ふと、俊成の筆が止まった。いづ方か未だ燻っているとみえて鼻先をかすめる風がきな臭い。戸の面
の空は真っ赤に焼けて、どこからが黄昏の朱でどこからが火焔の紅かさえ分からない。日の翳るのも随
分と早まったものだ、こう暗くては目ばかり近こうなってかなわんと、ひとりごちして、
「たれか。」
と声をあげた。おらんのか、顔を出したが誰一人来るものがいない。この騒ぎに家人も出払って居ない
のかと思ったが、表が騒がしいところをみるとおらぬ訳でもない様だ。
「いかが致した。女子供でもあるまいに、なんの騒ぎぞ。」
「はい。落ち延びそこのうたとみえます落人が、これの門前に。」
「門は堅く閉ざし、誰も入れてはならん。類焼には心砕けよ。」
「しかし、忠度と申されております。」
「然様なことあるはずも無い。捨て置け。」
と託けて、浮き足立った家人達を一瞥した。
「話とは他でもござらん。三位殿に申すべきことありて、忠度が帰って参りました。門を開くには及ばず。
この際までお寄りいただきたい。」
踵を返す俊成の耳に懐かしい声が響いた。
「いかが致しましょう。」
問いかける家人の口を制した。主上を奉じて下った筈の忠度殿がなぜに居る、それも多勢ではない。
おっても数騎、何ゆえの来訪ぞ。階をよろよろと降り、門の石根に寄り立った。
門扉を隔てても、彼の声を聞けば、目にも鮮やかな赤地錦の直垂に黒糸縅の鎧をまとい、凛として立
つあの体躯がありありと見える。忠度殿がいま都を落ちれば次にまみえるのはいつになろうか、否ここで
逢わねば今生逢うことは叶わぬと、手が門扉に掛かった。ぎり、と軋みが上がる。
「吾等にはもう時が無い。三位殿は多忙ゆえ、ここは家人の方にお頼み申そう。」
手がすっと退けた。たかだか厚み一寸の扉、それゆえの歯がゆさに、俊成は瞑目して天を仰いだ。
「積年の御教授賜りました御恩、けして疎かにするものではございませぬが、年ごろ続く都での騒動、
国々の擾乱、すべて争端は一門のことでございます。等閑事とはさらさら思わざれど、以前の如く頻々と
足を向けることも叶わず過ごしてしまいました。そしていま、主上はすでに蒙塵し、一門の命運もここに尽
き果てました。」
天から時雨の如く言霊が身に打ち付ける。歌を詠ずるときの、あの細雪の結晶を見るような繊細さは
まるで無かった。だが、その一粒一粒の暖かな水滴が、身を抱きとめる様に覆い尽していった。
「近々撰集の御沙汰あろう由を聴き、歌人と呼ばれし生涯の面目に一首なりとも御恩を被り、撰して頂こ
うと思っておりましたものを、騒乱勃こりてその沙汰も失せたまいしは、我が身の何事にもかえがたき嘆
きでございます。しかしながら、世が静まりますれば、また勅撰の御沙汰がございましょう。」
山の端に日は入りかけ、家人が類焼を憂いて撒いた水が常の青葉の上できらめきとなり、零れては露
地に消える。
「忠度殿。」
呻くようにして石根に崩れ落ちた俊成の顔に雫が降りかかった。
「あれっ。」
がさりと鳴った枝葉の音に、家人たちは何事が飛び来るものと慌てて逃げ出した。緋に染まる庭に落ち
てきたのはいっそう赤い錦の包みであった。
「それにございます巻子の中、これぞと思われるもの、一首なりとも御恩蒙って撰って戴けましたなら草
葉の陰に在りてもうれしゅう存じます。この身、鬼となり果てても、後々まで三位殿をお守りいたしましょ
う。」
包みは早速に解かれ、巻子の緒ももどかしく披いて見れば、百に余る歌の中にいくつも採りたき歌があ
った。命をも顧みず歌で身を立てた証にこの巻子を私に託されたのだ。あたら疎かにはすまいぞ。俊成
は高々と巻子を戴き、感涙に咽んだ。
「確かに、承った。」
