眩暈 4


「美味い!美味いですよ、カカシさん!」
肉を一口噛んだイルカが、感激して叫んだ。
「俺、こんな美味い肉初めて食いましたよ。やっぱり高い肉は違いますね!」
「そりゃ良かったねー。」
二人で吟味して買った酒を呑みながら、カカシがニコニコと笑う。
立ち上る湯気越しに見るカカシの笑顔は、ひどく優しげに見えた。

夕飯の後、風呂に入った。
さっぱりとした身体に、改めて呑み直ししようと酒を取り出した。
「カカシさん、もう一杯どうです?」
「んー。もういいや。」
そう言いながら、カカシがごろりとイルカの膝に頭を乗せる。イルカは笑って、まだ湿っている銀色の髪を
指で優しく梳いた。

静かな時間が過ぎていく。
カカシが手を伸ばして、イルカの指をゆるゆると弄ぶ。時折、その指を口元に引いてキスをする。
それをただ、繰り返した。

時計の音が、部屋に響く。
イルカはちらりと時計を見上げた。
あと、15分。
そろそろ心の準備をしなければ。そう思ってカカシの身体をそっと揺すった。
「すみません、ちょっと起きてもらえますか。」
カカシがむくりと起き上がる。イルカはその眼前にぴたりと正座した。
「今のうちに、礼を言わせて下さい。カカシさん。今日はありがとうごさいました。」
「・・・いきなり、どうしたの?そんなに肉、美味かった?」
カカシがからかうようにイルカの頬を引っ張る。ふと、胸が痛くなった。
この優しい手が、日付の変わった瞬間、俺を容赦なく殴るのか。
この穏やかな瞳が、俺を軽蔑した眼で見下すのか。

一日、随分馴れ馴れしい態度をとったと、自分でも思う。
奴隷と思う相手にそんな態度を取られるのは、耐え難い事だったに違いない。
それでも、この男は一日辛抱してくれた。優しい恋人を演じてくれた。
自分に夢を見させてくれた。その夢で、自分は愛を掴んだ。
だから、この夢が覚める前に礼を言いたい。
この幻の恋人が消える前に、自分の気持ちを伝えたい。

「あと15分で、終わりですね。」
「15分?」
カカシが振り返って時計を見上げる。
「俺の願いをかなえて下さって、本当に感謝してます。俺、今日の事を一生忘れません。終わる前に、
それだけ伝えたかったんです。」
イルカがにっこりと笑って顔を上げる。カカシが不思議そうに首を傾げた。


「終わるって、何が?」


イルカが眼を瞬かせる。
「・・・・・?この関係です。一日だけの、約束だったじゃないですか。」
「約束?」
さっぱり分からない、といった口調でカカシが繰り返す。銀色の眉を不審げに顰めて口を開く。



「なに言ってるの?俺達、ずっとこうやって付き合ってきたじゃない。」



愕然とした。
「・・・・・カカシさん、俺を、からかってるんですよね?分かってて、言ってるんですよね?」
震える唇で、確認する。カカシがいっそう困惑した顔になった。
「え?何が?イルカ先生こそ、俺をからかってるの?俺達、ずっと恋人同士だったでしょ?」
視界がぐらりと歪んだ気がした。
「俺達はそんな関係じゃありません。そうでしょう?カカシさん、分かってるんでしょう?」
必死で言い募るイルカに、カカシが眼を丸くする。突然、ハッと何かに気づいたように顔を上げた。
「俺、何か先生の気に障るようなことした?したんだね?だからそんな事言うんだ。」
ぎゅっとイルカの手を握り締めて、真剣な眼で訴える。
「ねえ、何が嫌なの?言ってよ。直すから。お願い。アンタと別れたら俺、生きていけない。」

