の書きたいものとのギャップで苦しんで、その割にはちっとも面白くなくて担当編集者にも呆れられてしまうのだ。

人気も今ひとつの売れない作家

文字書きを生業にしているのに、自分を評する言葉はこれに尽きてしまうところが悲しい。

それでも、私は人生の喜びに浸っていた。

三十路を前に、大学やら高校時代の友人たちは、バツイチ生活まで華やかに謳歌しているというのに、それまでの私は出会いの「で」の字さえなくて、先の見えない仕事への不安と、田舎から母がヒステリックに叫ぶ「結婚」に怯えていた。

そんな私の担当に、今まで畑違いな政治経済を取り扱う雑誌【Political 】から転属になった彼・三上 康太が宛がわれた。
小説なんて読んだことあるんだろうか?という体育会系の康太は、引継ぎもないまま私の担当になりました、と馬鹿正直に挨拶をした。

「僕、あなたのことまったく知らないんですよ。今までに何冊本を出されたんですか?」
「・・・」

普通仕事で、それも仮にも編集者として配属された職場の、自分が担当する作家(ええ、世間様に名前も知られてないような無名の人間でも)のことくらい、少しは調べてこないか・・・?

「久我 ミチル・・・って本名ですか?」
絶句してしまった私をまじまじと見つめて、「う〜ん、やっぱり知らないなあ」と眉間に皺を寄せて呟く。

――いくらなんでも、なけなしの私のプライドも一気に砕けるってもの。

「・・・編集長、ついに、私を放り出すつもりなんだわ。」
涙が零れそうになって俯いた私を不思議そうに覗き込んで、康太はばんばんと背中を叩いた。
「それは僕も困りますよ!放り出されるとしたら、僕も一緒でしょうからね。さあ、これからいいホン作ってくださいね!」
「いっ・・・!」

なんて無神経で、乱暴なオトコ!!

悪態すらつけないほど叩かれて。
不健康そのものの私の細くて魅力ない体は、今にも折れてしまいそうだった。
・・・・だけど。
康太の大きな、健康そのものの手で叩かれているうちに、私はなんだかお払いでもしてもらったかのように、心が軽くなっていくようだった。

繊細な文章に憧れて、透明度のあるお話しが好きで――そんな作風、あちこちに溢れていて。
今更珍しいものでもない、新鮮味の欠ける文章しか打てなかった私にとって、康太との出会いはセンセーショナルだった。

第一印象は最悪だった、無骨な大きな力強い手は、次第に『救いの手』に思えるようになった。
「息抜きも必要ですよ」
と言って、真っ直ぐ射抜くような日差しの下に連れ出しては、自分はごろんと昼寝をしたり、
「上手いラーメン屋見つけたんですよ!」
なんて言っては、私をたたき起こして連れまわした。
それまで文章に対して技巧的・的確なアドバイスしてくれた編集者と違って、康太は実に型破りだった。
編集者というよりも、お節介な隣人のよう。
偶に思い出したように作品の進み具合を尋ねては、お世辞にも仕事に熱心とは思えない素振りで目を通した。
文芸作品とはなんたるか、なんてことではなく、康太自信が読みやすいかどうかでアドバイスをする。
・・・というより、本当にただ感想を言って聞かせるだけだったが。
連載を抱えるわけでも、雑誌に載るという約束があるわけではない。

そんな無名の作家のもとに足繁く通う編集者なんて、居ないのに。

不思議に思いながらも、私は突然押しかけては連れ出してくれる康太を心待ちにするようになっていた。
書上げたあとに、「センセー面白いこと考えてるんですねえ」と背中を叩かれると、なんだか心地よくて。

今、冷静になって考えれば、なんておかしな展開だったろう。
他の編集者は、私の作品なんて気にも留めていなかったのだ。
康太は、そう、あんなに率直そうに見えて、行動はすべて計算されていたのだ。
さすが政治経済で活躍していた、というべきか。
そんなこと、知る由もなかった私は・・・本当に、世間知らずだった。

それでも、その時の私は肩の力が抜けて、久しぶりに、好きなものを好きなように書ける喜びで満たされていた。
――売れないことには、変わりなかったけれど。
毎日のように家に訪れる康太と、いつの間にか一線を越えていた。
それすら、おかしなことなんだけれど。
すっかりのぼせていた私は、受け取った婚約指輪と、これから康太と築いていく結婚生活の甘い夢に溺れていた。

