シグナル 2 |
「何故逃げない。」 険しい声で問い掛けた。 「酒に酔って馬鹿騒ぎをしている暇があるなら、もっと真剣にカカシから逃げる算段をしたらどうだ。」 「・・・・・・何故、俺が逃げなければなりませんか?」 イルカがきっぱりと答える。理不尽な要求をしているのはあちらです、と硬い口調で言い放つ。 カッと怒りが湧き上がった。何を青臭い事を。そんな世間知らずの戯言で、私が納得するとでも 思っているのか。 「・・・・相手は上忍だ。お前が太刀打ち出来る相手ではない。向こう見ずな矜持は、身を滅ぼすだけだ。」 「・・・・だから?だから好きなように嬲り者にされろと?」 馬鹿馬鹿しい、と言わんばかりにイルカが私から顔を逸らす。一回深く溜息をつき、ゆっくりと私の方に 向き直る。 「・・・・お気遣い頂いて申し訳ありませんが、これは俺の私生活の問題です。」 慇懃に深く頭を下げながら、ビシリと撥ね付けるような口調で言う。 「俺がどうしようと、あなたには関係の無い話です。放っておいて下さい。」 「・・・・・は!」 鼻を鳴らして吐き捨てた。イルカの勝手な言い草に、吐き気がした。何を今更。何を今更「関係無い」だ。 あれほど、私を貶めておいて。 あれほど、私を不安に陥れておいて。 突き刺すようにギリギリとイルカの顔を見下ろした。 この男に言ってやりたい。 お前のその愚鈍さに、私がどんなに怯えたか。私がどんなに、お前に脅かされたのか。 片時も忘れられなかった。 殺気も露わに近寄るカカシを、盲目的な頑固さで拒否する血の滲む唇。 その唇から吐き出される、無謀で手酷い侮蔑の言葉。 呆れ果てて見下ろす私に、安心させるように浮かべた間抜けな笑顔。 そのどれもが、私を脅かした。そのどれもが、私を焦燥に追い込んだ。 唯一警戒を解ける場所であるはずの里で、袋小路に追われる鼠のようにもがかせた。 血と暴力の支配する戦場で、最高の武器、とまで謳われた私を。 その私を、闇に怯える子供のような、無様な人間に貶めた。 「・・・・大したものだな。木の葉の中忍は、いつからそんなに偉くなった。上忍相手に、自分の好き勝手が 通用すると思うようになかった。」 下位の立場を思い知らせるように、殊更に軽蔑を滲ませて尋ねた。イルカの瞳にさっと怒りの色が走る。 そのあからさまな反応に、胸の怒りが一瞬スッと収まった。一層高飛車に言葉を続けた。自分の言葉に イルカが苛立つ様が、もっと見たくて堪らなかった。 「・・・里の中忍とは、まるで寄生虫だな。外で命懸けの任務につく仲間の報酬で、のうのうと酒を呑んで。 ・・・それなら娼婦の方がまだましだ。娼婦なら、もっと自分の立場をわきまえてる。上忍相手に、小賢しい 理屈を振りかざしたりはしない。」 嘲笑うように、高く結ばれた黒髪を見下ろした。イルカが血の気が引くほど唇を噛み締める。苦々しげに 眉をぐっと顰め、瞼を伏せたまま深く俯く。 まるで、私の事が不快で堪らないように。 私の姿など眼に入れたくない、とでも言うように。 また怒りが湧き上がった。中忍風情が、何て不遜な。 そんな事が許されるものか。 命令があれば、汚泥の中でも這いつくばり、反論一つせず頭を垂れる。それが下の者の勤めだ。 厳しい命令系統に支えられた忍の世界。その世界で、中忍が上忍を無視して眼を逸らすなど、決して あってはならない事だ。 が、色を失うほど固く結ばれた唇を見れば、イルカがもう、一言も私と口をきくつもりが無いのは 明白だった。たとえ今、私がクナイをその首に突きつけても、この男は決して俯いた首を上げようと しないだろう。深く伏せた瞼を開こうとしないだろう。 その眼に私が映る事を、頑なに拒否し続けるだろう。 歯噛みしたくなった。 どうにかして、この男の顔を上げさせたい。この男に思い知らせたい。 自分の拒絶など、意味が無いと判らせたい。 焼け付くような焦燥に、胸を掻き毟りたくなった。全身から湧き出る怒気が、みるみるうちに私を厚く包む。 その怒気を、イルカに向かってそのまま叩き付けた。 それでも、イルカは顔を上げようとしない。上忍の怒気を間近で浴びるのは、一介の中忍には過酷な 重圧に違いない。それなのに、睫毛一つ動かさない。悔しさのあまり息が止まりそうになった。 どうしたらいい。どうしたら、どうしたらあの顔を。あの瞼を。あの眼を。 脳裏にその言葉が狂ったように回り続ける。そんな私の叫びも空しく、イルカが一層深く俯く。 私から完全に眼を逸らしたまま、机に置いた拳を固く握り締める。