スパイダー 3




紅と別れたカカシが、わき目も振らずアカデミーに向かう。
興奮のあまり、呼吸を忘れてしまいそうだった。
今のを見たか。あの顔を。真っ赤に染まった、あの顔を!
あの言葉を聞いたか。俺に全く気付かず言った、あの言葉を!
『あんまり綺麗な人だから』
そして嬉しげに吐かれた、あの台詞!
『俺で良ければ何時でもどうぞ』
込み上げる笑いを、必死で抑えながら歩いた。
ああ。行くとも。あんたに、会いに行くよ。今すぐに、あんたに会いに行くよ。

今度は俺の番だ。
思わせぶりに、いかにも気がありそうに振舞おう。
とびきりの美女が自分に振り向いたのだと、有頂天にさせよう。あの生真面目に結ばれた唇から、
間抜けな愛の告白を引き出そう。
そして、笑おう。
その瞬間、元に戻って大声で笑おう。あんたは騙されたんだよと、この世で一番軽蔑してる相手に、
告白したんだよと笑い飛ばそう。いい気味だと、腹を抱えて笑ってやろう。ああ。何て楽しい。
やっと、イルカを傷つけられる。
かすり傷すらつけられなかった、あの中忍の心を傷つけられる。
自分と同じ痛みを、味あわせてやれる。

アカデミーの校門で、イルカの出てくるのを待った。
「イルカ先生!」
やっと出てきた黒髪の中忍に、弾んだ声で呼びかける。
「え!?か、楓さん!?」
イルカが明らかにうろたえた声を上げた。
「ど、どうしたんですか!?こんなとこで。」

「イルカ先生を待ってたんです。」
艶然と微笑んで見つめた。イルカの顔がカッと赤くなる。痺れるような勝利感が全身を駆け巡った。
「・・・ねえ、イルカ先生。今夜一緒にご飯食べてくれません・・・?紅ったら用事があるみたいで、
振られちゃったんです。私、久しぶりに帰ってきたのに、一人ぼっちでご飯なんて寂しくて・・・」
誘うような眼差しで、甘えるように見上げる。イルカが上ずった驚きの声を上げた。
「えぇ!?俺と!?・・・・あ、でもなぁ・・・・」
「・・・何か、御用ありました?」
「あ、いや、そうじゃないんですが・・・うーん、困ったな・・」
てっきり二つ返事でOKだと思っていたのに、予想に反してイルカが渋い顔で口篭もる。
さっきまでの昂揚した気分が、一気に醒めていった。どうしていいか分からなくなった。
何で。だってあんた、笑ったじゃないか。
嬉しそうに、俺に笑いかけたじゃないか。
「・・・あ・・すみません。私、イルカ先生が「いつでもどうぞ」って言ってくれたから・・・すっかり本気に
してしまって・・・あの・・・」
一歩あとずさって唇を手で覆う。居たたまれない風情の美女に、イルカが慌てて両手を振った。
「ち、違うんです!その、俺は、女の人が喜ぶような洒落た店を知らないんで・・・楓さんがかえって
気を悪くされるんじゃないかと・・・」
「そんなこと!」
大声でイルカの言葉を遮る。一瞬冷えた血が、また全身を暖かく流れ出した。
「ちっとも構いません。イルカ先生の行きつけのお店に、連れて行ってください。変に凝った店より
その方が、私ずっと嬉しいです。」
熱心に言い募る楓に、イルカがやっと笑顔を浮かべる。
「そうですか。なら、行きましょうか。本当に大したトコじゃないんで、期待しないで下さいよ。」
「はい!」
弾んだ声で返事を返す。自分で意図したより、ずっと嬉しげな声だった。

イルカの案内した店は、古びた日本料理屋だった。
確かに洒落た感じはなかった。しかし、平日にも関わらず満席に近い状態で賑わってる所を見ると、
そこそこ美味い料理を出すのだろうと思った。
狭いテーブルに座り、イルカの薦めた煮魚を一口食べた。
「あ、美味しい。」
口の中で甘く崩れていくグジの身に、思わず呟いた。イルカが大きく頷く。
「でしょう!?ここの魚は俺の一押しなんですよ!」
そう言って、心底嬉しそうな顔で明るく微笑む。こちらの食べる様を、黒い瞳が嬉しそうに見守る。
頭の芯が、上気したようにボウっとなった。
「ほんとに・・・美味しいです、美味しい・・・」
馬鹿のように繰り返した。早く気の利いた誘い文句を言わなければ、と思うのに上手く頭が回らない。
呑んでもいないのに、心臓がドクドクと熱くなる。イルカが熱心に自分を見る度に、その熱は上がって
いくようだった。


