シグナル  3





カカシがじり、と一歩進む。その途端、酷い血臭がむっと周囲に立ち上がった。ハッと息を呑んだ。
気付かなかった。
私が。この私が、この強烈な血臭に気付かなかった。動揺に心臓が激しく脈打つ。
この生臭い、はっきりとした匂いに。
まるで器官を潰された獣のように、気付かなかった。


「・・・・驚いた?何で?って顔してるね、先生。」
一歩ずつゆっくりと近寄りながら、カカシが可笑しそうに眼を細める。
「・・・・どうし・・・・だって、あなたは・・・・」
イルカが呆然と呟く。カカシがそれに楽しげに答える。
「うん、そーだよねぇ。三ヶ月くらいかかる任務だって、五代目が言ってたもんねぇ。・・・だけど、そうも
いかなくなっちゃったんだよねぇ。だってほら、あんた達が付けてくれた工作部隊。あの中にね、」
カカシがまた一歩進む。茫洋とした口調に、ふっと厳しい響きが混ざる。
「裏切り者が、いたんだーよね。」

イルカが思わず腰を浮かす。カカシが、ああ、大丈夫大丈夫、と片手を振る。
「吃驚だよねぇ。気付いたら、周り中敵なの。・・・・それで俺としても、ちょっと荒っぽい手を取らなきゃ
いけなくなってねー。屍累々ってヤツ?ま、そのお陰で、一気に片付いちゃって。」
ふふ、と自慢気な忍び笑いが口布越しに漏れる。
「凄いデショ?三ヶ月のSランクを、三日だよ?三日で敵の一部隊、丸々殲滅したんだよ?」


呆然としたままのイルカに、カカシが蒼い眼をにやりと歪ませる。
「・・・・残念だったね。俺、こんな早く帰ってきて。俺、帰って真っ先にあんた探したよ。あんたが俺見て、
どういう顔するかと思ってさ。それ、見てやろうと思って。」
いかにも楽しそうに言ったかと思うと、ふいに何かを思い出したように、くすりと喉を鳴らして笑う。
「・・・・だって先生、嬉しそうだったもんねぇ。俺が三ヶ月もいないって聞いて。早速祝杯上げてたの?」
机上に散らばる徳利を、目の端でちらりと眺めて尋ねる。
「んじゃ、俺も混ぜてよ。俺の帰還祝いも、一緒にしようよ。」
ね、と血臭漂う身体で、カカシが馴れ馴れしくにじり寄る。イルカがまた不快気に眉を顰めた。銀髪の
上忍がちょっと困ったように首を傾げる。
「・・・臭い?着替えてから来いって感じ?・・・・でもね、しょーがないんだよねぇ。着替えても無駄なの。」
カカシがニコリと微笑む。



「これ、俺の血だから。」



スローモーションのように、銀色の身体が崩れ落ちる。
両膝がガクリと床に折れ、逞しい身体が朽ちた大木のように倒れていく。
店内に悲鳴と皿の割れる派手な音が響き渡った。



イルカの行動は素早かった。
考えるよりも早く身体が動いた、という感じだった。一息でカカシに駆け寄り、床に広がる身体を
肩を掴んでひっくり返す。銀色の頭を自分の膝の上に乗せ、ベストの前を千切るように開く。そして、
長い指で黒いシャツを一気にたくし上げる。
その瞬間、イルカが大きく息を呑んだ。

シャツの下から現れたカカシの身体は、酷い有様だった。
筋肉の張り詰めた右肩はざっくりと抉られ、熟れた柘榴のようにぐずぐずと肉を崩れさせていた。
「・・・・手当ては!!?なぜ、手当てをしてないんです!?」
イルカが悲鳴のように問い掛ける。
「・・・・動かさないでよ。チャクラでやっと、これ以上血ぃ流れないように抑えてんだから。」
カカシが苦しげに口布を指で下ろしながら、大儀そうに答える。言い終わると同時に、疲れ果てたように
瞼を閉じる。口布の下から現れた顔は、ひどく整っていた。
けれど同時に、ひどく血の気が引いていた。
形良く引かれた薄い唇は、まるで死人のように白く蒼ざめていた。
それは、危険な血の減少を示していた。
もう一滴も無駄に出来ないほど、体内から血が流れ出てしまった事を示していた。