カカシがイルカの身体を抱き寄せる。
「やっと、こうなれたんじゃない。・・・・俺ね、本当はこうして先生と付き合えるようになるなんて、
思ってなかった。アンタは何時もナルトのことばっかで、俺のこと、見ようともしなかったから。」
縋るようにイルカの肩に顔を埋める。
「俺、アンタを見た時、やっと見つけたと思ったよ。俺が今まで無くしてきたもの、全部アンタの中に
あるんだって分かった。なのに、アンタは冷たくて。やっと知り合いになれたのに、何時でも他人行儀に
一線を引いて、俺を受け入れようとしなかった。」
抱き寄せる腕にぐっと力が篭る。
「俺はアンタじゃなきゃ嫌なのに、アンタは俺じゃ嫌なんだ、って思うたび、気ぃ狂いそうになったよ。
・・・・・ねえ先生、どうしてあんな酷い事言ったの?」
「・・・・酷い?」
ようやっとイルカが口を開いた。カカシが顔を伏せたまま頷く。
「ナルトがいなくなったら、それきりって。・・・・俺、我慢しようって思ってた。アンタと時々話せて、
時々笑ってもらって、それで我慢しようって思ってた。だけど、それすら許してもらえないなんて。
・・・・そんな酷いことある?」
「・・・カカシさ・・・・・」 
突然、カカシがうっとりと満ち足りた溜息をついた。
「・・・アンタに好きだって言われた時、ホント嬉しかった。ねぇ、どうしてもっと早く言わなかったの?
俺の事好きなのに、なんであんな酷い事言ったの?」
「・・・・カカ・・・・」
カカシが明るい声をあげた
「でも、いいよ。許すよ。だって今、俺幸せだから。先生と付き合えて。それなのに、どうして終わりなんて
言うの?俺達、すごく幸せにやってきたでしょ?」

全身から血の気が引いていく。
からかってるのだと思いたかった。カカシは自分を騙して、からかってるのだと。
「カカシさん、覚えてないんですか・・・・?」
震える声で、縋るように聞いた。
「何を?」
カカシが首を捻る。純粋な疑問を浮かべる瞳に、背中から冷や汗が吹き出た。
「初めて俺の家に来た時のこと・・・・貴方は突然訪ねてきて・・・」
「ああ、覚えてる。」
カカシが照れたように笑った。

「イルカ先生、「お帰りなさい」って言って抱きしめてくれたよね。嬉しかったなぁ。」

身体がガクガクと崩れそうになった。嘘だ。まさか。そんな。
「そ・・・れは、今日のことです。貴方が初めて来たのは、半年前です。その時、貴方は・・・」
乾いた喉に唾をごくりと押し込んだ。
「俺を無理やり強姦しました・・・・・!」

「違う!」
カカシが鋭く叫んだ。イルカの肩を掴んで必死で訴える。
「何でそんなこと言うんだ!?アンタは俺を受け入れてくれた!俺を抱きしめてくれたんだ!」
「違います!貴方は俺を殴りつけて・・・」
「嘘だ!そんな酷いこと!俺はアンタが大事なのに!大事で、大事で、本当に大切にしたくて・・・・
そんな事、するわけない!!」
「血を流してる俺を朝まで強姦し続けて・・・」
「違う!!」
「俺を奴隷だって言いました・・・!!」

カカシが呆然とイルカを見詰める。整った白い顔には、血の色が全く無かった。
やがて、カカシはひどくゆっくりと唇を開いた。
「・・・・嘘、でしょう・・・・?」
「嘘じゃない。貴方はそうやって、俺を暴力で支配し続けたんです。」
「・・・・いや。嘘だよ。」
カカシが静かに言う。その落ち着いた声に含まれる何かに、イルカはハッと顔を上げた。
「やっと分かった。イルカ先生、怒ってるんだね。それで、腹いせに俺を苛めてるんでしょう?
何だろう。俺、何かしたかな?」
困ったように、カカシが宙に視線を彷徨わせる。
「そんなひどい作り話するほど、怒ってるの?ごめんね。もうそんな、苛めないでよ。」
「!作り話なんかじゃ・・・・!」
カカシが微笑む。
「作り話だよ。俺はアンタを愛してるし、アンタも俺を愛してる。それが本当。」
「違う!!俺は、憎んでた!俺を強姦した貴方を、殺したいくらい憎んでた!!」
焼け付くような焦燥に駆られて叫んだ。カカシの笑みがいっそう深くなる。
「ホント、どうしちゃったの?イルカ先生。そこまで言われたら、いくらなんでも傷つくよ俺。」
「カカシさん・・・!貴方は俺を慰み者にして・・・・!」
「だから、そんなの嘘だよ。」
カカシの声に苛立ちが混じる。
「嘘に決まってるでしょ?何でオレがそんなことすんの。こんなにイルカ先生が好きなのに。」
「嘘じゃありません!」
「嘘だよ。」
「嘘じゃない!」
「嘘だ。」
「嘘じゃない!!」
「・・・嘘。嘘だよ。」
カカシの眼から、突然感情がストンと消えた。人形のような白い顔で、機械のように叫びだす。

