陸奥小野郷黎明記

 以前、『百人一首と矢大臣山』で書いた矢大臣山は、「小野町ふるさと文化の館」の職員の方にご連絡 頂いた伝承によると、改称は時代不明ながら、坂上田村麻呂の放った矢が落ちた先がこの山であった ので、その矢を祀る『矢大神社』を山頂に建立したことが『矢大臣山』の呼称の始原であるらしい。篁の 『武官装束』の前提とは成りえなかったのは残念。
 ところが、こういう調査をしていると思わぬ拾い物をするもので、ある事に気付いた。矢大神社は祭神 が小野篁だけではなく、「天日和志命(アマノヒワシ・天日鷲命とも書く)」を祀っていたのである。小野町に 伝わる伝承ではこうである。

「矢大神さま」(矢大神社)
桓武天皇の御代、延暦年中、征夷大将軍坂上田村麻呂が奥州のエゾを討伐鎮定したため、人民各々 産業に安ずることができた。大同四年小野篁がこの地に下向して人民に殖産興業を教え、また博学俊 才剛直をもって知られ詩歌に長じ文学をも伝えられた。以後当地方は平和で豊かな農村として発達し た。後の人、その文明開化につくされた遺徳をしのび、命(みこと)が崇敬の厚かった天日和志命(あめ ひわしのみこと)を主祭神として、矢大臣山のいただきに報賽の小祠を建立したが、その後、小野新町 の聖地に奉遷した。俗に篁宮、篁神社とも称したが、明治維新後矢大神社と改称した。『小野町史 民 俗編』

 ゆえにこの神社は天日鷲命を祭る事を目的として建立され、のちに篁を合祀したといったほうが正し い。天日鷲命は天太玉命(アメノフトタマノミコト)の子孫で、天照大神が姿を隠した『天の磐戸』の折には 白和幣(シラニギテ、晒した麻を房状に垂らした幣)をつくり、琴を調べ、『天孫降臨』においては経津主 命(フシツヌシノミコト・天日鷲命を同一視することもある)の尖兵を務め、のちに阿波国忌部の祖となる神 である。忌部氏とは天太玉命を祖とし、中臣氏とともに祭祀を司る一族であり、ゆえに神事に使用される ~器はこの一族が製作することとなっていた。阿波忌部氏は斎部広成(イミベヒロナリ)の『古語拾遺』に おいて「木綿(ゆう)及び麻并び織布(あらたえ)を造る。」と語られ、天日鷲命の子孫として麻を栽培し、 白和幣や麻布を天皇家に奉じることが職掌とした。彼等は天皇の命で渡った阿波国で麻を作り、機を織 っていたのだが、時代がくだると布を作る原料であった麻が和紙の製作に欠かせない植物となったこと から、渡来人たちによりもたらされた製紙技術を阿波忌部氏は体得し、これをも氏職とした。史書には帰 化僧曇徴により推古十八(610)年に紙の製法は伝わったとされるが、それ以前にすでに日本でも知られ ていたと考えるのが自然であるし、白和幣が現在の紙製に変化することも彼等が深く関係していたと見 てよいだろう。
 当時、『統一された』史書の編纂や『氏姓の乱れを糺す』戸籍といった政治的目的、仏教の浸透による 経典仏画の普及が、紙の需要を急速に伸ばし国家事業としての和紙増産が急務となったのである。大 寶律令(702)にみえる図書寮の設置に伴い、官設の造紙施設をおき造紙手四人と、別に紙戸(紙漉きを 家業とする家)を山背国に五十戸置いた。律令と同時に提出された通称『大寶二年戸籍(筑前・豊前・豊 後)』及び『御野(美濃)國戸籍』が正倉院に残されている(形式からして『御野國戸籍』は大寶二年以前の 庚午年籍(670)か庚寅年籍(690)と見られる)が、この料紙はそれぞれ紙質が異なり、特に筑前國戸籍 は九州に特有の赤楮を使用していることから戸籍を提出する国々で自弁していたと思われる。また朝廷 は技術者を諸国に派遣し、良地をもって紙を生産させてその国の庸・調として中央に納めさせることとし た。『図書寮解』宝亀五年(774年)の記録によると、紙の産地として、美作、播磨、出雲、筑紫、伊賀、上 総、武蔵、美濃、信濃、上野、下野、越前、越中、越後、佐渡、丹後、長門、紀伊、近江の十九カ国がみ える。
 さて、さきの『古語拾遺』に忌部氏が阿波から後進地域である東国に渡り、麻の栽培を広めた記述が 見られる。これによれば住処とした地に自らの出身地阿波の名をつけ「安房国」とし、白和幣の原料とな る穀(かじ)を植えた国を「総(ふさ、穀の別称)の国」と呼んだ(「安房」の房もふさと読め、二重に意味を 持たせた命名であったのだろう)。つまりこれが上総・下総国の始まりである。そののち東国に広まった 忌部氏は、毛野一帯にも産地を形成、これは「上野紙」と呼ばれ、「美濃紙」「紙屋紙」と並んで固有ブラ ンドとして珍重された。
 これら忌部氏の足跡を今確認しようとするなら、彼等の奉じていた祖~天日鷲命を祀る神社の広がり を見るのがよいのではないだろうか。彼等は各地に独自のコロニーを作るたびに自らの奉ずる『天日鷲 命』を祭った社を建立していたようで、その数は意外と多い。馴染みがない神様のようだが、「大鳥神社 (鷲神社)」、地方によっては「鷲の宮」という名で存外身近に祀られている神様なのだ。簡易な調査では あるが、天日鷲命が祀られているあるいは祀られているであろう社を書き出してみると、以下のようにな る。