「然様か。有難い。」
忠度の声が潤んでいる。その声に涙がとめどなく溢れ出す。
「三位殿。」
小札がざらりと音を立てる。
「この忠度、武士の務めとして日々戦に汲々とするなか、ある日ふっと歌道を欲しました。なぜと申されて
も答えに窮しまする。折しも兄入道の庇護の下、戦も減り、一門は栄え、この無骨者が階位を戴き、また
三位殿に御教授戴けるうれしさに、この平安な日々が続くことを心ならず願っておりました。ところが、そ
うではなかった。『平家にあらざれば人にあらず』などと申す痴れ者が出る、一門の横暴に鬱積した思い
がとうとう爆ぜてしまいました。これも身から出た錆。この度の仕儀でございます。歌を志したからにはた
だ一首なりとも勅撰に撰っていただきたい。」
俊成には忠度が引き戻してきた理由が、最初から分かっていた。それでもなお、会うことがためらわれ
たのである。
「とは名ばかり。もしやこの忠度を三位殿がお救いくださるのではないかと思うておりました。お笑いくださ
れ。この忠度は臆病者なのでございます。初陣より幾年月、鬼神じゃ修羅じゃと恐れられてきたこの忠度
がでございます。武門の家に生まれてより、弓馬の道を口喧しく口喧しく叩き込まれてまいりました。将と
戦い将を討つのは、けして弓馬に優れているからではないのです。生への執着からでございます。生き
たい。死にとうは無い。」
突然の笑い声にも、俊成は身じろぎもしない。
「しかし、それも今日までのこと。もう未練を断ち申した。忠度喜んで西海の藻屑となりましょう。山野に醜
き屍も晒そう。源氏の将兵引き連れて、死出の旅路を囃して行かん。」
日も入り果てて薄墨を引き始めた。
「さらば、暇乞い申して。」
打ち跨る馬が高らかに嘶いた。動の声とともに、蹄の音が遠き、風にのって浪々と野声が聞こえてき
た。
−前途程遠し 思ひを雁山の夕の雲に馳す
「忠度殿。」
俊成は門扉にしがみついた。これほどまでに慕とうてくれた忠度を門前払いにした。自らの後患を避け
るためか、否、そんなことは無い、無いが、ただ一押しすればよいものを、開けることを躊躇い忠度殿に
逢わなかったのだ、そう見られても致し方ない。夜の帳に消え入る影を俊成はいつまでも見送った。
「来訪者にございます。」
「たれか。」
「はい、岡部六野太忠澄と申しております。殿にお渡ししたいものがあるとか。」
俊成は通すように言うと、気鬱そうに嘆息した。
「お初にお目にかかり申す。小野忠澄にござる。」
「して、要件とは。」
「は、然る者より託りお届けものを。」
「其の者とは。」
「薩摩守忠度殿。」
−やはり忠度殿であったか。
あの日より、夕べのことを未だ夢に見ては嫌悪の念に苛まれていた。
「だが、なぜ貴殿に頼まれたのだ。」
「私が薩摩守殿の首級を挙げ申したゆえにござる。」
この者が忠度殿を殺したのか、鬱々としていた想いが喉下まで逆流してきたのをぐっと堪えたせいで、
顔が紅潮する。
「厄無ければ、その最期を語っては貰えぬか。」
忠澄にとっては武功を語るは愧ずところなれど、達てとあらばと、咳を払った。
「その日の忠度殿は赤地錦の直垂に黒糸縅の鎧、兜を着けず立烏帽子を被られて、白鴾毛の馬に雁の
紋を蒔いた鞍を置き、渚に沿って落ちて行かれる様子であった。私は十騎あまりを打ち従え、その後ろ
を追いかけつつ、それに行く将はと誰何した。すると、『これは源氏の軍兵である』との返答があったが、
味方に立烏帽子を被った将は知らぬ。まして鉄漿付けしたものなど、いるはずも無いので、平家の大将
とすぐに知れ申した。すぐさま追っ手をかければ、大将庇わんと三人ばかりが立ち塞がり、二合三合と打
