シグナル 1 |
シグナルを見落としてはならない。 それは私の持論だった。 戦場から里に戻った忍が、何故駄目になるのか。 それは、シグナルを見落とすようになるからだ。 どんなに厳しい鍛錬を行っていても関係無い。里に留まる忍は、いずれ駄目になっていく。 薄紙一枚落ちる音すら聞き取っていた聴覚は鈍り、闇に一瞬瞬く短刀の反射をも捕らえた視覚は衰え、 振り下ろすクナイは間抜けに空を切る。 生と死が隣り合わせの戦場では、その感覚が生死を別つのだ。 ほんの僅かな予兆を嗅ぎ分ける者。危険のシグナルを読み取れる者。その能力を持つ者だけが、 生き延びられる。 その感覚は、戦地でしか手に入らない。 血で血を洗う戦場で培われる、研ぎ澄まされた刃のような鋭い感覚。 それは里に戻り、その緩んだ空気に触れているうちに、いつしか消え去ってしまうのだ。 それは致命的な欠落だ。 優れた忍術も、鍛え上げられた肉体も、危険のシグナルを見落とせば無意味になる。 ただ闇雲に戦うなら獣と同じだ。獣は罠にあっさりと嵌り、簡単に命を落とす。 だからこそ、女の身で、と言われながらも私はあえて戦場に身を置き続けてきた。 忍は所詮、一個の武器だ。ならば、私は常に最高の武器でありたい。里に戻れば錆びてしまう。 錆びた武器になど、なりたくはない そんなある日、派遣先の戦地に、突然休戦協定が結ばれた。 理由は、金だった。泥沼のように長引く戦いに、互いの国の懐が厳しくなってきたのだ。 私の隊は解散となり、久々に里に戻る事となった。 そして、私はあの男に会ったのだ。 巻物を探す為に訪ねた、古い倉庫の片隅だった。 扉を僅かに開いた途端、全身が総毛だった。一気に戦地に戻ったような気がした。 古ぼけた埃くさい空気の中を、じわりと滲むように伝わってきた気配。 それは、紛れもない殺気だった。 瞬時に自分の気配を消した。 その殺気は、ひどく微かなものだった。水に流れる一筋の墨のように、しめやかなものだった。 が、同時に心臓を押し潰されそうな重圧に満ちていた。 体中が警戒を訴えだす。この殺気は見落とすべきではない。軽んじるべきではない、と全身で警鐘を 鳴らしてくる。息を詰めて耳を澄ませた。 その張り詰めた静寂を、男の固い声が突然破った。 「嫌です。貴方の命令は聞けません。」 言い終るやいなや、男は宙に吹っ飛ばされた。男の身体が壁に叩き付けられる。巻物の束が、音を立てて その上に崩れ落ちた。解れた黒髪が、ばらばらと男の頬に垂れる。 そして、その頭上から、場違いなほど柔らかな声が降って来た。 「何で?別に難しいコトじゃないデショ?」 その落ち着いた声には、聞き覚えがあった。 戦場で、何度か耳にした声だった。 はたけカカシ。通称「写輪眼のカカシ」。忍の世界にその名を知られた、不世出の天才忍者。 エリート集団たる私達上忍の間でも、更に一目置かれる凄腕の男。 天窓から差し込む日光に、カカシの銀髪が絹糸のように輝く。口布に覆われた顔から唯一覗く右目は、 ゆっくりと瞬いている。静かな表情だった。たった今、チャクラを爆発させた名残など何処にも無い。 「・・・ねえ先生。頑固なのも、あんまり度が過ぎると馬鹿みるよ?」 あくまでも柔らかく、銀髪の男が問い掛ける。 「どうせ痛い思いするならさあ、股開いたって同じじゃない?・・・そっちなら、痛いばっかじゃ無いと 思うしね?」 気の利いた冗談でも言ったかのように、クツクツと小さく喉を鳴らして笑う。 「・・・いい加減にして下さい。」 男が巻物を払いのけながら言う。その口の端に血が滲んでいるのは、壁に飛ばされる前に既に 殴られていたからだろう。 「何度呼び出されても同じです。返事は変わりません。・・・そんなに飢えてるなら、手配しましょうか? 上忍専用の男娼を。貴方の好きそうなのも用意できますよ。サディストの変態専用のをね。」 挑戦的な響きに、間髪入れずにカカシが答える。 「それじゃ、面白くないデショ?」 睥睨するように男を見下ろし、群青色の瞳をにやりと歪ませる。 「上忍連中の前で、俺に食って掛かるような真似したアンタじゃなきゃ、面白くなーいね。 あんたみたいな生意気なのを這いつくばらせて、女みたいにヒイヒイ言わせるのがいいんだよ。 ・・・・それに、安いもんデショ?それで、あの一件のカタがつくなら。」 そう肩を竦めて言うと、にじり寄るように男の頬に自分の顔を近づける。 「・・・一回やれば、分かるよ。」 