日鷲神社 福島県相馬郡小高町女場字明地
日鷲神社 福島県相馬郡都路村
矢大神社 福島県相馬郡小野町
日鷲神社 茨城県結城市
鷲神社 茨城県那珂郡那珂町鴻巣
鷲子山上神社 栃木県馬頭町矢又
鷲宮神社 栃木県都賀市都賀町大字家中 大同三年建立
鷲宮神社 埼玉県北葛飾郡鷲宮町
先崎鷲神社 千葉県佐倉市先崎
鷲神社 千葉県市原市今津朝山
下立松原神社 千葉県安房郡千倉町牧田
大鷲神社 千葉県栄町安食 939年建立
鷲神社 埼玉県さいたま市南部領辻
鷲神社 東京都台東区千束
大津神社 大阪羽曳野市高鷲
大麻山神社 島根県那賀郡三隅町
高越(コヲツ)神社 徳島県麻殖郡山川町田川
大麻比古神社 徳島県鳴門市大麻町

 他県を意図的にはずしたわけではなく、表でも分かるように発祥の地徳島と関東近県以外にはあまり 祀られていないのである。これらのほかにも千葉を中心に『青麻(あおそ)大権現』の名で石塔を路傍に 立て、祀られていることがある。
 
 矢大神社に話を戻す。この頃の陸奥はといえば、朝廷軍とエミシとの攻防に明け暮れ一進一退を繰り 返していた。朝廷側は軍事力に頼むばかりではなく、懐柔にも努め、徐々にではあるが、前線を北へ北 へと押し込めて行く。ここで懐柔されたエミシ達の多くは「田俘」と呼ばれる里に暮らす穏健派であった (対して山岳に暮らす者を「山俘」という)。エミシの切り崩しが進んだとはいえ、いまだ多くの反抗勢力が 各地に燻っていた東北に激震が走った。坂上田村麻呂である。田村麻呂の出現により前線はさらに北 上、胆振築城、アテルイの捕縛・処刑はエミシの敗北を鮮明にし、八世紀末に至ってはその勢力範囲を 津軽(現在の青森と秋田・山形北部地域)周辺にまで狭められた。
 この事後処理は後年陸奥に国司として赴任した小野峯守が担当したと考えられる。なぜ峯守であった のか。小野氏であるからである。小野牛養の出羽鎭狄將軍派遣、父永見の田村麻呂軍従軍ならびに陸 奥守就任、石雄とその子息春風・春枝兄弟の派兵など、他氏に比べてはるかに奥羽派遣数が多く、実 例には枚挙に暇がない。また峯守は民心掌握に優れていたらしく、太宰大弐のおりには窮民を救う施設 を設置するなど福祉政策をとったことも理由のひとつであろう。伝承では「大同四年小野篁がこの地に下 向して人民に殖産興業を教え、また博学俊才剛直をもって知られ詩歌に長じ文学をも伝えられた。」とな っているが、大同四(809)年といえば篁は未だ七歳である。峯守が陸奥守になるのが弘仁七(816)年で、 大同年間となれば坂上田村麻呂が国司であったと思われ、少々年代に誤差が生じているようだ。