さっき綺麗だと思った長い指が、 今は激しい怒気を耐える為に白く血の気が引いている。ふと思った。 もし。 もし私が、その指を口に含んだら。 その長い指を、この唇に含んだら。 突然浮かんだ考えに、激しく心臓が狼狽した。 馬鹿な。何故私が。何故私がそんな事をしなければならない。 自分の中の理性が唖然と叫ぶ。 それなのに、その言葉を聞いた途端、全身の血が沸騰した。 堰を外された急流のように、沸き立つ熱が私の全身を暴れまわった。 もし、もし私がその指を口に含んだら。想いを込めて、その指を唇に含んだら。 そうしたら、きっとイルカは見てくれる。 私の事を、見てくれる。 理性の糸が、ふつりと焼き切れるのを感じた。 見てくれる。イルカが。私を、私だけを見てくれる。 その言葉に、みるみる全身が焼け爛れていく。 爛れ落ちる血肉の奥から、心の奥底で潜んでいた欲望がはっきりと姿を表す。 そうだ。ずっと、ずっとそうだった。ずっとそれが、私の望みだった。 あの日、血の滲んだ唇を見た瞬間から。手酷い侮蔑の言葉を聞いた瞬間から。 優しい眼で、笑いかけられた瞬間から。 ずっと、イルカが欲しかった。 片時も忘れられなかった。 昂然とカカシを拒む、あの黒い瞳を。 生真面目に結ばれた唇から滴る、赤い血の艶やかさを。 戦地の刃に過ぎない私に、心配はいらないと笑いかけた優しい笑顔を。 その全てを、片時も忘れる事ができなかった。 イルカが欲しくて堪らなかった。 あの赤い血を、私の舌で拭いたかった。あの黒い瞳でもう一度、私に笑いかけて欲しかった。 私の為に笑ったイルカに、私も同じ笑顔を返したかった。 里にいれば錆びてしまう武器でなく、イルカの側で笑う人間になりたかった。 あの優しい眼差しに見詰められる、たった一人の人間になりたかった。 けれど同時に、怖かった。 刃の力の通用せぬ、黒い瞳が怖かった。手酷い拒絶の言葉を吐く、赤い唇が怖かった。 イルカの言葉に、心を切り裂かれるのが怖かった。 この里から、イルカから逃げだしたい程に怖かった。 イルカが欲しい。 イルカが怖い。 イルカといたい。 イルカから逃げ出したい。 その相反する感情に、心を滅茶苦茶に掻き回された。 イルカから逃げようと足掻きながら、そのイルカを欲し続ける、自分の執着が恐ろしかった。 「・・・・・ふ・・」 突然、イルカが小さく息を吐いた。 広い肩が安堵したように落とされる。自分の怒気が消えたのだと判った。イルカが僅かに腰を浮かす。 去ろうとしているのだと思った。ようやく、私の気が済んだと思っているのだ。 仲間内の楽しい酒の席に、突然割り込んできた女上忍。上に歯向かう愚かさを、傲慢な口調で説かれる 不愉快な時間。そんな不快な時間が、やっと終わったと感じているのだ。 嫌だ。違う。そうじゃない。 否定の言葉が気狂いのように駆け巡る。その間にもイルカが机に両手をついて立ち上がろうとする。 激しい狼狽に頭の中が白くなった。 「・・・・逃げる気か?つくづく気楽だな。寄生虫は寄生虫らしく、少しは上の命令を素直に聞いたらどうだ。」 罵倒の言葉が勝手に唇から漏れた。 同時に、心底馬鹿にしきった微笑が、条件反射のように頬に浮かぶ。 「・・・ならいっそ、本物の男娼になったらどうだ?お前の言う、『上忍専用の男娼』とやらに。」 嫌味な揶揄の言葉が、淀みなく口から流れていく。一旦浮かしかけた腰を、イルカが諦めたように また椅子に下ろした。そして、さっきより一層不快気に眉を顰めて俯く。固く閉じられた唇の奥で、 奥歯が苛立たしげに噛み締められるのが分かった。 だって貴方が、去ってしまう。 身悶えして思った。だって貴方が去ってしまう。もういいと貴方を赦せば、貴方はたちまち去ってしまう。 その黒い瞳に私を映さないまま、私から遠く離れてしまう。 突然指など舐めれるものか。私達はまだ、ろくな会話も交わしていないのに。 そんな事をすれば、異常な色情狂だと思われてしまう。異常な色情狂など、きっと二度とイルカに 取り合って貰えない。 私に許されたのは、この侮蔑の言葉だけ。 貴方の怒りをかうだけの、醜い侮蔑の言葉だけ。上の立場を利用した、聞くに堪えない放言だけ。 それしか、貴方を繋ぎ止める手段が無い。 「・・・その方が、里の寄生虫でいるより余程役に立つ。力も無いくせにいきがる馬鹿ほど、腹の立つ 者は無い。そうだろう?」 ああ。違う。怒らないで。どうか、これが私の本心だと思わないで。この酷い言葉の裏で、私がどんなに 貴方に焦がれているか。どんなに、貴方に笑いかけられたいと思っているか。 「・・・なんなら、私が使ってやってもいいぞ?