不快気に顔を背ける男の耳元で、カカシが掠れた声で囁く。 「あんたみたいな糞真面目な奴の方が、意外と嵌ったりするんだよ。ほんと、俺と一回やれば分かるよ。 あんたきっと、よがり狂うね。淫乱な女みたいに、もっと頂戴、って俺にお強請りするようになるよ。」 そう、一回やれば、一回やればね、とカカシが下品な歌のように繰り返す。 「・・・・・・近寄るな。反吐が出る。」 男が吐き捨てる様に言う。カカシの眼がすうっと細くなった。 「・・・ま、いーよ。先生、今日はこれくらいで止めてあげる。幸運だったね。俺、紳士だから。女の前じゃ、 酷い事したくないんだよね。」 カカシが扉の向こうをくるりと振り返る。そして、潜む私に当たり前のように話し掛ける。 「もういいよ。入ってきても。じゃ、またね先生。」 言い終わると同時に、飄々とした足取りで外に出て行く。その眠たげに淀んだ眼差しが、脇を通り過ぎる 瞬間、刃のように鋭く私を貫いていったのが判った。背筋がゾクリとした。直ぐに分かった。 この男は、錆びていないと。 はたけカカシは錆びていない。 あれほどの殺気を他に向けていながら、背後でほんの僅か扉が開く気配に気付いた。 外忍の習い性として、私は普段から極力気配を断っている。それでも、あの男は私に気付いた。 もし、私があの時、殺気の一欠けらでも纏っていたら、私の命は既に無かっただろう。 以前、はたけカカシが里に戻り、下忍達の担当になったという噂を聞いた時、私は残念に思った。 これで、あの男も錆びてしまうと思ったのだ。 が、それは間違いだった。 あの男は、今も戦場の感覚を忘れていない。研ぎ澄まされた刃であり続けている。稀有の事だ。 天才の名は伊達ではない、と思った。 それに引きかえ。 哀れみに近い軽侮の眼差しで、眼下に蹲る男を見た。 この男にも、見覚えがある。 昨日、受付にいた中忍だ。黒髪で、鼻に一筋の傷が横切る男。長期任務ご苦労様でした、といかにも 人の良さそうな、暖かく湿った瞳で私に微笑んでいた。 里の忍だと思った。毎日、日暮れには家に戻り、暖かな夕餉を楽しむ忍。 「・・・お見苦しい所をお見せしまして」 男が謝りなから立ち上がる。そして突然、血の滲む唇でにっこりと笑いかけてきた。 心配はいらない、と安心させるように。 嫌悪に身体が震えた。 何を馬鹿な。心配などしていない。私は呆れていたのだ。この中忍の愚鈍さに。 確かに、あの殺気は小さいものだった。決して倉庫の外には漏れぬよう、完璧に制御されていた。 しかし、あれは本物だった。本気のうねりを持っていた。 それがどんなに危険な事か、この男は一切感じていない あの殺気を受けながら、向こう見ずにも罵倒の言葉を吐いてのけた。私が偶然居合わせなければ、 床に散らばるのは書物でなく、自分の脳漿であっても不思議は無かったというのに。 今この男がすべき事は、一刻も早くカカシに追い縋って許しを乞うことだ。 それなのに、呑気にこんな所に留まって私に気遣うような笑みを投げかける。 愚かとしか言い様がない。里にいると、こんなにも愚かになってしまうのか。 あれほどの危険なシグナルを、何一つ感じなくなってしまうのか。 カカシがこの男を陵辱したいという気持ちが、判る気がした。 この男は緩い。緩みきっている。今の笑顔が何よりの証拠だ。あの笑顔は、私を貶めた。 中忍の分際で、最高の武器である上忍の私を、ただの人間に貶めた。 見知らぬ他人の傷を心配するような、生温い人間に。 この分を弁えない男を、カカシが思い知らせてやりたいと感じて当然だ。 無言で睨む私に、黒髪の中忍がもう一度深く頭を下げる。 失礼します、と言って痛む唇を擦りながら倉庫を出て行く。 その後姿を、ただじっと見送り続けた。 翌日から、私は毎日上層部に任務を掛け合った。 脳裏から、あの光景が片時も離れなかった。あの黒髪の中忍。シグナルを何一つ感じ取れない男。 このまま里に留まれば、きっと私も染まってしまう。 あの愚鈍な男と、同じになってしまう。 私の要望は、中々叶えられなかった。 上層部は先の休戦条約を、ほんの気休めと見ていたからだ。 彼らはやがて戦いが再開すると睨んでいた。再び任務の依頼がくると、冷静に見積もっていた。 だから、その地の事情に通じた私を、迂闊に他の任務につける事が出来ないのだった。 焦燥に駆られる私を見かねたのだろう。昔スリーマンセルを組んだ仲間が、たまには気晴らしを、と 私を酒に誘ってきた。 