翌日から、銀髪の美人がアカデミーの入り口で待つ姿が毎日のように見られるようになった。
「楓さん、すみません。お待たせして。」
急いで駆け寄るイルカに、楓がにっこり笑い返す。
「いいえ。全然。」
眼の醒めるような美女が嫣然と微笑む様を、周囲の男が羨ましげに眺める。
「今日はどこを紹介してくれるんですか?」
上機嫌でカカシが尋ねる。里を案内してくれという頼みを、イルカは律儀に実行してくれていた。
狭い里のことだから、カカシが既に知っている所に連れて行かれる事も多かった。
けれど、イルカに案内されると、そこは不思議と新鮮な場所に思えた。
穏やかな声で、丁寧に語られる説明。目が合うと、途端に赤くなって照れ笑いする清潔そうな顔。
ふわふわと宙を彷徨うように、浮かれて歩いた。いつも、時間はあっという間に過ぎて行った。

そんな風だから、二人の仲は大して進展していなかった。
あせることはない、とカカシは思っていた。
イルカが楓に惹かれてるのは確かな事だ。それなら、イルカが浮かれている期間が長ければ長いほど、
結果的に絶望は深くなる。
だから、あせる事はない。
もう少し、イルカの笑顔を見てからでも、遅くはない。
自分に向けられるあの笑顔を、もっと見てからでも遅くはない。
そう。急ぐ必要なんか全然ない。


けれど、今日のイルカは少し様子が違った。
むっつりと押し黙ったまま、人気の無い山道を登ろうとする。話し掛ければ、一応は笑う。
が、その笑みはどこか強張り、不自然だった。
もしかして、バレたか?
湧き上がる懸念に、軽く首を振った。
いや。そんなはずは無い。それなら、もっと態度が硬いはずだ。嘘でも笑顔など、見せないはずだ。
そう結論を下しながらも、不安は消えなかった。
イルカの緊張が感染したように、自分の舌も重くなった。妙に重苦しい空気に包まれながら、二人とも
ただ無言で歩き続けた。

頂上近くまできた時、突然、イルカが足を止めた。
「ここ。綺麗でしょう?」
相変わらず緊張した声で、指を下に指す。その先の方向を見て、思わず溜息が出た。
夕闇の中、里の明かりが下方にキラキラと浮かび上がっていた。
山々に四方を囲まれたその瞬きは、湖水に沈む宝石のようだった。
「はい。ほんとうに・・・綺麗、です。」
しみじみと呟いた。イルカがホッと安堵の息を吐く。
「良かった。ここ、俺のとっておきの場所なんです。この景色を楓さんにも、見せたくて。」
「・・・私に?」
「はい。俺、いつか・・・・」
そう言い掛けて、ふいに口を噤む。意外に整った指を、神経質に握ったり開いたりする。
「・・・・イルカ先生?」
「楓さん。」
思い切ったようにイルカが口を開いた。
「俺、期待していいんですか?」

「・・・・え?」
突然の問い掛けに、思わず目を見張った。
イルカが顔を赤く染めながら、しっかりした口調で喋り続ける。
「もし違うなら、今のうちに言ってください。そうでないと、俺、誤解します。毎日、俺の仕事が終わるの
待ってくれて。俺が来ると、嬉しそうに笑って。ちょっとでも離れると、寂しそうにして。俺、単純だから、
そんな風にされると期待します。期待したくなるんです。」
黒い瞳が、真正面からカカシを見詰める。

「あなたが好きだから。」

はにかんだ声が、訥々と語り続ける。
「あなたの笑った顔が好きなんです。・・・上忍の楓さんから見たら笑い話かもしれませんが、あなたの
笑顔、ま、守れるといいなぁって。俺が傍にいたら、ずっと笑ってくれるのかなって。・・・うわ、何か俺、自惚れ
過ぎですよね。しかも、言ってる事寒いし。参ったな。」
ははは、とイルカがこれ以上無い程真っ赤な顔で不器用に笑う。
その光景を、ただ呆然と見つめ続けた。

しっかりしろ、と慌てて自分を叱咤した。
何をしてるんだカカシ。この時を、待っていたはずだろう。
イルカがこの告白をする時を。
それを、嘲り笑う時を。術を解き、腹を抱えて笑い転げる時を。

今、印を結んで術を解くだけで、イルカを傷つけられる。屈辱に青褪める顔を見ることが出来る。
分かっているのに、腕は一向動こうとしなかった。益々焦った。
おい。何を躊躇してるんだ。早く術を解くんだ。そして、笑いながらこう言うんだ。