康太が、その後暗く沈みがちだったことも、私と会うたびに苦しそうな表情を見せていたことも、私は見て見ぬフリをした。

さすがの康太も罪悪感を感じていたのだろうか。
あまりに馬鹿な女で、憐れに感じたのかもしれない。

そうして、康太は私の担当から外れた。
それと同時に家にも寄り付かなくなった。
「結婚するから」
「今忙しいんだ」
携帯で伝えてくるそんな理由を鵜呑みにするほど、私は浮かれていたのだ。


康太から、招待状が届いたのはそんな時だった。
パーティーは私の誕生日の前日で。
パーティーに呼ばれたのが初めてだった私は、なけなしの貯金・・・康太との新婚生活に、と切り詰めたお金でドレスを買った。
これを結婚式にも着まわそう・・・なんて考えたりして。
右手に康太からもらった指輪をつけて。
それはもう、誇らしい気持ちで。
なんのパーティーか、それすら知らないまま。


真相は、いたって簡単だった。

何度か持ち込みに来た時に、多くの人が頭を下げていた重役さんたちや看板作家さんたちが、康太を囲むように立っていた。
それは不思議な光景で、心なし康太の方が傅かれているかのように思えた。
そこには、私が一番恐れる編集長も居て。
康太の肩をポンポンと叩きながら笑っていた。
私は久しぶりに会えた康太に駆け寄ることも躊躇して、その輪を少し離れた場所に立っていた。
場違いな自分に気づくのが、遅すぎた。
もう少し、早く気づけば、あんな言葉を聞かずに済んだのかもしれない。

唐突に私の耳に飛び込んできた、編集長の皮肉なまでの一言。

「三上君がロンドン支社に移る前に、うちで修行させて欲しいって言われた時には驚きましたよ。」
ロンドンシシャ?
「3ヶ月限定ですからね、あまり人気の作家さん・・・ええ、氏家先生のような売れっ子さんじゃあ、鈴華さんとデートする時間を持たせてやれないですしねえ。私もイロイロ悩みましたよ。」
リンカ・・・さん?
「まあ、でも、ただ三流作家の担当させるんじゃ、修行にはならないでしょう?」
編集長の眼鏡の奥で、冷たく光る瞳を見た。
ぞくり、と背筋に冷たいものがつたう。
そう、私は、あの眼が怖い。
「編集長に、『恋愛もまともにしたことない作家に、擬似恋愛させてやってくれ』って言われたときには、本当にどうしようかと思いましたよ・・・」
苦笑して頭をかきながら、康太は悪びれもせずに告げた。
「久我 ミチルと言いましたか?編集長も酷いことをなさる。」
悪意の欠片も感じないその言葉に、私は自分の存在そのものが『まったく価値がない』と言われているような虚無感に襲われ、背中を向けた。

康太の裏切りよりも、騙されていた自分の愚かしさに腹が立った。
泣き崩れてしまうほど、康太を愛していたわけでもないことに、傷付いた。

――私は、ただ、認めて欲しかっただけなんだ・・・

似合いもしないブランドのドレスにくるまれて、私はただ自分を認めてくれる人が必要だったんだ。
自嘲的な笑みが零れて、私は歩き出した。
背後で一際華やかな歓声と拍手があがる。
「さすが元華族のお家柄ですよね。」
「鈴華さんは会長が溺愛されるお孫さんですからね。」
「この出版社が、元財閥だったなんて、僕知りませんでしたよ。」
「まだ入社したばっかりだもんな。」
「この婚約パーティーの後、三上君についてロンドンへ行くそうだよ。」
様々な声が聞こえては、すり抜けていく。
私は会場を後にした。
「・・・ばいばい、康太。」
私に笑顔をくれた康太は、この世に居ないのだ。
そう考えると、なんだか可笑しくなった。

とんだ誕生日イヴ。

私に残ったのは、似合わないドレスと普段は履かないパンプスに使い勝手のないバック。
「そして・・・」
呟きながら、右手を見つめる。
偽りの輝きを見せるダイヤモンドの輝き。