忍達が集う居酒屋は、相変わらず賑やかだった。 その中に、一際陽気な集団がいた。なんとはなしに目をやり、ふと手が止まった。 あの中忍だ。 この間とは打って変わった明るい表情で、大声で笑っている。薄っすらと酒に染まる頬が、いかにも 陽気で楽しげだった。 「な、うけるだろイルカ!」 隣の男が男の背中をドンと叩く。イルカという名なのか、とぼんやり思った。 イルカがうんうんと笑いながら頷く。同時に手の甲をすいと回し、酒杯を滑らかに口元に持っていく。 案外、綺麗な指をしていると思った。 地味な風貌な男だから、その指も無骨に詰まった野暮ったいものだと思っていた。 が、実際のイルカの指は、しっかりと節の長い、形良く整ったものだった。 「よし、今日は久々にとことん呑むぞ!」 突然、イルカが何かを吹っ切るように大きな声を出した。 「は?なんだ珍しいなー。お前がそんな事言うなんてー。」 「ひょっとして、女にでも振られたか?」 「え!?振られたの!お前!!」 一同がワッと盛り上がる。違う違うと慌てて首を振るイルカに、周囲が益々調子に乗って騒ぎ立てる。 可哀想になぁ、と大げさに慰めの表情を作って、次々にイルカの杯に酒を注でいく。 「馬鹿!違う!景気付けだ景気付け!!」 イルカが怒ったように否定する。 「景気付け?なんのだ?」 「あ!じゃ逆か!告白か!?女に告白すんのか!!」 「そうかー、ついに振られる覚悟を・・・」 「あー、それで無駄な気合を入れてるっつう・・・・」 「だから違うって言ってるだろう!つうか何で振られるって決まってるんだ!!」 イルカが大声で怒鳴る。けれどその怒鳴り声は、どこか隙があった。どこか、相手を許す甘さがあった。 だから、イルカが怒鳴れば怒鳴るほど、周囲は一層可笑しげに笑うのだった。 その楽しげな笑い声に、イルカも次第に怒るのが馬鹿らしくなったらしい。 ったく、と呟きながら、黒い瞳を柔らかく細めて仲間達に笑いかける。 その瞬間、以前感じた嫌悪感がみるみると胸に蘇るのを感じた。 何て緩い。何て癇に障る。 湧き上がる苛立ちに、苛々と机に指先を打ちつけた。 何て馬鹿な男だろう。 あの男は、本当に判っていないのだ。上忍に標的にされている、という自分の立場を、まるで理解して いないのだ。 少しでも自覚があるなら、こんな所に出てこないはずだ。 身を縮め、顔を青褪めさせ、里中をひたすら逃げ回っているはずだ。それが、上忍の怒りをかう、という 事なのだ。 それなのに、こんな人目につく場所で、あんな子供じみた騒ぎようを見せて。自分と同じく凡庸そうな 仲間達と笑い崩れて。 愚鈍な男。あれで忍か。あれが私と同じ、木の葉の忍の一員か。 考えれば考えるほど、苛々した。 まるで、自分が侮辱されてるような気すらした。 「どうした?」 唇をかみ締めて黙り込む私に、相席の仲間が戸惑ったように声をかける。返事もせず、イルカの姿を 見詰め続けた。楽しげに揺れる黒髪を、食い入るように睨み付ける。 その時、イルカがふっと私の方に振り向いた。 酒に濡れた黒い瞳に、僅かな驚きが浮かぶ。 くっきりとした眉が、困惑に僅かに顰められる。そして、次の瞬間、イルカは何事も無かったように、 スッとこちらから視線を逸らした。思わず席を立った。 「!?おい!何処に行くんだ!?」 慌てて呼び止める仲間の声が片隅で聞こえる。けれど、その言葉は殆ど耳に入らなかった。苛立ちが 私の心を完全に支配していた。その勢いのままに、一直線にイルカの傍に歩み寄った。 突然現れた私に、中忍達が驚いて顔を上げる。 暫くして、中の一人が呆けたように私の通り名を呟いた。途端、たちまち場の空気が緊張した。 そう。「写輪眼のカカシ」程ではないにしても、私にも通り名があるのだ。 戦場であれば、大抵の敵が顔を引き締めるような名が。 木の葉の下級の忍なら、こうして緊張に身体を強張らせるような名が。 私の怒気が伝わったのだろう。一人の男が恭しく質問してきた。 「・・・・私達は、失礼した方が宜しいですか?」 軽く頷くと、男達は音も立てずに席を立った。潮が引くように、静かにその場から去っていく。最後の 一人が消えた瞬間、イルカは静かにこちらを見上げた。黒い瞳をゆっくりと瞬かせながら、私に尋ねる。 「・・・・・俺に、何の御用でしょうか?」 |
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