正直、女は男より性の捌け口を見つけるのに苦労する。 専用の男娼が手に入るなら、私にとっても都合がいい。」 ああ貴方。この下卑た口調に騙されないで。私は貴方を悦ばせる術を知っている。くの一は皆、そういう 手管を叩き込まれる。私は余りに戦闘に長けていたから、それを使った事は無い。けれど、貴方になら。 イルカが吐き気を催したように、はっきりと嫌悪を滲ませて私から顔を背ける。悲しみに目の前が 暗くなった。 違う。違う違う違う。一度寝れば分かる。一度でも私と寝れば、この侮蔑の数々が嘘だと分かる。 私は全身で、貴方の事を悦ばせる。 躊躇いなく貴方の欲望を口に含み、根元までねぶるように舐めあげる。恥らいもなく貴方の上に跨って、 貴方の愉悦を引き出す為だけに腰を振る。熱く濡れる黒髪に指を絡ませ、快楽に喘ぐ唇にしもべの様に 口付ける。 そうすれば、貴方はきっと分かってくれる。 愛が無ければ、こんな真似は出来ないと。この上忍は、自分を愛しているのだと。 今までの酷い態度は、すべて欺瞞だったのだと。 貴方の気を引きたいだけの、哀れな虚勢だったのだと。 掻き口説くように、胸の中で必死にイルカに呼びかけた。 一回寝れば。一回寝れば分かる。あなたが一回、私と寝れば。 『一回やれば、わかるよ』 『ほんと、俺と一回やれば分かるよ。』 電撃に撃たれたように立ち尽くした。 あの、銀色の男。 一回やれば、と何度も何度も言っていた男。 イルカを嘲り笑いながら、執拗に繰り返していた男。 一回やれば、一回やればね。 何度呼び出されても同じです、と突き放すイルカに、壊れた機械のように繰り返していた男。 慄然と身体が震えた。 馬鹿な。そんな馬鹿な。 私はあの男と一緒だと?あの男は私と同じだと? 私とあの男は、同じ思いを抱えていると? 一回寝れば。 一回やれば。 そうすれば、貴方はきっと判ってくれる。 そうすれば、貴方はきっと判ってくれる。 愛が無ければ、こんな真似は出来ないと。この上忍は、自分を愛しているのだと。 愛が無ければ、こんな真似は出来ないと。この上忍は、自分を愛しているのだと。 今までの酷い態度は、すべて欺瞞だったのだと。 今までの酷い態度は、すべて欺瞞だったのだと。 ただ貴方の気を引きたいだけの、哀れな虚勢だったのだと。 ただ貴方の気を引きたいだけの、哀れな虚勢だったのだと。 ぐらぐらと歪む視界に、身体が崩れ落ちそうになった。 でも。 震える拳を必死で握り締めた。何とか自分を立て直そうとした。 でも、たとえ本当に、そうであったとしても。 本当に、カカシがそう思ってたとしても。私達は、等しく同じものを欲しているのだとしても。 それでも、あの男は不利だ。 私より、遥かに不利だ。 だって私は女だ。 男の欲望を受け入れるように出来ている。イルカになんの苦痛も与えず、快楽だけを与える事ができる。 イルカは同性相手に欲情する男ではない。そのイルカをよがり狂わせるなら、方法は一つしかない。 イルカの中に強引に入り込み、あの一点を掻き回すしか。 けれど、そのやり方は、どうしても苦痛を伴う。 どんなに注意を払っても、痛みが無くなる事は無い。 第一、イルカが喜んでカカシの指を受け入れるものか。 たとえその先にどんなに深い快楽があろうと、そこを同性に探られる事を良しとする男がいるか。 ましてカカシ自身を受け入れるなど、イルカは考えただけで鳥肌が立つだろう。 カカシの望みは滑稽だ。 カカシはイルカに、股を開けと詰め寄るしかない。暴力よりはいいだろうと、哀れな二択を迫るしかない。 カカシには、私の手段は残されていない。最も単純で、最も有効な手が残されてない。 自ら股を開いて、イルカの欲望を誘う手が。 焦燥が胸を黒く焦がしていく。 早く。早くイルカと寝なければ。一刻も早く、イルカを手に入れなければ。 カカシに奪われる前に。 色に狂った女と思われてもいい。上忍の地位をかさに男を漁る、愚かな女だと思われてもいい。 この人を誰にも渡したくない。カカシなどに渡したくない。この人は、私だけのものだ。 固く握られた掌に手を伸ばした。想いの丈を込めて名を呼ぼうと唇を開いた。 「イル・・・・」 「お取り込み中、わるーいねー」 突然、飄々とした声が背後から聞こえた。 弾かれたように振り返った。そして硬直した。カカシが立っている。黒い口布に顔の殆どを覆い、 半眼を虚ろに瞬かせた、いつもの表情で。 |
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