ち合わせる。私はその脇をすり抜け、なおも大将に追い縋った。逃げるは大将ただ一人。私は馬首を並
べかけると、大将の袖を掴んで引き落とし、組討にせんとしたが、さすが大将なり。落ちながらも我が身
に三太刀浴びせかけてきた。郎党も下郎どもを討ち果たし、追っつく途端に大将に打ちかかると、これを
馬手の籠手にて打ちとめる。しかし太刀が勝りしか、腕は籠手とともに切り落とされた。」
よくしゃべるものよ、と半ば呆れた。が、この無粋者の話を聴かずにはおられないのだ。
「大将は叶わないものと思うたか、上に重なる私を軽々持ち上げると『ここから下りよ、六字妙号唱して死
なん。』と抛り投げた。勢い余って十丈ばかり転げたときはさすがに肝を潰した。大将は上帯を切り、具
足を脱ぎ捨てると、端座して西に向かい、苛高に念仏を始めた。私は太刀を構え、首落とす仕草見せれ
ば、『おぬしの手に掛かることは不本意ではない。だからしばらく待て。』と諭された。この期に及んでこれ
ほどの胆の据わったものは只者ではないと改めて誰何したが、『おぬしは相当の痴れ者と見える。誰と
問われて名乗るものか、景気というものを見よ。おぬしには名乗るまい。だが、おぬしはよい敵を得たも
のだ。同じ勲功の者よりよい恩賞を必ず得るであろう。』と申されて、最期に十遍念仏して、『さあ、早く』と
即され首級を上げ申した。帰陣して、こはたれぞと方々に聞き申したが、みな吾妻武者なれば知るもの
もなし。脱ぎ捨てた具足の内に、巻子があり披いてみれば数多歌が書き添えてあった。その中に旅宿の
花と題した歌に、
行きくれて木の下影を宿とせば花やこよひの主なるらし
とあり詠み人忠度としてあった。なるほど彼の者が薩摩守殿であったかと、これで合点した。しかし、この
巻子には宛書があり、三位殿へとある。何、このようなこと申していかさま信じられぬとは思うが、薩摩守
殿は天下の雄にござる。我が手などに到底掛かる御仁ではない。だが、これも宿世。それより無骨者が
仏心を欲して、薩摩守殿のなにがしかの供養となればと今日はお届けに参ったまでのこと。」
俊成は先ほどまでの抑えきれない感情が、すっと解けて消えてしまっていることに気がついた。巻子を
受け取ると、忠澄を慇懃にもてなしこれを返した。
その夜、俊成はいつものように夢を見た。茜の空の下、澄み切った忠度の声が響く。門の石根で顔を
覆い、身じろぎも出来ずじっとこれを聞いていたがふっと門扉に手をかけた。忠度との間にあるこの扉
は、いつもなら二世を分けるミシリとも動かない千引きの岩のような障害であった。ところが、今日に限っ
ては門扉がためらいも無く開くような気がしたのだ。果たして扉は力もいれず、音も無く開いた。転げるよ
うに表へと出ると、そこには黒糸縅の鎧に身を包み、白鴾毛の馬に打ち跨った忠度が莞爾として俊成を
迎えた。懸命に口を動かすのだが、声が無い。
これを見て軽くうなずくと、
「三位殿、そは世の常にございますれば。」
と言い残し、忠度は会釈をした。
−待ってくれ、まだ私の気が晴れぬ。
ひとつ鞭をあてられた馬は、駻馬らしく高く高く嘶き、石畳をがちりと踏みしめると、忠度ともども雲を踏
んで天へと舞い上がっていった。
翌朝参内のおり、門前の石畳を感慨深げに眺めていた俊成の目にとまったのは、蹄の型に落ち窪ん
だ石であった。あえてこの話は誰にも語らなかったのだが、いずれより漏れたものかこの窪石は「薩摩
石」と呼ばれ、歌道を志すものの守り神として崇められていた。ただ惜しむらくは南北朝のころ戦火に紛
れていずれにか失せてしまったという。
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