指 輪 物 語 (2)

そのまま、ゼルはぱったりとサイファーの元へと来なくなった。
あれほど、日程の遅れを気にしてたのに、ちっとも姿を見せない。姿を見せないどころか、
ガーデンにいる姿も見ない。
サイファーはイライラと落ち着かなかった。ひょっとして、まだ探してるんじゃねえだろうな。
もう、三日だぞ。馬鹿じゃねえのか。あの時の水の冷たさが蘇ってきた。
ほんの少し足が浸かっただけなのに、凍えるように冷たかった。大柄な自分ですら、すぐ全身に
寒気が走った。あんな小さな身体には、あの水はどんなに冷たいだろう。どんなに寒いだろう。
サイファーはぎゅっと拳を握った。

サイファーは執務室のドアを叩いた。スコールがサイファーの姿に驚いて顔を上げる。
「どうした?何か用か?」
「てめえ、ゼルに指輪やっただろう。」
突然切り出したサイファーに、スコールが瞬きをする。
「・・・ああ、そう言えば。」
「あれを、まあ、ちょっとあって、俺が捨てちまったんだ。そしたら、チキンがそれを未だに
探してるんだ。お前、ちょっとあいつに諦めるよう、言ってくれ。」
コツコツと机をペンで叩きながら、スコールが尋ねる。
「・・・何で、俺が?」
「そりゃ、あれはお前の指輪だからよ、だから、その・・・・。」
お前の言う事なら、聞くんじゃねえかと思って。
あんな冷たい水のなかで、探すのを止めてくれるんじゃないかと思って。
言葉を切らすサイファーに、スコールがゆっくり顔を上げた。
「あれはゼルにやったんだ。だからもう、ゼルのものだ。俺には関係無い。ゼルが探したいなら、
探せばいいだろう。」
突き放した口調に、カチンときたサイファーが詰め寄る。
「おい。ちょっと冷てえんじゃねえか?チキンは凄く喜んでたんだぞ。それをてめぇ・・」
「何で、あんたが言わないんだ?」
スコールが静かに尋ねる。サイファーがぐっと言葉に詰まった。
「気にしてるのは、あんたなんだろう?あんたが、探すのを止めて欲しいんだろう?
それなら、あんたが、自分でどうにかすべきなんじゃないのか?」

結局、何も言い返せずにサイファーは部屋を出た。焦燥感だけが残った。
俺じゃ駄目なんだ。俺じゃ。あいつはもう、俺の言う事なんか聞かないんだから。
俺のことを、心の底から軽蔑してるんだから。

俺が、そうしてしまったんだ。
気に入らない玩具を投げ捨てるように、あいつの心を投げ捨てた。
『俺が何をしても、怒らないと思ってるのか?』
今もあの声が耳から離れない。静かな、深い怒りを込めたあの声。
そうだ。俺はそう思ってたんだ。
俺は何時でも相手を見下す一方で、見下される者の気持ちに気付かなかった。
差し伸べられる手を、いつも傲慢に弾いてた。その手の痛みを知ろうともしなかった。
サイファーは壁に額を打ち付けて、固く瞼を瞑じた。

ゼル。人には心があるのだと、俺は分っていなかった。

サイファーの予想は当たっていた。ゼルは毎日川の中で指輪を探していた。
それが分ったのは、5日後の事だった。冷たい水に晒され続けた体が、ついに悲鳴を上げた。
ゼルは自室のドアの前で倒れていた。風邪に肺炎を併発している、との診断だった。

スコールが突然、サイファーの部屋に来た。ゼルが倒れていた事、今治療している事を、
簡潔に伝える。サイファーの顔色が変った。それを見ながら、スコールは静かに尋ねた。
「あんた前、指輪を捨てたって、言ってただろう。捨てた場所は、川か?」
「・・・そうだ。」
「そうか。」
スコールがゆっくりと息を吐いた。そして、サイファーを力の限り殴った。

壁に身体が叩き付けられた。殴られた頬が痺れるように痛む。
「表に出ろ・・・!俺があんたを川に放り込んでやる。」
襟首を掴んで、スコールが絞りだすように吐き捨てる。
サイファーは思った。
俺はこの男と本気で戦ってみたいと思ってた。
この男を本気にさせたいと、思ってた。
でも、今、こいつを目の前にして思うのは、ゼルの事だ。
もし、これがゼルだったら、どんなにいいだろう。
こんなふうに、もう一度、自分にぶつかってくれたら、どんなにいいだろう。
もう一度、あの青い瞳が自分を見てくれたら、どんなに自分は救われるだろう。