これで、判ったデショ?
あんた今、とんだ間抜けな告白をしたんだよ。俺に、好きだって言ったんだ。
大嫌いな俺にね。あんたの大嫌いな、大嫌いな・・・。
突然、心臓を貫かれたような痛みが走った。


嫌だ。

あんたの大嫌いな俺なんて、嫌だ。


思うより先に、言葉が唇から滑り落ちた。
「私も・・・私も、イルカ先生が好きです・・・」
儚いほどか細い女の声を、他人事のように聞いた。自分で自分が制御できなかった。
自分の返答に、誠実そうな瞳が大きく開く。一瞬後、イルカはゆっくりと腕を伸ばしてきた。
細い女の肩を、そっと、ぎこちなく引き寄せる。暖かなその感触に、涙が出そうになった。
どうしてこの手を失う事が出来る。どうして、この手を離す事が出来る。
やっと、自分に伸ばされたこの手を。

イルカの唇が、柔らかく自分の唇を噛む。
熱い舌が歯列を割り込んで入ってくる感触を、陶然と受け止めた。
これが本物だ。今までしていたキスは、キスなんかじゃ無い。
イルカからも、求められるキス。これが本当だ。本当に、したかったキスだ。
貪るように舌を絡ませあった。イルカが溜息をついて、ほんの少し唇を離す。その間さえ惜しく、
ぐいとイルカの後ろ髪を掴んで引き寄せた。その黒髪にようやっと廻せる腕の細さに、痛烈に思った。

ああ。これが俺の腕だったら。

いま術を解いて、元の姿に戻れるなら。男の自分に戻れるなら。
そうしたら、この人を閉じ込められる。この腕の中に閉じ込められる。
俺を抱き寄せる倍の力で、この人を抱き締め返せる。
二度と逃げられないように、俺の中に閉じ込めるのに。

「楓さん・・・・」
愛しげに呼ぶ声に、胸が詰まった。
それは俺の、名前じゃないけど。その声で、俺の名前を呼ばれる事は一生無いけど。
それでもいい。あんたの心が、ここにあるなら。あんたが俺を、見てくれるなら。
後はもう、どうだっていい。

子供のように、手を繋ぎあって山道を降りた。
あの景色を、いつか大切な人と一緒に見たかったんです、と照れ笑いするイルカの声を、うっとりと聞いた。
これからの生活を考えれば、問題は山積みだと判っていても、心が弾んだ。
どうせ滅茶苦茶な人生だ。墓場まで持っていく秘密がもう一つ、増えただけのことだ。大した事じゃない。
酔ったような幸福感の中で、そう思いつづけた。

「あ!」
里の中に入った途端、イルカが大きな声を上げた。
「まずい!忘れてた!テスト用紙!」
あたふたとカカシを見下ろして、済まなそうに頭を下げる。
「今日家で採点するはずだったテスト用紙、持って帰るの忘れてました。ちょっと、取ってきます!」
今にも駆け出しそうに身体を翻す。その腕を、とっさに掴んだ。
「待っ・・・」
イルカが驚いて振り向く。ハッと手を離して俯いた。恥ずかしい。何だ今のは。
まるで、置いていかれそうな子供じゃないか。
一瞬後、イルカがにっこりと俯く顔を覗き込んだ。いかにも嬉しそうに、優しく囁く。
「一緒に、行こうか。」

子供をあやすようなその響きにも、腹は立たなかった。
むしろ、くすぐったいような陶酔感が全身を包んだ。
「・・・はい。」
小さな声で呟いた。イルカが、カカシの手をぎゅっと握る。そのままスタスタと先に歩き出す。
手を引くイルカの耳が、次第に赤くなっていく。暖かなその色に、心が蕩けるようだった。

アカデミーの校門で、イルカの戻りを待った。
すぐ戻ってくるから、と幼子を気遣うように伺う顔を思い出すと、微笑が浮かんで仕方がなかった。
「カカシ。」
突然、思いつめたような女の声がした。瞬時に顔を引き締め、厳しい視線で見返した。
「・・・・・なに?」
波打つ黒髪も艶やかな美貌のくの一。夕日紅がそこに立っていた。

「・・・・もう止めなさいよ。こんな事。」
紅がきっぱりと言う。
「何が。」
苛々と首を振った。早くこの女を追い払ってしまわなければ。イルカが戻って来るまでに。
「あんたは面白いかもしれないけど、あたしは全然面白くない。あの人、本当にいい人だもの。」
黒髪の美女が、怒りに燃えた眼で睨む。
「直ぐ止めるかと思ったら、ちっとも止めないじゃない。それどころか、何?手なんか繋いで。
あの先生からかって、そんなに楽しい?そんなに傷つけたい?遊ぶなら、もっと他の奴にしな!」