郵便ポストに、康太からの手紙が届いていた。

想いのほか綺麗な丁寧な字で書かれた手紙は、この茶番への彼なりの贖罪の気持ち。

結局のところ、それに理解を示してしまえる自分は・・・彼を愛してはいなかったのだ。




私は人のごった返す駅前を見下ろす歩道橋の上で、封筒を握り締めた。
右手にはあの輝きはない。

「忘れられない誕生日よねえ・・・」
呟いて、空を見上げた。

真っ青な空。
皮肉なくらいの青空。
私は、感傷に浸ることも許されないのか・・・

「お願いしますー!」
週末だと言うのに、学生服の少年たちが声を張りあげている。
街頭募金なんて、まだやってるんだ・・・。
「募金、お願いしますー!」
「交通事故で・・・・」

冷たくなってきた風が吹く。
どれくらいの時間、ああして声を張りあげているのか、少年たちは道行く人に声をかける。

・・・あれって、進学校の海聖高校の制服だよね。
ボランティアにも力入れてるんだ・・・
社会って厳しいよねえ。きっとかったるいだろうに、ご苦労様デス。

ぼんやり考え、私は封筒の中を覗き込んで、立ち止まる人もまばらなその少年たちに視線を戻した。
「・・・・・・・・私には、必要のないものだよね。」
軽くなった右手で封筒を握りなおして、私は少年たちに歩み寄った。
「募金、お願いします」
私と同じくらいの身長の、まだあどけなさが残る男の子と目が合った。
最近の高校生は、なんだかみんなジャ○ーズに居るんじゃないかって思う綺麗なコが多い。
よくよく見れば、なんだ、みんな美形。
そういう子たちが募金活動させられてるんだろうか?
そんなことを考えながら、私はそのコに封筒を手渡した。
「はい、どうぞ。頑張ってね」
「えっ?」
驚いた顔をしたままの彼らに背を向けて、私はなんだか晴れ晴れした気持ちで歩きだした。

私にとっては偽りのダイヤモンドだったけれど、それはれっきとしたダイヤの指輪で、50万円にもなったのだ。
・・・康太にとっては、たいした額じゃなかったのかもしれないけれど。

「お姉さん!こんなっ、ちょっと、待って!」
腕を掴まれて、私は驚いて振り向いた。
封筒を握り締めた少年が、私の腕をきつく掴んでいる。
見かけによらず力強いその指先に、私はただ彼を見つめた。
「こんな大金、募金しちゃっていいんですか!?お姉さん、お金大事にしなくちゃ、ダメじゃないですか!」
育ちのよさを感じるその誠実な言葉に、私は思わず微笑んだ。
「ちゃんと、遣ってくれるんでしょう?困っている人に。」
私が言うと、彼はまじまじと見つめて苦笑した。
「・・・わかりませんよ?こんな大金。お姉さんにしたらたいしたお金じゃないかもしれないですけど、僕らにとったら大金です。
ネコババするかもしれないですよ?」
私は真剣なその表情の瞳を見つめ、また笑った。
「私にとっても大金よ。でも、私には・・・必要ないお金なんだ。」
「おい、天野!どうしたんだよ!」
一緒に声を張りあげていた少年たちも駆け寄ってきて、私たちを不思議そうに見つめた。
「・・・じゃあ、お名前教えてください。僕は海聖高校3年の天野 柚斗です。」

胸の中で、今まで感じたことのないざわめきが起こる。
言葉では表せない、甘い感覚。

「わ・・たしは、久我 ミチル。」
「久我、ミチルさんですね。」
彼、天野君は、ゆっくりと私の名前を呟くと、それまで握り締めていた腕を掴む指先から力を抜いた。
「ごめんなさい、痛かったですか?」
私が知らずにその腕をさすっているのを見て、天野君は申し訳なそうに言った。
「大丈夫、平気、なんでもないよ。」
慌てて私が言うと、天野君は満面の笑みを浮かべて頭を下げた。
「ミチルさん、募金、ありがとうございました!」

一回りも年が違うオトコノコの瞳に、一瞬吸い込まれそうになって驚いた。

何かが、始まるような気がしていた。
それは生まれて初めて感じる・・・もの。
でも、それが私のこれからに大きく関わってくるなんて、その時の私には想像がつかなかった。

――私の、恋愛事変。





おわり


2006,10,28


ふじさきさんへ捧げます。







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