(※)木地師(きじし)とは?
蓮沼州子 著 『惟喬親王と木地師の物語』(日本木地師学会)によると…
『樹木に対する愛着と信仰心を基調に、木材の加工とその伝承を誇りとして材料となる木々を求め、深山に移動生活を続けてきた職人の一族がある。
これを木地師という。』(P.9)
とあります。
ということ(?)で、「旬情報じゃないだろぉ」というブーイングをものともせず、ちょっとためになるお話を・・・
木地師発祥に深い関わりのある小野宮惟喬(これたか)親王。
惟喬親王伝説によると、文徳天皇の第一皇子でありながら弟の惟仁親王との
皇位継承の争い (実際には惟喬親王の外戚紀氏と惟仁親王の外戚藤原氏の覇権争い) に巻き込まれ、ついには弟である惟仁親王が清和天皇として即位する
ことになりました。 時に、惟喬親王15歳、惟仁親王9歳。
この後、藤原氏の迫害を避けるべく、都を去り近江の国(滋賀県)小椋郷に幽居してろくろ細工を村人に伝授し、やがてそれらの人々が諸国に散り、ろくろ木地師の起源となったとのことです。
この起源や後述の木地師文書の真贋については諸説ありますが、単に歴史的事実か否かということより、時の流れのなかで脈々と伝わる伝承や物語こそ、その時々の民衆にとっての歴史であり、語り伝えるべき史話といえるのかもしれません。
彼ら木地師は山岳信仰や山の神の崇拝等において、里人(平地民)とは異なる風習や自然への畏敬の念をもつ山人でした。親王の流れをくむものとして全国どこでも行き来し、自由に山に入り樹木を伐採してもよいというお墨付きを持ち、先祖代々伝わる惟喬親王遺訓を遵守する誇り高き民でした。
写真はそのお墨付き(朱雀天皇の御綸旨−天皇の聖旨−)であり、その要旨は「小野宮(惟喬親王)の作られたろくろを使い仕事を成すことは神妙なことであり、諸国の山に入る時は、西に(船を漕ぐ)櫓や櫂が立つほどの水があり、東に馬の通れるほどの道があれば(ようするにどこでもOK)自由に立ち入ってよい」というものです。
このほかに関所を通る「往来手形」や身元を保証する「宗門手形」等、後の世に『木地師文書』といわれる数々が、その一族の家宝として子々孫々受け継がれました。
一般庶民が名字を使うようになったのは明治時代からですが、そのはるか昔から名字(小椋、小倉、大蔵姓など)を名乗り、その家紋には皇室と同じ十六弁菊紋、あるいは五七の桐紋を用いた一族もあったとのこと。今もその菊紋や桐紋が刻まれた苔むした墓石を、かつての木地師集落やその近くに見ることができます。
写真は長野県上伊那郡辰野町横川渓谷にある七基の墓石と一基の供養塔。 文化7年(1810年)〜天保2年(1831年)の年号が読みとれます。このうち五基の墓石には十六弁の菊紋が刻まれています。
惟喬親王の時代より千百年以上を経た今も、全国各地で末裔の人々がその技(わざ)を伝えています。
(文責 : 根萩)
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