「嘘だ!!嘘だ!!嘘だ!嘘だ!嘘だ嘘だ嘘だ嘘・・・・・」

銀色の身体がぐらりと揺れる。


「カカシさんっ!!!」


一声叫んで、カカシの身体を抱き止めた。
「嘘です。俺の話は全部、嘘です。カカシさんの言う通りです。俺達、付き合ってました。」
矢継ぎ早に言って、腕の中の銀髪を何度も撫ぜた。
「すみません、すみません。もう大丈夫ですから、落ち着いて。」
しがみついてくる身体を、安心させるように叩く。カカシは全身ガタガタと痙攣させていた。
「大丈夫。このまま、ゆっくり呼吸して下さい。そう、そうやって。もう、大丈夫ですから。」
そう言って、震える背中を撫ぜ続けた。
カカシがイルカの胸元をぎゅっと掴んで顔を伏せる。そのまま、カカシはその手を離そうとしなかった。


暫くして、やっとカカシの震えが収まった。
イルカにしがみ付いたまま、少しだけ顔を上げる。
「びっくりした・・・・イルカ先生があんまり酷いこと言うから・・・すごく、驚いた・・・」
小さな子供のように頼りない口調で言うと、またイルカの胸に顔を埋める。
「・・・すみません。俺が悪かったです。」
イルカが謝ると、カカシは責めるような口調で言った。
「ほんとに、びっくりした。もうあんなこと言っちゃ、駄目だよ?」
「・・・・・はい。すみません。」
全身を包むように抱きしめて答えると、カカシは顔を埋めたまま、深い安堵の溜息をついた。

いつから。いつからだ。
嵐のような混乱に見舞われながら、イルカが必死で記憶をたぐる。
玄関でずぶ濡れになりながら、「恋人」の自分をどう迎えるのかと、冷たい眼で笑ったカカシ。
あの時はまだ、この男は確かに正気だった。自分が何をしてきたか、これから何が始まるのか、
理解していた。

その後、今すぐにやりたいと自分を掻き口説いた時も、まだ正気を保っていたと思う。
その口調は、僅かに芝居がかっていた。そのセリフは、常に読んでいる猥褻な冊子から抜き出した言葉の
ように思えた。
けれど、その仕草はあまりに熱っぽく、その演技力に感嘆した。ああ、カカシは本気で俺の頼み事に
付き合うつもりなのだ、と素直に嬉しかった。

だけど、もしかしたら。

もしかしたら、あの時既に、カカシの中で虚構と現実が交じり合っていたのか。
その虚構を助長する俺に、カカシはどんどん精神の軸を狂わせていったのか。
俺の欲望を自分の唇で吸い出して、無邪気な瞳で笑ったカカシ。
その瞳には、曇りが無さ過ぎた。澄み過ぎていた。
その事に、どうして俺は気付かなかった?


「ねえ・・・俺達、恋人同士だよね?」
小さな声が、胸元から聞こえた。不安なのだ、と思った。
夢の中で掴んだ手を、払いのけられようとした。残酷な現実を突きつけられようとした。
その事に、幼子のように不安がってる。
「そうですよ。俺達、恋人同士です。」
「・・・だよねぇ。・・・・ね、好きって言ってよ。いつもみたいに。」
「・・・・好きです。カカシさん、好きです。」
カカシがうっとり眼を閉じる。
「・・・・・うん。俺も。俺もアンタが大好き・・・・」

どうして!
どうして言ってくれなかった!!

叫びだしたくなるのを堪えた。
どうして言わなかった。言ってくれなかったんだ。
愛されたいのだと。
気が触れるほどアンタを愛してる、だからアンタも俺を愛してくれと。
絶望に駆られて最悪な手段に出る前に、どうして一言俺に打ち明けなかった!