 また、「小野篁がこの地に下向して」という言葉も気になる。この小野郷は二荒山唱導の『二荒山縁起』 の中に見える「朝日長者」の所有地であろう。ここに有宇中将と呼ばれる貴種があらわれ長者の娘と結 ばれ、生まれた子の子供つまり孫が宇都宮大権現小野猿丸である。小野町には、篁が土地の長者の娘 「愛子姫」と結ばれて生まれた子供に「比古姫」と名付け、これが後に小町になったという伝説がある。 (「ヒコ」は男の子「ヒメ」は女の子、小町の欠陥といいアンドロギュノスの香りが…)。貴種流離譚はおお よそ怪物を生み出す。猿丸にせよ小町にせよ、この鄙の地に「稀代の異端児」が生まれたことは確かで ある。
 さらに続ける。「人民に殖産興業を教え、また博学俊才剛直をもって知られ詩歌に長じ文学をも伝えら れた。以後当地方は平和で豊かな農村として発達した。」この一文でふと考えた。果たして小野町で米が できるのであろうか?現在は耕地も多いし、米の栽培北限は品種改良でかなり北上しているが、当時はど うなのかという疑問。陸奥は作物を生産するのにはあまり適しておらず、鉱物以外には産物に乏しい。 「人民に殖産興業」を教えたとすれば、農業ばかりではないはずで何某かの生産をさして興業といってい るのであろう。
 もしや小野氏の誰かが忌部氏を小野町に移植させ、紙造りを広めたのではないか。あるいは忌部氏 が自ら移り住み、殖産興業したものが小野氏の伝承と混ざり合い「篁」の話になってしまったのではない か(神社の分布から千葉からの流れは栃木経由ルートではなく茨城経由ルートで入植していると考えら れる)。現在、栽培の北限は麻が青森県、楮は秋田・山形南部、木綿は福島県までであるから、当時は もう少し北限が南下するであろう(ただし麻については既に『三内丸山遺跡』で種子が発見されている)。 江戸期に発展した「紬(ツムギ)」の類は栃木・茨城両県以北では見当たらないため、小野町ではまして平 安期以前に木綿の栽培は不可能である。楮もかろうじて栽培が出来たらしく、多賀城内から自弁したで あろう楮紙が出土している(反古を漆で固め器としたもの)。のちに上質紙の代名詞となる「陸奥紙」は 『蜻蛉日記』の初出(950頃)に至るまで見られないが、この「陸奥紙」は檀紙と呼ばれる特殊な紙である ことを考え合わせると、麻や楮ばかりではなく北国で入手しやすい新たな原料として真弓を使用したので あろう。紙漉きなど一朝一夕に出来るものではないことから、それまでに下地となる「製紙技術」の流入 が不可欠である。
 忌部氏の入植により小野町に「製紙」という新たな産業が興り、彼等の祀る「天日鷲命」を祭神とした社 が「高越神社」や「鷲子山上神社」のように矢大臣山の山頂に建てられた。これに伝承として語られ始め た「篁下向」にあわせてこれを合祀し、麓に「篁神社」として建てたのではないか。