イオ ( Chapter3) 1
南太平洋の柱が騒ぎ出した時、これは、と思った。
鮮やかな七色の光が海柱から迸り、そのままある一点目掛けてみるみる光の道を
作っていく。すぐに分かった。海将軍の復活だ。二人目の海将軍の復活から約半年、
この光の道の先から三人目の海将軍がやって来るのだ。

カノンの眼が期待に蒼く輝く。
鱗衣を装着し、矢のような速さで虹色の道を突き進んだ。背後から、二人目の海将軍
リュムナデスのカーサが慌てて追いかけてくる。暫く進むと、光の道がふいに途絶えた。
今度は、光の柱となって真っ直ぐ海面へ登っていく。ここだ、と確信した。

カノンが思わず拳を握る。
今度こそ、大人の海将軍がやってくるに違いない。今ならまだ間に合う。黄金聖闘士共は、
未だ大半が幼い餓鬼だ。知力体力に優れた大人の海将軍が復活すれば、そいつを使って
一気に黄金の餓鬼共を叩き潰す事が出来るのだ。
胸に再び希望が湧き上がる。滾るような思いで遥か頭上を仰ぎ見た。

カーサの時と同じく、黒い人影がゆらゆらと揺れながら落ちてくる。
その影が、一向大きくならない。
波に揺れる淡紅色の髪がはっきり判別できる程近付いても、その影は小さく細いままだった。
三人目の海将軍の身体が、ゆっくりと海底に降ろされていく。
己の腕の長さにすら満たない小さな身体。その姿を、カノンがポカンと見下ろす。
カーサより更に子供だとか、子供どころか幼児だとか、そんな事よりまず先に、


「・・・・・・・・・・・死体?」


子供の顔は、元の顔色が判らぬほど青黒い痣だらけだった。



「いや、俺も本当はちょっと思ったけどさ、まさか口に出すとは…」
カーサが首を振りながら言う。
「事実死体に見えたのだ。仕方なかろう。」
カノンが憮然と答える。カーサがまぁね、と軽く頷いた後、気を取り直したように尋ねる。
「・・・・で、どうなんすか?こいつ、助かんのか?」
カノンが一層憮然として答える。
「分からん。仮に助かったとして、その先どうなるかも分からぬ。」
「・・・・そっか」
ボソリと呟いた後、まぁ、これじゃなぁ、とカーサがベッドに横たわる子供を見て
溜息を吐く。
それに合わせるように、カノンも大きな溜息を吐いた。

酷い有様だったのだ。
服を脱がせてみれば、痣だらけなのは顔だけでは無かった。体のあちこちに、青と赤の
痣が無数に広がっていた。子供らしい肉付きなどまるで無く、赤黒い鬱血の広がる胸は
肋骨の形がそのまま飛び出していた。その無残な様は、悲惨な痣の色と相まって、地獄図に
出てくる死肉を漁る悪鬼のようだった。
指の何本かは奇妙な方向に折れ曲がって明らかに骨折しており、それを治そうとした形跡
すら無かった。

地上で多少の医療を修めていた海闘士を呼び出し、子供の有様を見せると、男は絶句して
幾つかの薬品の名を言葉少なに伝えてきた。
回復するか、と尋ねると、男は困ったように「分かりません」と答えた。
外傷はともかく、この痩せ方は尋常ではない。もしも相当の間、脳に栄養がいかなかった
とすれば、と深刻な脳障害の可能性を示唆して黙り込む。
分かった、と頷き、この件は他言無用と男を下がらせた。そして、部屋の外で様子を
窺っていたカーサを呼び寄せ、二人で昏々と眠る子供の顔を見下ろした。

やべぇよなぁ、とカーサが独り言のように呟く。
全くだ、と思った。
やばいどころでは無い。何の悪い冗談だ。カーサの時の衝撃の比では無い。あの時は
カーサがただ「子供」だっただけだが、今回は下手をすればこのまま回復も見込めぬ
死に掛けの餓鬼だ。しかもカーサよりずっと幼い。幼いというより、幼児そのものだ。
たとえ無事回復したとして、一人前になるのに一体何年かかるのだ。

思わずメインブレドウィナに向かって毒づいた。
ポセイドンめ、何故このような面倒な餓鬼を。俺の野望どころか、貴様自身の計画すら
危ういではないか。一体、貴様本気で地上を制圧する気があるのか。
海将軍が増える度、条件が厳しくなっていくではないか。


…が、愚痴をこぼしていても始まらぬ。
カノンが二度目の溜息を吐いてベッドを見下ろす。
とにかく、この餓鬼を少しでも回復させねば。でなければ、話にならぬ。
もう行け、とカーサを部屋から出し、眠る子供の額にそっと自分の手をあてた。土気色に
かさついた皮膚の下から、子供の体温が微かに伝わってくる。その温度が、到底幼子とは
思えない程低い事に、また大きな溜息が洩れた。

二週間経っても、子供はベッドに寝たきりだった。
あれから更に幾つかの骨折が見つかり、急遽医務官を兼務する事になった男の説明では、
それが治るまでは、起き上がれなくとも不思議は無い、との事だった。
だから、それについてはそれほど問題は無い。
問題は、子供自身に何の反応も見られない事だった。
ベッドに仰向けになったまま、棒の様に動かない。二日後に瞼を開いたものの、その瞳には
何の光も浮かんでいなかった。ガラス玉のように無機質な眼球は、ぽっかりと見開いたまま、
一日中天井を映し続けていた。