カカシを狂ってると思っていた。
けれど、そうではなかった。この男は正気と狂気の、ギリギリの縁を歩いていたのだ。
カカシは一言も愛を囁かなかった。
暴力で人の身体を蹂躙する事が、許される事でないのを知っていたのだ。
愛は決してその言い訳にならない事を、知っていたのだ。
それをしてしまえば、後戻りできないと知っていた。愛を乞う資格は無くなると知っていたのだ。
だから、その道を突き進むしかなかった。
狂気じみた暴力と拘束で、俺を縛り付けるしかなかったのだ。

歪んだ論理だ。
許容されるものではない。けれど、それがカカシの最後の理性だった。最後の矜持だった。
それを突き崩したのは、俺だ。俺が、カカシを狂気に突き落としたのだ。涙が出そうになった。

昨日までなら。

昨日までなら、この腕を引き剥がす事ができた。
今更何を言うのだと、怒りに震えてこの男を足蹴に出来た。
俺の尊厳を目茶目茶にしておいて、ふざけた事を言うなと罵倒できた。

けれど、今日一日、この男を愛した。

銀糸のような髪を、抱きしめる長い腕を、囁く低い声を、心の底から愛した。
この男の、ナルトを気遣う優しさを見た。今なら分かる。ナルトに自分達の関係を暴露するという脅し。
あれは口先だけだったのだ。それを、知ってしまった。
壊れていくカカシを思わず抱きしめてしまった。大丈夫だと囁いてしまった。
もう俺には、この男を突き放す事は出来ない。

後悔が胸を焼いた。
こんな真似は、するべきでは無かった。こんな愚かな、残酷な真似は。

愛情とは、そんなものでは無かったのだ。
それはゆっくりと、辛抱強く育てなければならないものだったのだ。一朝一夕に手に入るものでは
無かったのだ。
一日限りと期限を決めて、無理矢理に作り上げるものでは無かったのだ。
その不自然さが、その歪みが、カカシをここまで狂わせたのだ。
カカシが悪くないとは言わない。カカシのやり方もまた、間違っていた。
しかし、この男をこんな状態に追い込んだのは、俺なのだ。この男の最も危うい部分を、踏みにじる
ように利用した。それが、俺のした事なのだ。

「ずっと、一緒にいようね、ずっと。」
甘えるようにカカシが言った。
「・・・そうだ、また先生のコーヒーが飲みたいな。俺専用のやつ。作って?いつもみたいに。」
あどけない程幼い口調で強請る。カカシが無意識につける「いつもみたいに」の言葉に、涙が溢れた。
この一日が、寄生樹のようにこの男の心に食い込んでしまった。
無理に引き剥がそうとすれば、生木を裂くようにカカシの心ごと切り裂いてしまう。
なんて残酷な。なんて愚かな。

「・・・・う・・・うっ・・・っ」
堪えても堪えても、湧き出す涙を止める事は出来なかった。
「どうしたの?何で泣いてるの?ねえ、どうしたの。」
カカシが驚いて顔を上げた。
「・・・・カシさん・・・カカシさん・・・っごめ・・っ・・ごめんなさ・・・」
「うん。もう大丈夫だよ。ごめん。驚かせたね。イルカ先生、泣かないでよ。」
今度はカカシがイルカを抱き寄せる。
「どうしたの。俺がここにいるでしょ?俺がいれば、何も怖くないでしょ?」
大きな手が、優しく背中に回される。どこか恍惚とした口調でカカシが囁く。
「ね。俺が守ってあげる。アンタをずっと守ったげる。ずっと一緒だよ。だからもう、泣かないで。」
「・・・・っカカシさ・・・っ・・!」
カカシの胸に顔を埋めた。カカシが愛しげに背中を撫ぜる。

ああ。

思わず眼を瞑った。絶望に胸が破れそうだった。身も世も無く大声で泣き叫びたかった。


カカシさん、俺は。



俺は、一週間後に死ぬんです。






END






※痛い系(にちゃんとなってるのか?)って難しい・・・。こんなつたない作品を読んで下さってありがとうございます。
ハッピーエンド大好き者なので、ここで止めずにハッピーエンドに無理やり持っていきそうになりました・・・(駄目じゃん)
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