「・・・!医療班を!!」
イルカが周囲を見渡して叫ぶ。たちまち何人かの忍がさっと店外に姿をかき消した。
「・・・・これじゃ、止血は無理だ・・・」
イルカが舌打ちして呟く。そう。その判断は正しい。今下手に傷口を圧迫すれば、ギリギリの精神力で
保っているカカシのチャクラは破れかねない。もしチャクラが破れれば、堰き止められた血が一気に
流れ出てしまう。そうなれば、カカシは即座に失血死してしまう。
「医療班が来るまで、このままか・・・・」
くそ、とイルカが忌々しげに呟く。そして、堪らなくなったように膝の上のカカシに向き直り、もう一度
怒鳴るように問い掛ける。
「何故、先に手当てをして来なかったんです・・・!!どれぐらい、俺を探しました・・・!?俺を探す暇が
あるなら、なんで・・・!!」
言葉にならない、と言うようにイルカが語尾を切らす。その声に、カカシがゆっくりと瞼を開いていく。
銀色の睫毛が、一瞬強く震えたのが分かった。
薄い唇が、だって、と掠れた声で囁く。



「・・・・・あんたが、喜ぶと思って・・・」



イルカの眼が大きく開く。
「・・・だって、そうでしょ?事務方の大失敗でしょ?これって。あんた、俺が帰ったの嫌がるだろうけど、
俺のした事知ったら、違うと思ったんだよ。」
銀色の男が苦しげに息を詰めて話し続ける。
「喜ぶと思ったんだよ。あんた、きっと喜ぶだろうって。だから、逢いたかったんだよ。あんたに早く、
逢いたかったんだよ」
蝋のように青褪めた唇で、掻き口説くように訴える。
「あんた喜んで、それで・・・・」
白い喉が小さく痙攣する。色を失った指先が、イルカに向かって震えながら伸ばされる。

「俺が帰ってきて良かったって、思うかもって・・・・・」






酷い。


怒りに息が詰まりそうになった。
酷い。何て酷い男だろう。
そんな辛そうに銀色の眉を顰めて。そんな悲しげに、薄い唇を震わせて。蒼い瞳を歪ませて。
ちっとも、辛くなどないくせに。
イルカの言葉に、歓喜して喰らいついたくせに。


だって私には分かる。
この男と同じ、戦場で狡猾な駆け引きを繰り返してきた私には。
この男と、同じものに焦がれている私には。
この男の考えている事が、自分の事のようによく分かる。


イルカが喜ぶと思ったのは事実だろう。
自分の生還に安堵するのを、密かに期待したのも事実だろう。
けれど、違う。
この男は、これでイルカを責めるつもりだったはずだ。
これを逆手に取って、イルカに命令するつもりだったはずだ。何時ものように。
あんた達の怠慢で、俺は死ぬ目に合ったのだ。あんた達の不備が、貴重な上忍を死にかけさせたのだ。
だから、その失態を償え。その代償を、自分に寄越せ。
この男は、そうイルカに詰め寄るつもりだったのだ。
そうやって、生真面目な中忍を屈服させる気だったのだ。
戦地で捕虜を捕らえたように、この有利な材料を最大限に利用するつもりだったのだ。


けれど、イルカはその上を行った。


どれぐらい自分を探したのかと、カカシ自身を気遣った。
酒を飲んでいた自分を後悔するように、カカシに声を震わせた。手当てもせずに、一人彷徨い歩いた事を
躊躇いもなく怒鳴りつけた。その間に失われた、カカシの血を悔やみ嘆いた。
その、愚直なまでのイルカの優しさ。
この男は、それが自分に降ってきた事に歓喜して飛びついたのだ。



「・・・・何を・・・」
イルカが青褪めて呟く。今言われた言葉が理解出来ないように、黒い睫毛を忙しげに瞬かせてカカシを
見下ろす。
「・・・ねぇ、嬉しいでしょう?嬉しいよね?俺が帰ってきて、良かったよね・・・?」
イルカの狼狽に構わず、カカシが掠れた声で何度も尋ねる。
「・・・俺、役に立ったよね?あんたの役に、立ったよね・・・?」
頼りなく力の抜けた指が、縋るようにイルカの腕を掴む。
「・・・だから、もういいでしょ?」
蒼い瞳が、泣くのを堪える子供のようにくしゃりと歪む。
「・・・ねぇ、もういいでしょう?もう、俺の言うこと聞いてよ。俺がずっとあんたにお願いしてたこと、
叶えてよ。」
掠れた声が、いっかい、と小さく呟く。
いっかい、いっかいやろうよ。ねぇ。おれといっかいやろう。ねぇ、そうしたら。
銀色の男が夢見るように繰り返す。白い唇が、切ないほどの確信を込めて囁く。