日が経つにつれ、脳障害を疑う医務官の予測がどんどん悲惨なものになっていく。
やはり知能が、視覚が、聴覚が、と様々な障害の可能性を暗い声で並べ立てていく。
挙句、このまま一生、この半植物状態の可能性も、と沈鬱な表情で告げてきた。

思わず嘆息した。
半植物状態。聖域であれば、とっくに死体として堀に投げ込まれている状態ではないか。
カノンが聖域に居た頃を思い出す。
聖衣を巡って、血みどろの決闘が繰り返される聖域の闘技場。敗者達は肉を裂かれ、骨を
砕かれ、血反吐を吐いて地面に倒れ伏していた。
大抵の敗者は、手当など受けられなかった。まだ息があろうが無かろうが、全て「死体」
としてゴミの様に堀に投げ捨てられていた。それが当たり前だった。聖域に、敗者や
弱者は要らぬ者だからだ。
要らぬ者は、命もろとも排除する。
その冷酷な論理が、聖域の常識であり、現実だった。

最初から双子座の黄金聖闘士として別格扱いだったサガなどは、そうした聖域の残酷さに、
それほど実感は無かっただろう。
が、自分は違った。
自分にとって、その冷酷な切り捨てぶりは恐怖以外の何物でもなかった。
何故なら、自分もまた聖域にとって「要らぬ者」だったからだ。


黄金聖闘士と同等の力を持つ。それは裏を返せば、黄金聖闘士を倒す力を持つ、と言う事だ。
面倒な余り者。
サガが生きている限りは不要だが、造反されれば無駄に脅威となる厄介な存在。
何時でも、堀に投げ込む気だっただろう。
俺が「俺」として生きようとすれば。「サガの代替品」である事に、僅かでも不満の素振りを
見せれば。
あっさりと俺を始末し、血塗れの死体を堀に投げ込んだだろう。
「要らぬ者」を処理する事に、何の躊躇も無かっただろう。

この餓鬼も、俺と同じだ。
こんな半植物状態の餓鬼など、聖域ではただの厄介者でしかない。役立たずの不要物
として、とっくに堀に捨てられている所に違いない。
そんな事をつらつらと考えながら、無表情に横たわる子供の頬に何気なく指を触れた。
と、ほんの一瞬、子供の眼にチカリと光が走った気がした。


おや?、と子供の頬にもう一度指を触れた。
今度は、眼球に光は走らなかった。無機質に見開かれた紅色の瞳は、何時もの通り鈍く
虚ろなままだった。
その変わり、ごく僅か瞼が痙攣した。
並外れた動体視力を持つ自分でなければ、多分見落としていただろう程の微細な痙攣。
ぐいとベッドに身を乗り出した。真上から覆い被さるように、子供の正面にぴたりと
自分の眼を合わせた。

目線を合わせたままの姿勢で、カノンが子供の瞳をじっと見詰める。
注意深く眼を凝らすと、自分が瞬きする度、子供の瞳孔がほんの僅か収縮するのが分かった。スッと眼を反らして視線を外すと、今度は瞼が微かに痙攣する。確信した。分かっている。
この眼は、俺が見ている事を分かっている。決して自分からは眼を合わさず、人形のように
身体を強張らせながら、俺の視線をきちんと捉えている。
思わず両手で眼下の小さな頬を挟み込んだ。自分でも思いがけない程、深々と喜びに満ちた
声で語り掛けた。




「お前、眼が見えるのだな」



凛と切れ上がった蒼い瞳が、嬉しげに笑み崩れる。長い指で子供の頬を押さえながら、
見えるのだな、俺の姿が判るのだな、とはしゃぐように繰り返した。


そうしてるうち、子供の眼に段々と変化が起こってきた。
ガラス玉のように空虚な視線。それが、こちらが笑いかける度、少しずつ光を取り戻して
いく。暗闇で怯えながら手探りする様に、恐る恐る自分の瞳を見つめ返していく。
「おお」
カノンがまた喜びの声を上げる。見る間に確かになっていく子供の眼差しに、先程、「特に
視覚は…」と完全な諦め顔で語っていた医務官の言葉が脳裏に蘇った。
思わず、はは、と声を立てて笑った。ぐいと手を伸ばして、子供の頬をもう一度両手で
しっかりと包み込んだ。端正な顔一杯に笑みを浮かべ、うむ、と大きく頷く。
「良い眼ではないか。お前、中々負けん気が強いのだな。それでこそ海将軍スキュラよ。」
ははは、と可笑しげにまた声を立てて笑い、触れんばかりに顔を近づけて確認する。
「丈夫な、良い眼だ。俺の姿が、見えているのだな?」

子供がパチリと瞬きした。
ああ、視線が合ったな、と思った。
「良い眼だ。」
またその言葉が唇から零れた。初めて自分を見返した瞳。鮮やかな夕焼け色の虹彩は、
子供の淡紅色の髪に良く似合っていると思った。
子供がチラリと目線を下にずらす。
自分の唇の動きを追ってるのだ、と気付いたカノンが、にっこりと唇を綻ばせる。すっと
人差し指を立て、子供の眼の前でゆっくりと左右に振った。きちんと動きを追ってくる
紅色の瞳に、より一層相好が崩れた。すいすいと指を泳がせて遊んでいると、ふいに背後
から戸惑ったように声を掛けられた。
「・・・・何やってんだ?シードラゴン。」











イオ2
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