動かないサイファーを見て、スコールが立ち上がった。机に置いたファイルブックを開く。
「あんたの指導官は俺に変更だ。」
紙の束をサイファーの前にバラバラと散らす。
「俺にはカリキュラムを新しく組んでる時間なんて無い。これはゼルがあんたの為に書いた
予定表だ。全部、あんたがすっぽかした予定表だ。好きなものを選べ。それを実行する。」
大量の紙が、サイファーに雪のように降り積もる。
最後に、静かな、冷たい声が振ってきた。
「あんた、当然だと思ってたか?これだけの手間暇を、当然の事だと思ってたか?」

「・・・選ばねえよ。」
サイファーが大きく息を吐いた。スコールの眉がピクリと動く。
「俺の指導官はゼルだけだ。あいつがもう一遍、俺の指導官を引き受けるまで、俺は待つ。」
「引き受けなかったら?」
サイファーが顔を歪めた。痛みを堪える子供のようだと、スコールは思った。
「引き受けてくれるまで、いつまでも待ってる。あいつに、そう言ってくれ。」

スコールが溜息をついた。
「今はそんな状態じゃない。意識だって朦朧としてるんだ。」
「・・・そんなに悪いのか?」
サイファーの顔から血の気が引く。こんなサイファーは初めて見た、とスコールは内心驚いた。
この男を叩きのめしてやろうと思って来たけれど。
川に引き摺り落としてやろうと思って、この部屋に来たけれど。
もうそれは必要無い。この男はもう、冷たい水の中にいるかのように、蒼ざめている。
身を切るような寒さの中で、凍えている。
「・・分った。ゼルが元気になったら、そう伝える。」
そう言って、部屋を出た。背後で救われたように漏らされた溜息は、酷く切なく耳に響いた。

「おい・・・何だあれ。」
「あそこ、ゼル先輩の部屋だよな。」
後輩達がヒソヒソと囁きあう。

「何で昨日から、風紀委員長がドアの横に座り込んでんだ?」

仕方ねえじゃねえか。
交わされる囁き声を聞きながら、サイファーは頬杖をついた。
部屋に入れねえんだから。

ゼルの部屋に入ろうとしたら、止められたのだ。見舞いに来ていたキスティスが、ドアから顔を
覗かせた自分に、あら、サイファーと声をかけた。そうしたら、ゼルが苦しい息の下から、
キスティスに頼んだのだ。
「・・・出て行けって・・・言ってく・・ゴボッ・・ゴホッ!!」
激しく咳き込む体が苦しげに痙攣する。喉がヒュウヒュウと木枯らしのような音を立てる。
キスティスが困惑してサイファーを見上げた。出て行って、と瞳が訴えている。
だからもう、部屋に入る事が出来なかったのだ。

それでも、いつか入れてくれるかもしれない。それまで、ここで待とうと決めた。
自分がずっと待っている事を、ゼルに知って欲しいと思った。
ぐっと、ハイペリオンを引き寄せる。鋼鉄の剣に縋るように身体を丸めて、サイファーは座り続けた。

シュン、とドアの開く音がした。サイファーはハッと顔を上げた。
金色の頭がゆらゆらと揺れながら外に出てくる。心臓が激しく脈打った。
ゼルは小さかった。いつもより、ずっと小さく見えた。
小さくなったんじゃねえ、痩せたんだ、と気付いた。降ろした前髪のせいで、うんと幼く見える。
まるで、小さな子供のようだ。
ゼルの腕がふらりと宙を彷徨う。壁にあと一歩という所で、手が空振った。そのまま、がくりと
床に膝を突く。サイファーは慌てて小さな身体に手を差し伸べた。
ゼルが気だるげに、自分を支える腕に視線を落とす。その腕が、白いコートを纏っている事に
気付くと、燃えるように熱い手で、サイファーの身体を押し返した。
「触るな」
熱で縺れた舌でさえ、拒絶の意思は明確だった。サイファーの動きが止まる。
ガーデン一と謳われた攻撃力の持主が、この頼りない抵抗になす術も無く立ち尽くす。
ゼルが壁に身体を押し付けながら、ずるずると歩いて行こうとする。
「どうしたんだよ、ゼル。寝てなきゃ駄目だろ〜?」
穏やかな声が背後からした。立ちすくむサイファーを通り越していく長い影。
アーヴィンの腕が、ゼルの体を後ろから支えた。
「あ・・・わりぃ・・・おれ・・トイレ・・」
「ああ、トイレね。」
よいしょ、とゼルの腕を肩に引っ掛ける。
「僕の腕は女の子専用なんだけどさあ、今日は特別に貸してあげるよ〜。」
ばか、とゼルが少し笑った。アーヴィンの肩に全身を預ける。
凭れる細い体に、優しい友人への信頼が溢れていた。