「あんた絶対、わかるから・・・・・」









そんな、狡い。

目の前が怒りに赤くなった。
狡い。何て狡い。どうしてそんな、狡い真似を。
うねるような怒りに、視界がみるみる赤黒く染まっていく。
だって、それは私が言うべき言葉だ。今まさに、私がイルカに伝えようとしていた言葉だ。
その言葉を伝えるのは、私が先だったはずだ。

それなのに、何故。

何故、この男が先に言う。
いきなり、血みどろで飛び込んできて。私からイルカを掻っ攫って。私の言うべき言葉を先に奪って。
イルカの眼差しから、私の姿を消し去って。


イルカが跪いたまま、一言も口を利かずカカシを見下ろす。
その黒い瞳に浮かぶ混乱に、胸が掻き毟られそうになった。
動いている。
イルカの心が、波打っている。カカシの言葉に、嵐のように揺れ動いている。
今までのカカシの態度と、この状況を必死で照らし合わせている。何かこの男を理解する術は無いかと、
必死で記憶を漁っている。
何も入り込む隙の無いほど、カカシの事だけを考えている。



酷い。



酷い酷い酷い。
体中の血が絞るように叫ぶ。憎悪に全身総毛立った。
それをしてもらえるのは、私だったはずだ。あんな風にイルカの心を揺らすのは、私だったはずだ。
掌に爪が食い込むほど、拳をぎりぎりと握り締めた。
男のくせに。
イルカに苦痛と恥辱しか与えられない、男のくせに。
私の方が、ずっとずっとイルカを悦ばせられるのに。イルカは私のものなのに。
なのに、あんな確信に満ちて。いびつに歪んだ欲望に、イルカを引き摺りこもうとして。



殺してやりたい。



全身から湧き上がる殺気に、掌が氷のように冷たくなった。
殺してやりたい。あの男を、殺してやりたい。この手で、あの傷に留めを刺してやりたい。
抑えきれない殺意に身体が震える。怒りに沸き立つ身の内と裏腹に、殺気に包まれた身体がみるみる
青く凍えていく。
殺してやる。あの男を。あの汚い男を。イルカの眼を血で曇らす、あの薄汚れた男を。
噴出す殺気に全身がぶわりと膨れる。腰に仕込んだクナイを音も無く引き抜いた。鉛色に光る刃を
手の中にするりと忍ばせ、息を殺して白い喉に標準を狙い定める。
その瞬間、イルカがふっと私に向かって顔を上げた。


黒い瞳が強張ったまま見開かれる。
膝を地面に着いたまま、身動ぎ一つせず私の顔を見詰め続ける。
ああ。そう。それでいい。
喜びに全身の血が一斉に沸き上がった。

そう。そうやって、貴方は私を見ていればいい。
惑う必要なんかない。そんな男は、放っておいて。その男は、貴方をただ苦しめるだけ。
その男は狂ってる。その男の欲望は、間違っている。
地を這いつくばる獣ですら、そんな過ちは侵さない。

今なら、間に合う。
その狂った獣から早く離れて。その薄汚い獣の血など、流れるままにしておいて。
どうせ、その男はじきに死ぬ。
その男を生かしているのは、ただ貴方への執念だけ。
ほんの僅か差し伸べられた貴方の手に、必死でしがみついているだけ。今貴方がその手を弾けば、
その男は死んでいく。
振り払われた手の痛みに、絶望して死んでいく。
穢れた獣に相応しく、血に塗れて死んでいく。


ゆっくりと、イルカに向かって右手を伸ばした。
それに応えるように、イルカが静かに身体を起こしていく。私をじっと見詰めたまま、腕に縋り付くカカシの
指をそっと掴んで引き離す。歓喜に血を吐きそうになった。
イルカが両腕をゆっくりと持ち上げる。差し伸べるようなその仕草に、思わず一歩踏み出した。
目の前で、二本の腕が緩やかに開いていく。
そして、次の瞬間、イルカは全身でカカシの身体を抱き締めた。








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