小野関連史跡です。
仁治の碑 塩薬師堂 甲波宿禰神社
小野子山 烏子稲荷神社 猪俣の百八燈
七社神社


ウーン
(阿閃)
バン
(大日)
タラーク
(宝生)
キリーク
(弥陀)
バイ?
(薬師)
アク
(不空成就)
日六廿月二卯癸歳大年四治仁


 

















































































(以下の部分は台座に埋もれているため判読不能)
仁治の碑(群馬県富岡市) (碑文刻字内容)

 俗にいう緑石板碑のひとつ。高さが276p 巾96p 厚さ8pという巨大なもので、仁治四(1243)年に建てられたもので、県内でも三番目に古いとされる。建立者の名前が刻まれ、その中に「小野」の名前が見える。この地はもとは甘楽郡小野村大字下高尾字六年という。本来、金剛界五仏(大日・弥陀・不空成就・阿閃・宝生)を種子で刻むが、ここに薬師と見られる「バイ」を刻んで六仏としているのが珍しい。小町は盛んに薬師とつなげられ宣伝されることが多いが、この近くに小町四薬師のひとつ「塩薬師堂」があることを考えると、薬師と小野氏とのつながりが面白い。


小町、
南無薬師まづは諸願の叶はずば
      身より仏の名こそ惜しけれ
薬師返し、
むらさめは唯一時のものぞかし
   おのが身のかさここにぬぎおけ
塩薬師堂(群馬県富岡市)

 小町四薬師のひとつ。塩畑堂ともいう。
 小町が長谷観音の霊夢から故郷の出羽に戻る中途、ここで病に倒れた。村人にこの薬師に通うことで病が癒えると教えられ、鏑川の近くに小町山普済寺と称する庵を結び百日(千日とも言う)通いつめた満願の日、
南無薬師まづは諸願の叶はずば身より仏の名こそ惜しけれ
と歌うと、薬師が、
むらさめは唯一時のものぞかしおのが身のかさここにぬぎおけ
と返し、病を癒やしという。おかげで小町は出羽へと旅立ち、生地で生涯を閉じることができた。村人は小町が庵を結んだ跡に寺院を建立、小野山得成寺と改号し、のち貞応元(1222)年心前律師により開山した。
 このとき小町は薬師に祈願するさい、塩若千俵を寄進したので、今も薬師堂の裏には、塩の井戸という塩水が湧き出している。人々は、諸病に効ありとしてこの水を汲んだ。
 なおこの薬師堂の歌の刻まれた石碑は、「上野国甘良群小幡谷奥平里後賀村塚本忠右衛文政十三年寅二月再興」と刻まれているところから、江戸期に再び信仰の対象とされたのであろう。今でも塩を供える人があるらしい。


甲波宿禰神社(群馬県吾妻郡東村) 小野子山(群馬県吾妻郡小野上村)

 甲波宿禰(かわすくね)神社といい、延喜式内社で上野国大社四ノ宮とされる渋川市川島の甲波宿禰神社からの分祠。勧請したのは延喜四(785)年、早良親王の謀反に連座してこの地に流されていた小野金善であったと伝えられている。この小野金善はその後、蝦夷征伐のため東山道を北上してきた坂上田村麻呂の軍に合流し功が認められ、同行した村上平太とともに吾妻の郡司に任命されている。田村麻呂の軍には篁の祖父永見が副将軍として同行していることにも注目したい。
 小野子山は烏子稲荷(すないごいなり)の狐と金善の妻との間に生まれた八人の子供の伝承がある。山麓には金善寺があり、金善夫婦の菩提をともらっている。その他村内には多くの「小野金善伝説」の史跡が点在する。また小野上村は「小野子村」と「村上村」の合併により出来た村。東村とは吾妻川を挟み南北に相対している。

追記
 甲波宿禰神社は川を祀る日本でも珍しい神社で、祭神は速秋津比古命と速秋津比当ス。県内に三社(県外にはない)のみ存在するが、丹生川上神社のように上・中・下の三社としてセットで造られたものであるかも知れない。ここにも「小野」=水のイメージがつきまとっている。


烏子稲荷神社(群馬県高崎市)

 烏子稲荷(すないごいなり)神社は延喜二(783)年に藤原(小野?)金善により京都藤森神社の稲荷~の分霊をこの地に勧請した神社。元は「須苗郷」と呼ばれていたが、のち「須苗子」と改称。「烏子」と書くようになる。伝説ではこの狐(稲荷)が金善の妻の許に通う「逆信太妻」の主人公とされる。
ここの狐(上記右写真)は愛らしいが、どう見ても狸に見えてしまう。眷属なのになあ。


猪俣の百八燈(埼玉県美里町大字猪俣)
 猪俣の百八燈は、美里町猪俣にある堂前山の尾根に築かれた百八基の塔に灯を灯し武蔵七党のひとつ、猪俣党の棟梁猪俣小平六範綱とその一族の霊を慰めるために8月15日におこなわれる行事である。子供(6歳から18歳まで)のみで取り仕切られ、灯を灯す塚は毎年築かれる。夕刻から猪俣一族の眠る高台院に集まり礼拝し、囃子にのせて堂前山に登り、塚に点火する。
 猪俣党は、小野篁七代後胤義孝が武蔵に下り横山太夫を名乗ったことから興った横山党から分派、猪俣に住した(小野)忠綱を祖とし、猪俣小平六範綱はその五代末裔。


七所神社(群馬県北群馬郡子持村) 境内から東村(甲波宿禰神社)方面を望む
 小野金善が配流されたこの地に大同元(809)年自らの守護神であった、天御中主を祭ったことに始まる。七所とはこの後西の沢、富士山、三田野、如意庵、金善寺、甲里の六ヶ所に分霊したことにちなむ。
 天御中主は北辰になぞらえられ、七所に分霊することは「北斗七星」に習ったものとみられる。小野金善の伝説の残る地は、烏子稲荷(狐・ダキニ)、甲波宿禰神社(川の神・禊)、そして七所神社(星・天文)という陰陽道の色がかなり濃く出ているのは偶然なのだろうか?