汝は我が娘を我が物にせんとした、憐れな人よ。
報いを受けるがいい。
その娘は我の宝。
その暗褐色の瞳から流れる涙は、呪いの紅玉。
娘を陵辱した罪は、天に刃向かう愚かな行為。
破滅をもたらす、この娘を、汝は妻に迎えよ。
そしてその一族が滅ぶまで、娘は天界に戻れぬ。
宝を穢した人も、穢れを許した我が娘も。
我は許さぬ。
最早、この世界には混沌と戦しか残らぬ。
天の神たるこの王を、背いた罪。
しかし、今は封印しよう。
長い年月の中で、再び娘が甦り、呪いの紅玉を流す時。
天は人を裁くであろう。






涼やかな風が、微かに汗ばんだ寝間着を肌から少しだけ開放する。
暗闇に沈むはずの庭園を仄かに蒼く浮かび上がらせるのは、頭上で淡く光る月。
映し出すのは幻想的な紺の影。
ざわめく低木が、まるで私を付け狙う刺客のように道を塞ぐ。

ここは、どこだ?

考えるまでも訊ねるまでもない。
ここは私の庭園。
なのに、初めて訪れたかのような感覚に、自らの居場所さえ見失う。
ただ甘い香りが漂う。

ここは、どこだ?

小さく枝を踏みしめた音に、咄嗟に身構える。
月明かりに誘われたのか?それとも妖かしに誘われたのか?
腰刀を置いてきたことに思い当たり、袖ぐりに手を潜めた。
冷たい感触が心拍を幾分抑えてくれた。
「・・・・誰だ?」
月夜に出歩いた私が迂闊であったのだ。
しかし、簡単に命を差し出すわけにはいかない。
悲しむ者など、居ないとわかっていても、無用な争いの火種となることは本位でない。
風がぴたりと止んで、木々のざわめきは消えた。
息を飲む気配とその身の纏う香りが、月明かりの下で潜む位置を私に正確に伝えた。
月を背に受ける形で、僅かに距離を縮める。
「誰だ?」
答えはない。
気配は複数ではない。
「誰だ、と問うている」
じゃり、と砂利を引き下がる音がした。
先手必勝。
忍ばせた懐刀を鞘から抜き取り、相手が動く前にひらりと宙に舞う。
「っ!?」
声を失いどさりと座り込んだその後ろに舞い降り、喉仏に冷たい切っ先を押し付ける。
「ひっ・・・・!」
「・・・お前は、誰だ?ここで、何をしている?」
甘い香りは流れるような黒髪からでなく、その体から放たれていることに気づき、酔いしれそうになる。
これは南方の秘術であろうか?それとも西方の人心を操るや薬術か?
刀を握り締める手に再び力を込め、瞳を細めて周囲を伺う。
ようやく、ここは庭園の中央に位置する池の東側であることに思い当たった。
この辺りには、警備が行き届いていないことがよくわかる。
私が月夜に舞ったというのに、警護の者は誰一人と気づいていない。
これは重大な落ち度だ。
私がいくら警護の目を盗むのが上手いとはいえ、だ。
「どこから来た?目的は私の命か?それとも父上の?」
蓬色の薄衣を震えさせて、小さく頭を振るのが精一杯というように、その者は声を出さなかった。
あまりガタガタと震えるので、知らず刃は白く浮かび上がった喉下を傷つけ、ぽたりと涙のように落ちた血が、衣に紅い染みを広げた。
危害を加えるつもりは、ないのだろうか?
それでもまだ、この状況が安全と言い切れるわけではない。
「このまま命を落としたいか?」

その言葉に弾かれたように、くるりと振り返り、見上げてきたその瞳は。
闇の赤。
恐怖で見開かれているのに、気高い何かを感じさせた。
吸い込まれそうな不思議な瞳に、息を飲んだ。
透き通るような白い肌に、真っ黒な髪が纏わりつく。
月明かりに照らされたその姿は、まるで伝説の竜王の娘のように美しい。
一族を破滅に追い込むという、恐ろしく美しい女。

口を開けて何か言おうとするのに、声にならず、喉元からは血が滴り落ちる。
思わず息を詰めて、娘を見つめた。
それは、涙を紅玉にかえるという、竜王の娘のようでぞくりとさせた。
この者が刺客だというなら、なんて恐ろしいことだろう。
身分あるものであることを示す耳飾がきらりと光った。
年の頃は・・・まだ十を越えたばかりであろうか?
この娘は、後宮に仕えているのか?
見かけた覚えはない。
しかし、この広大な後宮では、私が見知らぬ者のほうが多いだろう。
私を知らぬ者はいないだろうが。
「・・・こんな真夜中に、ここで何をしている?」
背中に刃を向けたまま、私は小さく柔らかな胸の膨らみの間から、銀色に輝く切っ先が飛び出してくる姿を思い描いた。
「あ・・・わ・・・たし、ご・・・・めな・・・っ」
私の想像とは裏腹に、娘は頭を垂れてそして服従の証の口付けを私の靴に施す。
幼き頃から不快に感じていたその儀礼に、しかし、今はどこかほっとしている己に気づいた。
娘は震えながらゆっくりと頭を上げ、私に懇願の瞳を向けた。
「皇子さ・・・ま、申し訳あ・・・りませんっ」
私は感情を表に出さない瞳で、娘を見下ろした。

どうやら刺客ではないらしい。

この恐怖や服従が演技であるというなら、これからは、全ての後宮の人間を敵と思わなければならないだろう。
浮かび上がるその姿は・・・確かに妖しのようにも思える。
震えれば震えるほど、この娘は香気を放つことに気がついた。
血の匂いと合い間って、それは酷く心を乱す。
滴り落ちる温かさにようやく気がついたように、娘は白く小さな手で喉下に触れた。
「っ・・・・!」
真っ赤に染まった手を見つめ、恐々と私を見つめた。
「あ・・・・あ・・・・・」
まるで張り詰めていた糸が切れたかのように、娘は意識を手放した。
思わず差し伸べた手の中に、娘は倒れこんだ。
まるで羽のように軽く、私は何故か小さく胸が痛んだ。
「皇子の問いに最後まで答えぬとは、忠誠心のない娘だ」
不思議なことに私の胸の中で狂おしいほどの熱が生まれて締め付けた。
自らの刃で傷つけた白く儚い喉下が、小さく上下する。
掻き切るつもりであったのは、刺客の喉下。
こんな幼い娘を傷つけるつもりなどなかったのだが。
「私の庭で、まるで息を潜める刺客のように、振舞った罰だ。」
言い訳のように呟いて、私は寝所に戻ることにした。
娘の落とした血の雫が、まるで月に引寄せられるように上っていくのを・・・私は気づかなかった。




我は許さぬ。
最早、この世界には混沌と戦しか残らぬ。
天の神たるこの王を、背いた罪。


しかし、今は封印しよう。
長い年月の中で、再び娘が甦り、呪いの紅玉を流す時。
天は人を裁くであろう。








2006,5,22




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