「・・・・紅には関係なーいよ。そうでしょ?」
ふいと顔を背けて言った。
妖艶な外見に似合わず、正義感の強い真っ当な女。あれほど脅したのに、見てみぬ振りの出来ない女。
何て都合の悪い女だろう。舌打ちしたくなった。この女の口を塞ぐには、どうしたらいい。
「カカシ!あの先生はあんたが遊んでいい人じゃない!」
「黙れ!!」
腹の底から怒鳴りつけた。苛立ちのあまり、声を抑えられなかった。
遊び?これが遊びだと?何も知らないくせに。
俺がどんな思いでこんな事をしてるのか、全然判ってないくせに。
「余計な事を言うなと、言ったはずだ!」
殺気も露に詰め寄った。それでも紅は引かなかった。
「何が余計よ!あんたのやってる事は最低じゃない!カカシ!!」

「どういう事ですか・・・・?」

呆然とした声が、背後から聞こえた。
心臓が凍りついた。全身の血が固まってしまった気がした。イルカが引き攣った声で呟く。
「カカシ・・・って・・・・楓さん・・・が?」
紅が一瞬息を呑んだ後、一気に喋り出す。
「そう。イルカ先生、この人、カカシなの。カカシが、女体変化してるだけなの。ごめんなさい。
もっと早く教えてあげられなくて。」
罪悪感から開放された紅が、矢継ぎ早に語り続ける。
「私もう、これ以上イルカ先生が騙されるの見てられない。カカシに口止めされてたけど、こんな
馬鹿げた嘘の共犯になるのは真っ平。本当に、ごめんなさい。」

どうしていいか分からなかった。
分かったのはただ、自分の足元がガラガラと崩れていこうとしてる、という事だけだった。
「今の話・・・・本当ですか・・・・?」
強張る声で、尋ねられる。何も答えられなかった。
「本当よ。イルカ先生、この人のチャクラ、ちゃんと注意して見た事ある?」
紅が溜息を吐いて言った。
「銀色の髪だってそう。冷静になって、もう一度見てみて。」

イルカの気配が、硬くなるのが分かった。
振り向く事が出来なかった。成す術もなく、立ち尽くした。
やがて、深々と頭を下げる気配がした。
「紅先生、ありがとうこざいました。お陰で眼が覚めました。」
ゆっくりと、静かに語る声。深い怒りを込めた声。くるりと踵を返す気配。
待って。俺の話を聞いて。
そう叫びたかったのに、声が出なかった。喉がひりついて、何も言えなかった。
イルカが去っていく。足早に。逃げるように。
忌まわしい場所から、一刻も早く去りたいように。

何も言わずに俯くカカシに、紅が戸惑ったように声をかける。
「・・・・カカシ・・・あんたが何でこんな事したか知らないけど・・・あたしは仲間を騙したくない。あたし達、
嘘が商売みたいなもんだけど、だからこそ、同じ里の仲間を騙す様な真似したくない。だから・・・」
紅の言葉に、苦く笑った。まっすぐな女。正しい言葉。その正しさに、今は耐えられそうもない。
無言で空に印を結んで跳躍した。
これ以上、紅の言葉を聞きたくなかった。

どうして、こんな事になったんだろう。
彷徨うように、ただふらふらと街を歩いた。
何もかも現実感が無かった。今起きた事が、現実だと思えなかった。
イルカに愛を告白され、それをあっと言う間に失った。
あの暖かい手が、一瞬のうちに幻になった。
何て馬鹿げた幕引きだろう。こんな事ってあるか。
夢だって、もう少し手加減してくれる。もっと緩やかに、醒めてくれる。
こんな風に、人を無慈悲に突き落としたりしない。

ひょっとして、本当に夢だったんじゃないか?

麻痺した頭が、下らない結論を下す。
そんなはずは無い。そう分かっていても、その考えはひどく魅惑的だった。
本当に夢にできたら。さっきの出来事を、何とか誤魔化す事ができたら。
今のこの現実が、夢であったらと願っているのは、自分だけではないはずだ。イルカだって、そう
願っているはずだ。
僅かな希望が胸に灯りだした。
言葉を尽くして言い訳すれば、もう一度取り繕う事が出来るかもしれない。
自分が混乱しているように、イルカだって混乱しているはずだ。いや、イルカの方がずっと混乱して
いるだろう。
その隙に、付け込む事ができたら。



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