あれが、俺の失ったものなのだ。

痛烈に、サイファーは思った。あの手を、俺は弾いたのだ。
あの信頼は、自分だって得られたはずなのだ。
あの笑顔は、自分にだって向けられたはずなのだ。
それは今、何よりも遠い。
俺が、遠くに投げ捨てたのだ。

それでも、ここから動く気にはならなかった。それ以上に、さっきの弱々しげな姿が
心配だった。薄いパジャマ越しに触れた身体は、燃えるように熱かった。
悪寒に全身震えていた。共同トイレはゼルの部屋から遠い。
サイファーはどしりと床に腰を落とした。長期戦で行こう、と思った。
何度も手を貸せば、そのうち諦めてくれるかもしれない。自分の肩を借りて、トイレに行こうと
するかもしれない。
俺の手でもいいと、ゼルが思ってくれるかもしれない。

それが甘い考えだった事に、サイファーは気付かされた。
ゼルは決してサイファーの手を借りようとはしなかった。払いのける手は、いつも一瞬の迷いも
無かった。
燃えるように熱かった手が少しずつ冷めていき、震える足取りが徐々にしっかりしてきても、
ゼルはサイファーの顔を一度も見ようとしなかった。
ただの一度も、見なかった。

「もう、峠は越したんだ〜、良かったねえ、セルフィ。」
「ホント〜最初はどうなるかと思ったよ〜。」
アーヴィンとセルフィの楽しそうな話し声が、部屋から漏れてくる。
「美味しいもの沢山食べて、早く元気になってね〜。ゼル、少し痩せたよ〜」
美味しいもの、か。
ふと、サイファーは思い出した。まだ魔女騒ぎが起こる前、よくゼルを規則違反で捕まえていた。
とっ捕まえると、ゼルはいつも半べそをかきながら「パンが売り切れちまう」と訴えていた。
そんなにパンが食いてえか?と聞くとうん、と大きく頷いていた。

パンを買ってきてやろう。
サイファーは腰を上げた。自分からだと言わなければいい。それなら食べてくれるだろう。
嬉しそうにパンを頬張る顔を想像すると、心が暖かくなる気がした。
この間から凍りついている心臓が、少し溶けた気がした。
久々に軽い足取りで、サイファーは食堂に向かっていった。

「・・・これを、ゼルに?」
キスティスが眉を顰めて大量のパンを眺めた。
「ああ。誰からの見舞いかは、言わないでくれ。」
そう言うと、キスティスは益々困惑顔になった。サイファーは少し慌てて言葉を続けた。
「いや、もしそれが嫌なら、あんたからとでも言ってくれ。とにかく、俺の名前が出なきゃいい
んだ。」
「あの・・そうじゃなくて・・・」
無理矢理パンを押し付ける腕に、キスティスが口篭もる。隣に立っていたシュウが、その腕を
押し返した。
「止めなよ。こんな事したって無駄だって。」
「・・・何だと?」
「シュウ!」
キスティスが慌ててシュウの腕を掴む。
「いいじゃん。こいつ、言わなきゃわかんないんだから。」
シュウの眉がひょいと吊り上がる。
「あんた、知らないの?あの子、この五日間ドリンクでしか栄養摂ってないんだよ。」
形のいい指がサイファーの鼻先に突きつけられた。
「いきなり揚げパンなんて、胃が受けつけるわけないでしょう。」

サイファーは抱えたパンを見下ろした。紙につつまれた揚げパンは、いかにもこってりと
濃厚そうだった。
「・・・そうか・・・。」
間抜けな姿だと思った。今の自分にぴったりな光景だと思った。
さんざん振り回して、今になって機嫌を取ろうとする。もう、相手は受付けてくれないのに。
シュウが溜息をついた。
「とにかく、あんたがパンを持ってきた事だけは、ゼルに伝えてあげるから。」
「止めろ!」
突然の大声にシュウが眼を瞬く。
「絶対に言うな。この事は忘れろ。いいな。」
くるりと踝を返して食堂から出て行く。
それきり、サイファーの姿はガーデンから消えた。
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